2020年11月25日水曜日

学生街の喫茶店(振り返ってわかる愛)

 

学生街の喫茶店(振り返ってわかる愛)

 私の中学生の頃のガロというグループの「学生街の喫茶店」といううたがありました。ずいぶんヒットした歌で、私も、よくラジオやテレビで聞ききました。ラジオのリクエスト番組なんかに、はがき出したような記憶もあります。

 その歌の歌詞の中にでも、「あの頃は愛だとは知らなくて、さよならも言わないで別れたよ。って歌詞って歌詞がありますが、今にして思えばなんて、「中学生の私は、どんな思いで聞いてたのかな?」って思います。きっと分けもわかんないくせに、わかったような顔をして聞いていたんじゃないのかな?

 でも今は、ちょっとはわかるような気がします。恋愛経験ということに限っていえばからっきしでしたけれたけど、でも、恋愛経験以外でも、それなりに経験するところもありましたからね。

 たとえば、自分が親になって振り返ってみて、「あのときの親の気持ちはこうなんだったんだろうな。」ってわかるじゃないですか。たとえば、わが家は三人の子供の受験を経験しまた。だから、子供たちには口がすっぱくなるほど勉強しろだの、頑張れなどとハッパをかけてたんですよね。子供のことを心配するからです。

 もちろん、私が受験生の時には、私も同じように親からハッパをかけられていた。そのときは、ちょっとうるさい感じがしていましたが、やっぱり私の親も、私のことをずいぶんと心配してくれていたんですよね。

自分が親になり、振り返ってみて初めて、そのときには十分にわかりきれなかった親が子供を思う気持ちや愛がどんなものであるかということを、本当に理解しわかることができました。

 実はね、私がクリスチャンになろう、聖書の神様を信じようと思ったのは、神様の愛は振り返ってみて初めてわかるんだってことを知ったからなんです。

 私は、中学・高校時代は、映画が好きでね。将来は映画製作の現場で働きたいって思っていました。それで、そういった関係の学校に行きたいと思ってたんです。それこそ、そういった仕事ができれば、食えなくてもいいぐらいに思ってました。

でも、もちろん親からは猛烈に反対されましてた。食べて行けるのか。才能はあるのか。心配の種は山ほどあったと思います。もっとも今にしてみれば、その気持ちもよくわかります。結局、私の場合は道がことごとく閉ざされていったんですね。それこそ、大学はすべって浪人するは、やることなすことことごとく道が閉ざされる。 

そんな時ですよ、教会に行ったのは、そしてその教会で話される聖書の話の中に、神様の愛は、そのときはわからないけれど、振り返ってみてはじめてわかるんだって事を聞いたんです。

そこで、ふと我に返って、そのことを自分のことに振る変えて考えてみたんです。そして「あれも、これも道が閉ざされていった。そんな中で今こうして、ここそのことをふりかえって見ると、今、こうしてここにいるのは、神様が、そのように道を閉ざしながら、自分を導いているのかもしれない。だとしたら、神様の愛が、振り返ってみてわかる愛ならば、その神の愛に賭けてみよう」ってそう思って、クリスチャンになったんです。

クリスチャンになってからも、経済的に苦しいことや、子供の病気、自分の病気、人間関係のもつれや、など挫折やしんどいことは山とありました。もちろん、そのような困難な問題を、「 神が試練としてお与えになった」なんて事はないと思いますし、そのように考えたこともありません。

でも、そのような困難や大変さ中であっても、振り返ってわかる神様の愛を信じ、それにかけて生きてきました。そうやって生きて来て、いま振り返ってみると、そういったさまざまな問題があって、自分の今がある。

 聖書の中で、パウロという人が、「キリストによって、今の自分があるんだ」っていっているところがありますが、まさに「神を信じ、キリストを信じる信仰によって、今の自分がある。本当に神様は、私の人生を導いてくれているんだな」ってそう思えるのです。

 困難や問題の中にいるときは、そこに神様の愛があるなんてわかりもしなければ、感じられるものではありません。でも、神を信じて歩んでいくならば、人生のある時点で振り返ってみるときに、その困難や問題の中でも、私たちを支え、私たちを導いてくださる神様の愛に気付く事ができる。 

 聖書のローマ人への手紙828節には、「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。

 どんな困難な問題や、大変な出来事に出会っても、そこには、私たちを支え、導いてくださる神の愛がある。そして、人生のある時点で、そのときのことを振り返ってみると、問題や困難の最中には、気づかなかった神の愛がそこにある。

その神の愛は、あなたにも注がれているのです。

2020年10月22日木曜日

 

2010月第3主日宗教改革記念礼拝説教「キリストの信仰によって」   2020.10.18. 

旧約書:出エジプト記書243節から9

福音書:マタイによる福音書517節から20

使徒書:ローマ人への手紙319節から13

 

 私たちの教会では、毎年10月の最後の週を宗教改革記念礼拝としています。本来ですと、宗教改革記念礼拝は11月の第一週なのですが、今年は事情があって、宗教改革記念礼拝を行わさせていただきます。もっとも、宗教改革記念礼拝と申しましても、とりわけ何か特別なプログラムをすると言うことではありません。ただ、宗教改革と言う私たちプロテスタントの原点となった出来事を顧みつつ、神の恵みと言うことについて考え、私たちを憐み、顧みてくださった神の愛について思いを馳せたいのです。

 今の高校では、世界史と日本史は選択科目となっていますので、全員が世界史を学ぶことはありませんが、私が中学生や高校生の時には、世界史は必修科目で必ず学ばなければならない科目でした。その世界史の時間で学んだ宗教改革と言うのは、マルチン・ルターと言う人物が、当時のカトリック教会の腐敗に抗議(すなわちプロテスト)した運動であり、そこからプロテスタントの教会ができたのだと学びました。

 ところが、こうして牧師になり、さらに宗教改革期のキリスト教を専門に学ぶようになりますと、中学や高校で学んだことは、決して宗教改革の中心ではなく、宗教改革が起こった本当の原因は、ルターの救いの確信が揺らいだことによって引き起こされた救いに関する教理の理解の違いが問題であると言うことがわかってきました。 

すなわち、人が救われるには、何らかの形で人間が関与すると考えた当時の教会の考え方に対して、ルターは、神の救いの業に、人間は全く関与できないと主張したところから、宗教改革と言うものが始まったというのです。そしてそこから、人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰によってのみ救われるのだという、いわゆる信仰義認と言うプロテスタントの中心的教理が打ちたてられたのです。

そしてその根底には、人間は神の前に徹底的に罪びとであり、神の前では救いに値するような善き業を何一つ行うことができないのだという人間理解がありました。ですから、人が救われるのは、罪に汚れたものが神の義に包まれて、本来は罪によって裁かれるべき者が、罪赦され、義と認められたと宗教改革者であるルターと言う人は言ったのです。 

ですからルターは、カトリック教会は堕落して悪いことをしているから、悔い改めて良いことをしなさいと言って宗教改革を起こしたのではなく、人間は誰しもが神の前には罪びとなのであるから、罪を悔い改めて、罪びとである私たちを包み込んで下さる神の義に寄り縋る信仰をもって生きいていれば大丈夫だといったのです。

みなさん。私たちは、先ほど新約聖書ローマ人への手紙319節から23節をお読みしましたが、宗教改革以後500年間の間、私たちはその箇所を、まさに今申し上げたような理解のもとで読んできたのです。ところが現代になり、いろいろと研究が進み、イエス・キリスト様の時代のユダヤ人の状況や思想、そしてキリスト教の歴史と言ったものが明らかになってきました。それにつれて、どうもこのローマ人への手紙の319節から23節は、それまで私たちが読み込んできた意味とはどうも違っていると言うことがわかってきました。

 とりわけ、みなさんにも、何度も礼拝説教を通してお話ししましたように、21節、22節の

  21:しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしさ れて、現された。22:それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである

という御言葉の「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」と訳されている言葉は、本来ならば「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と訳すべきものであると言われるようになってきました。

つまり、「私がイエス・キリスト様を信じる」という私の信仰を中心に置くのではなく、むしろ、イエス・キリスト様の信仰、それは十字架の死に至るまで神に従い抜くというイエス・キリスト様の信実さなのですが、その「イエス・キリスト様の信仰」が、神の義を私たちにもたらすのです。 

みなさん、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」がと言う言葉が持つニュアンスは、「私」がイエス・キリスト様を信じるという、「私」の主体性に光をあてます。しかし、「イエス・キリストの信仰(信実)による神の義」と言う理解は、どこまでもイエス・キリスト様を中心に置く信仰です。そしてそれはイエス・キリスト様の恵みによってのみ私たちが救われるという、より恵みが強調される信仰なのです。                                              では、なぜ、このイエス・キリスト様の十字架の死に至るまで神に従い抜いた信実な信仰が私たちを救うのか。それは、神の御子であるイエス・キリスト様が人としてこの世界に生まれてから、十字架の死に至るまで、神の御心に添って生きられたからです。 

神のひとり子であられるお方が、神の御心に添って人間の肉体をとり、マリヤを母として人としてお生まれになった。そのご降誕の出来事から、十字架の上で死なれるまで、イエス・キリスト様は人として完全に神の御心に従い、神の御言葉に従って生きられたのです。そしてそれは、神の律法を完全に全うした生き方なのです。

  みなさん、私たちは先ほど旧約聖書出エジプト記243節から8節の言葉に耳を傾けました。これは、奴隷として捉えられていたエジプトの地から、イスラエルの民がモーセによって助け出されたのちに、シナイ山のふもとで神と契約を結んだときのことが記されている物語です。

 イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、神がイスラエルの民の先祖であるアブラハム、イサク、そしてヤコブと結んだ契約の為でした。しかし、エジプトから救い出された人々は、「先祖と神の約束のゆえに」と言うだけでなく、自分たちも神の民として神と契約を結ぶのです。

  みなさん、契約を結ぶ際には、契約を交わす双方が負うべき義務があります。神とイスラエルの民との契約においては、神はイスラエルの民を神の聖なる王国の聖なる民とし、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ祝福の契約を更新する義務を負うのです。そしてアブラハム、イサク、ヤコブと同じようにイスラエルの民を顧み、慈しみ、祝福を与えられる。

 それに対してイスラエルの民は、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」と言った言葉を果たす義務を神にたいして負うのです。そして、この神とイスラエルとの民の契約が、互いの果たすべき義務を双方が負うと言うことを示す犠牲の動物の血を半分は祭壇に振りかけ、残りの半分を民に振りかけてという象徴的行為をもって結ばれたのです 。こうして、この契約を土台に神とイスラエルの民との交わりがそこに生み出されたと言えます。ところが、イスラエルの民は、神の言葉に聴き従うということを誠実に守り行いませんでした。 

 

たとえば、先週、ヨベルの年と言うことをお話しいたしました。神がヨベルの年という規定を設け、50年に一度は、買い取った土地は元の持ち主に返し、奴隷は解放し、負債は全部帳消しにして、いっさいのものを回復しなさいとイスラエルの民に告げたにも関わらす、イスラエルの民がそのヨベルの年を守ったと言うことがないのです。つまり、彼らは、神と人との契約において、約束不履行をしていたのです。そのイスラエルの民の不履行となっている約束を、イエス・キリスト様は完全に神に従い抜くことで全うしてくださったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、先ほどの新約聖書マタイによる福音書517節から20節で、 

私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。

と言われるのです。みなさん、律法とは、神とイスラエルの民との間の契約において、人が守り行うべき神の言葉です。イスラエルの民は、神の言葉をすべて守りますと言いつつ、完全にそれを守ってはいませんでした。それは、律法を廃棄する行為であると言っても良いものです。

しかし、イエス・キリスト様は、ご降誕の出来事から十字架の死に至るまで、神に誠実に従い抜かれたのです。それによってイエス・キリスト様は律法を廃棄するのではなく、成就してくださったのです。このイエス・キリスト様の信実な信仰によって、神はイエス・キリスト様を義となさったのです。 

 このイエス・キリスト様の義が、イエス・キリスト様と一つに結ばれ弟子としてたもの、すなわちクリスチャンとなった者にも与えられるのです。そして洗礼は、そのイエス・キリスト様と一つに結ばれたと言うことの証です。だから、洗礼を受けると言うことは大切なことであり、ないがしろにされてはならないものなのです。

 みなさん、先ほどももうしましたように、今日は宗教改革を記念する礼拝です。そして、その宗教改革の中心にあった信仰義認ということを、こんにち、私たちは真摯な思いで見直す必要があります。

 それは、私が神を信じイエス・キリスト様を信じるがゆえに、罪びとの私が、神の義の衣を着せていただき、義ではないものが義と認められるということではなく、イエス・キリスト様が神を信じ、神に従い抜いて生きられたがゆえに、イエス・キリスト様の弟子となった私たちもまた、この神に従って生きる生き方を生きる者とされたと言うことなのです。

 もちろん、その私たちの歩みは、不完全で足らないものです。その意味では、私たちは不完全な弟子です。しかし、その不完全な弟子であり、不完全なキリスト者に過ぎない私たちを、神はイエス・キリスト様のゆえに、「良し」と認めて下さり、完全な者として、イエス・キリスト様の御足の後を歩む者としてくださったのです。

 みなさん、先ほどのローマ人への手紙の322節には「それ(神の義)は、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」とわれています。そうです。イエス・キリスト様の信仰によってもたらされる神の義は、すべての人に差別なく与えられるのです。すべての人と言うのですから、そこにはあなたも含まれています。そのように神は、階級や身分、立場や能力の違いはあっても、私たちを、そしてあなたを神の前に正しいものとして受け入れて下さり、神の王国の聖なる民として、顧み、祝福へと招いてくださるのです。

 そのことを覚えながら、今しばらく静まりの時を持ち、イエス・キリスト様の信仰のゆえに、私たちを受け入れてくださる神の恵みに心を向けたいと思います。静まりの時を持ちます。

2020年10月13日火曜日

さあ、帰ろう

 

「さあ、帰ろう」

 みなさんは、音楽はお好きですか。 じゃぁコンサートなんかは?

 私の教会では、かつては毎年チャペルコンサートを行っていました。今は、残念ですが毎年行うというわけにはいかなくなりましたが、それでも、時々行っています。コンサートでピアノを使う時には、必ず、調律師さんにピアノの調律を頼むんです。

 あるとき、その調律師の方に、調律を頼まれるときに、「こんなふうにしてくれ」とか「あんなふうにしてくれ」って言うような注文がつきませんかって聞いてみたんです。そしたらね「やっぱりありますよ」って言っておられました。たとえば、国際基準ラの音は、一秒間に440回、ピアノの弦が振動する野が基準なんだそうです。ところが、多くの音楽ホールなどは、442回に設定しているというこのなのです。どうやら、この方がきれいに聞こえるらしいのです。

ところが、ヨーロッパでは、445にするところも多いらしいのです。ですから、ヨーロッパからきた音楽家おなかには、らの音を445にしてくれっていう注文があるそうです。しかし、日本のホール備え付けのピアノなどは、442にしてずっと使っている。それを、445にしても、その楽器はあまり響かないそうです。なぜなら、それはその楽器の本来のあるべき姿は442であって445ではないからなのです。

 たった1秒間に3回の違いでも、その楽器の本来あるべき姿でなければ、よい音を奏でられないですね。おなじようなことは、人間についても言えると思うのです。つまり人間も、私の本来あるべき姿にあってこそ、その人は自分らしく輝いて見えるのではないかと思うのですが。どう思われるでしょうか。

 聖書の一番最初にある創世記には、神様が人間を創造さら、世界を創造されたとき、それらは、はなはだよかったって書いてあります。まさに、神が作られた本来の姿は、実にすばらしいものだったんですね。

 けれども、どうでしょうか。実際の人間の姿を見ていると、本当に「はなはだ良い」と言えるかなと思うと、必ずしもそう言えないような気がします。もちろん、人間ってすばらしいなって思わされるようなこともいっぱいあります。、反面、人間の嫌な面、醜い面もいっぱい見ることがあるのではないですか。私自身が自分自身を顧みても、自分勝手で、汚い、小ずるいところなんかあって、自分で自分が嫌になってしまうようなときがあります。それは、まさに人間としてとしてのいやらしい部分であり醜い側面です。

  そんな時は、本当に、人間がはなはだ良いものだとしたら、「どうしてこんなふうになってしまったのだろう」って悲しくなるような感じです。それこそ、神様が人間をお造りになった、その人間の本来あるべき姿が、はなはだ良いものだとしたら、なんて遠くかけ離れてしまった存在になってしまったのでしょう。

 できることなら、神様が最初に作られた特に、はなはだよかったって言われる、人間本来の姿に帰って、輝きたいなってそう思います。

私たちは、本来あるべきところからかけ離れて、遠くまで迷い出てしまった。だとしたら、もときた道を帰っていかなければなりません。でも、迷い出てしまった私たちは、いったいどの道を帰っていけばいいんでしょう。

聖書には、「私は真理であり、道である。」といわれるキリストの言葉が書かれています。つまり、本来のあるべき姿に帰る道、きた道を正しく帰っていくには、キリストというお方によらなければならないというんです。そしてそれは、キリストによって示された神の愛に触れ、私たちが心から神を信じるところから始まるのです。神は、自分勝手、汚い、小ずるい私までを愛し、包んでくださいました。その神は、あなたも愛し包もうとしておられます。そしてその愛は、私たちを包み込むだけでなく、私たちをキリストに似せたものに変えてくれるのです。

ですから、キリストを信じて、あなたも、本来あるべき姿に向かって、私は道であるというイエス・キリストを信じて生きる道を歩んでいけばよいのです。

2020年9月23日水曜日

あなたに注目

 

あなたに注目

 

学生時代に、濱、「お前名脇役だな。」って言われたことがありました。別にお芝居をしていた分けじゃないんです。遊びでもなんでも、いろんな場面に、いつも顔を出していて、いなきゃ困るんだけど、決してその場の主役ではない。これがお芝居なら、名脇役って言われたら、それは優れた演技派の俳優だって意味ですから、「名脇役」って呼ばれても胸を張ることもできます。でも、たとえ名脇役と言われたとしても、脇役は脇役である以上、要は引き立て役なわけですから、なんだか、ちょっと寂しい感じがすると言う人もいるかもしれません。人間は誰しも、その場の主役になって、みんなの注目を浴びてきたいなんて、気持ちが心のどこかにあるのかもしれません。

 さて、「お前、名脇役だな」と言われた私も、一度だけ主役になったと思ったことがあります。なんだと思います。結婚式ですよ。だれでも結婚式のときだけは主役になれる。ところがね、後からビデオを見てわかったんですけど、結婚式で注目を浴びているのは、新婦の家内だけ。誰も新郎の私になんか注目していないんですね。ここでも、やっぱり脇役でした。まぁ、結婚式に来てくれた人は誰も、私には注目してくれませんでしたが、でも、家内だけはちゃんと注目してくれていたんだろうと思います。

注目するっていうことは、関心を持って見られると言うことですよね。関心を持つからこそ、他の人ではない、その人の事をじっと見つめる。そのときに、その人は、その他大勢のではなく、まさに関心のある「あなた」という存在になるんですよね。

旧約聖書には「十戒」と呼ばれる、神が人間に与えた十の戒めが記されています。

そこには、「あなたは、わたしのほかに、なにものを神としてはならない。」とか「あなたは人を殺してならない。」とか、「あなたは、みだりに神の名を唱えてはならない」ってことなどが書かれています。

でね、前島誠って人が、「ユダヤ人最高の知恵」と言う本で、この「十戒」が、みんな、あなたと言う呼びかけになっている事に注目しましてね、次のように言うんです。 

「あなた方は・・・・してはならないではなく。あなたはしてはならない。譬え他の人が殺そうとも、他人はどうであれ、あなたは殺してはならない。他人が何をやるかが問題ではない。あなたが問題なのだ。」 

それ読んでいて、なるほどなって思いました。十戒って言うのは十の戒めでしょ。ですから言うなればそれは規則のようなものです。

普通、規則というものは「みんな、これはしてはいけないよ。みなさんはこうしましょうね。」といった具合に、その集団にたいして与えられるものです.もちろん、その集団の中に、私が入っているならば、私も、この「みなさん」の中の一人であることはまちがいありません。

でも、「みなさんは、このようなことをしてはいけませんよ。」だと、私も他の人と同じみんなの中の一人でしかありません。私が、「みなさん」と呼ばれるとき、その人は私という存在に注目し、関心を注いでくれているのではないのです。 

神様は、私を「みなさん」という集団のひとまとめにして、それこそ一山いくらのトマトのようにあなたや私といった存在を見ているのではないのです。たとえ集団の中の一人にしか過ぎないようなものだと自分で思っていても、神様は、いつも私という一人の存在、あなたという一人の存在に心をかけ、目を注いでおられるのです。

だから、みんなに語りかけた規則である十戒においてですら、「あなた」って、そう呼びかけられるんです。 

今日も、神様は、30億人もいる人間の中で、あなたに関心を注ぎ、あなたという人物の注目しておられるのです。

2020年8月24日月曜日

真価が問われる信仰

    真価が問われる信仰


 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。           テモテへの第2の手紙4章2節


 上記の御言は、使徒パウロが彼の弟子であるテモテに宛てた手紙の中にある一節です。ここで言われている御言葉とは、いったい何を指しているのか。私たちは、御言というと、すぐに聖書を思い浮かべますが、パウロの時代には、まだ新約聖書は成立しておらす、聖書と言えば旧約聖書を指しています。

 パウロは旧約聖書を決して軽んじめてはいません。神の言葉であり重要なものだと認めています。しかし、それ以上に重んじられたのがイエス・キリスト様ご自身であり、またイエス・キリスト様が伝えられた神の王国が到来したという福音でした。そして、イエス・キリスト様を主と告白する者は、このお方に繋がるキリスト者としてイエス・キリスト様の生き方に倣って生きることなのです。

 ですから、ここでパウロが、「御言を宣べ伝えなさい」と言っているその「御言」とは、イエス・キリスト様ご自身のことであり、またイエス・キリスト様がもたらした神の王国の到来を告げる福音であり、また、イエス・キリスト様に倣って生きるキリスト者の生き方なのであると言えます。それを、「時が良くても悪くても」しっかりとやりなさいとパウロはその弟子に伝えるのです。

 今、私たちが置かれている新型コロナウィルスの世界的感染拡大状況は、キリスト教の信仰においては最悪の事態であり、最悪の時です。それは、私たちの教会だけでなく、多くの教会が礼拝を自粛しているということが明らかにしている事実です。

しかし、そのような最悪の時であっても、私たちは、キリスト者としてしっかりと生きることが求められています。最悪の時でもキリスト者としてしっかりと生きる。それは、このような最悪の事態であっても、喜びを持って神を礼拝し、互いに祈り合い、支え合いながら生きることです。幸いなことに、現代はインターネットなどの様々な通信ツールがあり、印刷物を造り送ることができる通信システムが発達しています。ですので、かつて中世の時代にペストが流行した時代のように、感染症で人々が分断されることなく、パソコンやスマートホン、あるいは郵便を通して、教会に集まり公の礼拝を守ることができなくても、様々な工夫をし、ともに礼拝に与ると言うことができます。

 もちろん、それらは、代替品であって完全なものではなく、不十分なものです。ですから、それで満足していいと言うものではありません。教会は、神と私たち一人一人の個人の交わりだけではなく、神の民である私たち一人一人の共同体の交わりでもあるからです。また、礼拝堂での公の礼拝は家庭という中では再現し難い、神の王国に呼び集められた神の民の交わりを表現するものであり、この世界に内在する神の王国の持つ超越的側面を顕ものなのです。ですから、私たちは代替品ではなく、本来あるべき姿の礼拝堂の公の礼拝に集うことを待ち望まなければなりません。代替品を本物にすり替えてはならないのです。
 ですから、共に礼拝堂に集う公の礼拝が再開することを待ち望むという待望の思いを持って、今の「時が悪い」状況にあって、ネットや郵送される週報や説教原稿を用いながら神を礼拝し、このような「時が悪い」状況にあっても、何とか神を礼拝するめぐみの中に置かれていることを喜びながら、再び共に教会の礼拝堂で共に祈り、賛美し、神を礼拝する希望を持って歩んでいきましょう。今、私たちの信仰の真価が問われているのです。


2020年7月20日月曜日

本物に近づく


「本物に近づく」

徳島県の鳴門市に、大塚美術館っていう、ちょっと変わった美術館があるんですが、知ってます?
 この美術館ね、何が変わってるかって、世界中の名画が展示されているんですが、全部にせ者なんです。実は、世界の名画を、特殊な技術で、陶器に焼き付けて再現してんです。私も行ったことがありますが、でもね、全部にせ物だったって、十分見る価値ありますよ。なんってたって、ここのすごいところは、本物に限りなく近いだけでなく、その展示空間まで再現してるんです。

たとえば、ミケランジェロの最後の審判など、それが描かれているシスティーナ礼拝堂そのものが再現されています。また古代カッパドキアの洞窟の礼拝堂の壁画もなんかも、洞窟そのものが再現されているんですよ。すごいでしょ。
 結局、この美術館は、いかに本物に近づけるかってことが、ひとつの重要なテーマになっているのかもしれませんね。これって、私たち人間の人生にも通じるようなテーマじゃないかなって、そう思うんです。つまりね。いかに、自分を自分らしく生きるかってことなんです。

私たちは、案外自分は、このままでいいのかなとか、もっと違っ人生があったんじゃないかなって、思うことあるんじゃないんでしょうかね。どうですか?それは、結局、自分らしさってことを考えていることでもあるんですね。もっとも自分らしい自分、つまり本当の自分は何なのかを、考えているってわけです。それってね、人生の目的や意義は何かってことだと言い換えられと思うんですよ。

こんな思いが、煮詰まってくると、人間はどこから来て、どこにいくのかっていう、宗教のテーマになってきます。そういった意味では、案外、私たち一人一人、だれもが宗教的な人間だって言えるのかもしれませんね。
でも、それでもやっぱり人生の目的や意味は何かって話は、あまりにも大きすぎて、それこそ、哲学者や宗教家が考えてくれって言いたくなっちゃいますよね。取り合えず、私たちには、一日一日が充実し、喜びと満足できるものでありたいってことが第一歩ですよね。でも、その小さな事が確かに大切です。

教会の礼拝の最後には、祝祷と言われるお祈りがあります。この祈りは、これから礼拝が終わって、一人一人が、神から、家庭や学校、職場に使命を持って派遣されていきますから、どうぞ神が祝福を与えて下さいって言う祈りです。
 あなたが、いま生活しているその場所に、神から使命を負って派遣されている。そこに、あなたにしかできない神から与えられた大切な働きと役割があるからです。そのような、大切な働きと役割を神が、あなたにお与えになっている。それは、あなたが、その使命を果たすのにふさわしい人だからです。 
この神の使命に、派遣されるのは、教会の礼拝の祝祷からです。ですから、あなたも、教会の礼拝においでになり、神の使命を受けて、あなたの生活の場に派遣されて生きませんか。

2020年6月19日金曜日

「安心を与える言葉」


              「安心を与える言葉」

ちょっと昔の話になりますが、一種の不眠症のような感じで、十分に眠れない時期があったんです。眠っていても、半分起きているみたいで、寝ているのか寝ていないのか、よくわからない感じ。じつはその時期、ちょっとした心配事があったからなんです。 
心配事がある時って、なんだか心がわさわさと騒いで、不安で、どうしようもなかったりするじゃないですか。考えてみてもしょうがないのに、ついつい考え込んで眠れなくなっちゃう。そんな感じだったんですね。

ところが、新約聖書のヨハネによる福音書の14章で、キリストは「あなたがたは、心を騒がせてはいけません。神を信じ、わたしを信じなさい。」と言っているんです。

不安なときに、心を騒がせるなって言われてもね。それができないから、眠れないでいるわけでしょ。随分無茶なことをいうなって、そんな感じがします。

でも、考えてみますとね。あながちそうとも言えないような気もします。

というのも、私の友人がこんな事を聞かせてくれたんです。それは、彼が、ちっちゃい頃に、迷子になったって話なんでした。彼は、何人かの友達と、言ったこともない遠くまで冒険しに時に、友達とはぐれてしまって、ひとりぼっちになっちゃったんですって。

はじめての場所で、迷子になって帰れなくなってしまった。彼はだんだん不安になってきて、涙がポロリポロリ。とうとう最後は「わんわん」と泣き出したんだそうです。 
そのときに、一人の人が「どうした。迷子か」って声をかけてくれてね、「家の電話番号わかるか。」って聞いてくれたんですって。それで電話番号を教えると、家に電話をしてくれた。 
その人は、一通りの事情を説明すると、「ほら、お父さんだよ。」って受話器を渡してくれた。その電話口の先でね、お父さんが「大丈夫だよ、心配するな。すぐ迎えに行くから」ってそう言っている。彼はね。その声を聞いて「ホント安心した」って、言っていました。

どんなにたくさんの慰めや励ましの言葉が、何の役にたたないこともあります。反対に、ほんの一言でしかないのに、不安や恐れで荒波のように騒いでいる心をほっとさせ、いっぺんに安心させてしまうことってあるでしょ。

私の友人が「大丈夫だと、心配するな。すぐ迎えに行くから。」っていう短い言葉で、安心することができたのは、それが彼のお父さんの言葉だったからです。 
つまり、自分に愛情を注いでくれている親の愛情とその父親に対する信頼が、彼の心を鎮め、安心させてくれたってことなんでしょね。

聖書は、私たちの心にいつも語りかける神様の言葉です。ですから、今日、あなたに、神様があなたを愛しているってことを知ってほしいんです。そして、その、あなたを愛する神様を信頼して欲しいなって、そう思うんです。 
そしたら、きっと、聖書を通して語りかける神様の言葉が、あなたが不安なときにも、あなたの心から不安をかき消してくれるだろうってそう思います。そして、安心で一杯に満たしてくれる。まさに「心を騒がせなくても良く」なるんですね。その神様が与える、安心で満たされる心を、あなたにも手に入れて欲しいなってそう思います。

2020年6月12日金曜日

会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

        会堂に集まる公同の礼拝はネット礼拝の補完か

私たちの教会でネットを通じての礼拝が始まって3ヵ月が過ぎた。1年の1/4である。しかし、ようやく7月からは、3回に分散する形式であり完全に元の形ではないが、会堂での公同の礼拝を再開する。
もちろん、まだ教会に来ることに不安を感じている方々や、様々な事情で教会に来ることが困難な方のためにネットでの礼拝や説教原稿と式次第をあらかじめ送るということは続けていく。しかしそれは、公の礼拝に来ることができない方のための、あくまでも補完である。

 この新型コロナウィルスの災禍によって、教会でのネットの活用が一気に進み、ネットによる礼拝のライブ配信や録画配信が多く用いられた。
 一部には、これからの礼拝の形式としてネット礼拝を考える必要性がある声も聞こえる。その時に、会堂に集まってなされる公同の礼拝はどうなるのだろうか。ネットを見ることの出来ない人たちのための補完として会堂に集まっての礼拝が行われる。そんな理解が生まれてくるのだろうか。
 私としては直観としてネット礼拝というのは礼拝の本来あるべき形ではないと感じている。
 神学するとは、この直観をテーゼとして、その直感が如何に筋道を立てて論証していくかという作業でもある。そういった意味で、この新型コロナ災禍の中で、礼拝についてあれこれ学ぶ機会があら得られたのは幸いな事であった。そして、その学びを通しつつ直観は正しいのではないかと感じ始めている。
 公同の礼拝は、会堂に集まって行われるべきもので、ネット礼拝はあくまでも補完である。

2020年6月3日水曜日

ポストコロナにおいて学ぶ礼拝


 ポストコロナにおいて学ぶ礼拝

 この新型コロナウィルスの騒動は、教会に大きな変化をもたらすのではないかと言うことが言われています。とりわけ、この騒動によって各教会がネット礼拝というものを導入し、今後はネットを通じた礼拝というのが主流になるのではないかという意見もあることは、以前にもお伝えした通りです。
 そんなわけで、私は今、教会の礼拝の歴史や東方教会の伝統にある教会の礼拝(奉神礼)やカトリック教会の礼拝(ミサ典礼)、そしてプロテスタントの教会の礼拝など色々調べ、学んでいます。
 そのような中で、気が付くことは、東方教会(正教会)やカトリック教会の礼拝は、共通している部分も多く、また古代からの礼拝形式をしっかり受け継いでいるのに対し、プロテスタントの多くの教会は、宗教改革以後、とりわけカルヴァンの改革以後、その礼拝の形式をガラッと変えてしまったと言うことです。
たとえば、それは式次第においてはっきりと表れています。東方教会の奉神礼にしてもカトリック教会のミサ典礼にしても、神が語るという部分と、その語りかける神に対して、最高の奉仕を捧げるという、神の語りと応答ということが式次第の中ではっきりしているのですが、プロテスタントの教会は、神が語られると言うことに重きがもたれ、その神の語りかけに対して、私たちが犠牲をもって神に応答すると言う面が弱いと言うことです。聖餐式でさえ、神の恵みの手段であり恵みの経路であって、東方教会やカトリック教会のように、(人となられたイエス・キリストが捧げられた)最高の奉仕の捧げものとはなっていません。
 これは、ただ神の恵みのみを強調するプロテスタントの特徴のゆえであろうと思います。もちろんそれは、大切なことではありのですが、神に対して犠牲を払ってでも応答するという信仰も見落としてはなりません。では、プロテスタントの教会においては、その犠牲はどこで払われているでしょうか。それは決められた時間に教会堂と言う決まった場所に出かけていく時間と労力という犠牲を払い、そして献金を捧げるという金銭的犠牲を払うことの中に見出せます。言葉をもって「神かく語れる」という神の語りに犠牲を持って答えるという応答が、これらによって示され、礼拝の本質の一つの応答という側面が実践されるのです。我々は、ここのところを見落としてはならないのです。
 もう一つ、正教会やカトリック教会とプロテスタントの教会との違いは、祈りと賛美において顕著に表れています。正教会やカトリック教会の礼拝は、全体として音楽が中心に行われ、祈りと讃美が詠唱という形で密接に結びついています。それは、音楽(旋律)をもって礼拝を進めることによって、神というお方を言葉だけでなく、五感を持って感じるように意図されているからです。
 神は、言葉では語りつくせないお方であり、神の世界は言葉では語りつくせないものであるから、音楽や美術(ステンドグラスや装飾品)、司祭の服装や香の香りなどを用い、言葉にできない神の秘儀を五感で伝えようとしているのです。教会堂が荘厳な造りになっているのもそのためです。教会堂に来れば、「この世」での日頃の生活とは全く違った空間がある。そこで、日常の違ったとは全く違った時間を過ごすことで、私たちの日常を超えた神の世界を五感で感じとる。私たちプロテスタントは、言葉によって神を伝えることに重きを置きすぎて、この事を置き去りにしてしまったのかもしれません。
 だからこそ、私たちは、今の日曜日の主日を家庭で礼拝をしているという現状は、けっして好ましい状態ではないと言うことです。礼拝は、「この世」ならざる神の世界を感じるときです。日常を超えた神の世界を経験し、それを日常の生活の中に生かしていく、そこに礼拝の意義の一つがあります。
 それを考える新型コロナウィルスがもたらした異常事態です。その事を覚え、新型コロナ以後に、再び礼拝が回復されると同時に、礼拝の本質、それはキリスト教の本質なのですが、そのキリスト教の本質を表す礼拝を持っていきたいと思います。それは、私たちは、私たちの言葉では言い表せないお方を礼拝し、私たちの言葉による認識では知ることの出来ないお方を感じ取っているのだと言うことが著されている礼拝です。

2020年5月29日金曜日

変わらないもの


                変わらないもの

 この新型コロナウィルスによる一連の騒動は、私たちの生活に大きな変化をもたらすのではないかと言われています。そして、それは教会の在り方にも変化をもたらすと言う声も聞こえてきます。たとえば、このみんなが公の礼拝に出席することを自粛する中で、これからの無理に会堂に行かなくても礼拝は、ネット礼拝でも十分やって行けるし、交わりもネットでもできるのではないかといった意見も出てき始めています。
 もちろん、そのような意見に反対する意見も多くあり、ただちにキリスト教全体が、ネット礼拝に移行するということではないでしょう。礼拝というのは、私たちキリスト者の信仰生活の中心にあることですので、教会とは何か、また礼拝とは何かと言うことを十分に検討し考えることなくして、そのような重大な変更を行うことは、キリスト教の本質を損ねることにもなりかねません。だから、慎重に考えていく必要があります。
 そのような中、カトリック教会は礼拝(カトリック的表現では典礼)をどう考えて来たのか、あるいは正教会(ロシア正教など)は、礼拝(正教科の表現では奉神礼)をどのように捉えているかについて、学びつつ調べています。
 その中で分かったことは、カトリック教会も正教会も、礼拝において神の御言葉に耳を傾け、説教の言葉に耳を傾けるだけでなく、聖餐も説教と同じように、またある意味、聖書朗読や説教以上に礼拝において重要な役割を負っていると言うことです。また、賛美もプロテスタントの教会以上に用いられています。それは、礼拝全体の雰囲気を通して、五感のすべてを通して、神の臨在を感じ取り、神の存在に触れようとするためです。
 ただ、神を知性によって知る(知解)のではなく、五感を通して全身で神に触れあうことで神というお方の存在と交わろうとしているのです。
 私たちプロテスタントは、聖書主義に立ち、聖書という神の言葉を尊び、聖書の権威の前に頭を垂れてきました。それは決して悪い事でないのですが、そのために神を知ると言うことが、聖書を読み、そこから知識や知性によって理解するという面が強くなり、古代の教会から受けついてきた全身で神と交わるという側面が弱くなっていることは否めない事実です。
 しかし、この新型コロナの騒動の期間を通して、私は、改めて聖餐式の大切さを教えられましたし、賛美の重要性を学びました。そして、一日も早く、みなさんと共に聖餐のパンとぶどう酒に与り、また共に賛美したいという願いがより強くなりました。

2020年5月22日金曜日

共に集まる共同体の礼拝


             共に集まる共同体の礼拝

東京の一日の新型コロナウィルス感染者数が、一桁から十人弱といった数になり、全行的もの非常事態宣言が解除される地域が多くなってきました。これも、みなさんの努力が実を結んだ結果です。礼拝に期待、会堂に集まり、共に賛美したい、祈りたい、そして聖書の言葉に耳を傾け、説教を分かち合いたいという思いを我慢して、家庭礼拝を守ってこられた賜物だと思います。
残念ながら、首都圏はもう少し緊急事態宣言が続きます。ですから、まだしばらくは礼拝の自粛を続けなければなりませんが、このような状況も必ず終わりが来ます。ですからもう少しの間、共に頑張りましょう。
この期間中、私は何冊かの本を並行して読んでいますが、その中に『古代キリスト教典礼史』という本があります。ユングマンという人が書いた古代のキリスト教がどのような礼拝をおこなっていたかということに対する研究書です。
ユングマンは、その書のなかで、「初期のキリスト教は、共同の礼拝のために定期的に集まることが重要だと強調していた」と言います。そして初期のキリスト教徒たちは「自分の家で祈ることはできたし、そこで感謝の祭儀(濱註:聖餐式)にも参加できた。しかし、キリスト者は、けっして自分たちの集会をやめなかった。毎日曜日、(濱註:迫害のための)生命の危険を冒してまで、感謝の祭儀を共に祝うために集まった」と記しています。
 今、私たちは残念ながら共に集まり、共同体の礼拝をすることができず、聖餐を分かち合うことができません。初期のキリスト者が「毎日曜日、(濱註:迫害のための)生命の危険を冒してまで、感謝の祭儀を共に祝うために集まった」ように礼拝をすることができていません。
 それは、迫害のために自分の命が失われるという恐れの為ではありません。むしろ、私たちが人に感染させ、苦しみを与える可能性があることを覚え、その危険性を避けるためです。しかし、いつまでも今のままでいいわけではありません、近い将来、ある程度感染の広がりがおさまったならば、またともに集まって礼拝をおこないたいと思います。古代の殉教者の一人が言ったように「感謝の祭儀(聖餐式=礼拝)なしに、私たちは生きられない」からです。
 その際にも、感染防止のための注意が必要です。必ずマスクをし、喚起に気を付け、賛美の歌い方や聖餐の持ち方にも注意を払う必要があります。でも、そういった注意を払いつつ、共の集まり共同体の礼拝をおこないたいと思っていますし、そう遠くない時に、そのような時が来ると信じて待っています。

2020年5月15日金曜日

困難は特別ではなく、神の恵みも変わらない


 困難は特別ではなく、神の恵みも変わらない


 今、私たちは、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐため、様々な活動を自粛するというある意味、自制を強いられています。そして、教会もまた様々な悩みや苦闘の中にあります。

 そのような状況ですので、新型コロナウィルス感染拡大状況下での様々な説教が語られてています。そして私も、そのような説教をなさせていただく機会がありますが、あとでそのときの説教を、後でビデオ見直してみたり、説教原稿を読み返してみたりすることが合います。

 しかし、新型コロナウィルスがもたらす様々な苦難や苦闘、そして不安と言ったことを意識しているのですが、何か特別なことを語っているというわけでもなく、普段の礼拝でお取次ぎしている説教と、根本的な部分ではとりたてて違わないことに気付きます。

 結局、特別に新型コロナウィルスがもたらす問題といったことを意識をしなくても、わ私たちは、普段から様々な問題や課題、また悩みの中で、痛みや不安を抱えながら生きているのだなと思われされます。そして、どんな時でも、神の言葉は変わることなく私たちに神の恵みを語ってくるのだと思わされるのです。

 一昨日、ある方々とインターネットでA.ヘッシェルという人の『人は独りではない』という本についていろいろと話をしていました。このヘッシェルというユダヤ教のラビであり宗教哲学者のことは、私も説教の中で何度かご紹介したので覚えておられる方もおられるかもしれません。そのヘッシェルが、『人は独りではない』という本の中で、このようなことを言っています。

   神について考えることは、彼を私たちの心の中の対象として見つけることではなく、神の中に自分自身を見つけることです。彼は(私たちを)知っておられるお方であり、私たちは(神に)知られています。(私たちが)神を考えることは、彼が主体であり、私たちがこの目的であることによって可能になります

 すこし、難しい言い回しですが、要は、私たちが神についてあれこれ考えたとしても、私たちが考えられる神の姿は、私たちのことを心配し思いやって下さる神様の姿だけなのだと言うことです。そして、私たちが神に語りかけるのではなく、神の方が私たちに語りかけてくださるのだとへッシェルは言うのです。
 私たちは、この新型コロナウィイルスの感染拡大のため、多くの我慢と犠牲が強いられています。そのような中で、「神様、なぜこのようなことが私たちに起こるのですか」と語りかけ、問いかけたい思いになります。
 N.T.ライトという神学者は、そのような問いかけをしても、その答えは分からないといいます。ただ、大切なのは「神様、なぜこのようなことが私たちに起こるのですか」と問いかけたくなる状況の下で、神の前に私たちがいかに生きるかが問われているのだといいます。まさに、ヘッシェルが言うように、神に問いかけ、語りかけるのではなく、神が私たちに語られることに耳を傾け、神の語りかけに従って生きることが大切だと、N.T.ライトは訴えるのです。
 教団の求めに応じて、コロナウィルスで苦闘する牧師や教会のための特別な説教をかたっても、神が私たちに語りかける言葉は、恵みにあふれた愛と慈しみに満ちた言葉なのです。
 まだ、しばらくは忍耐の時が続きます。しかし、神は、いつでも、どんな時でも、愛と慈しみに満ちた恵みの言葉を私たちに語りかけてくださっています。そのことを覚えつつ、この忍耐の時を、感謝をもって過ごしましょう。

フィリピの信徒への手紙(口語訳ピリピ人への手紙)2 6節から8

   6:キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執ししようとは思わ
  ず7:かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿
で現れ 8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

2020515

2020年5月10日日曜日

コロナの先に何が見える


 コロナの先に何が見える


 政府より、正式に緊急事態宣言の5月中の延長が発表されました。これによりまして、教会の公の礼拝も、5月中は自粛することになります。6月の予定はまだ決まっていませんが、周りの状況を見ながら、公の礼拝に集うことを再開したいと願っています。
 ただ、教会の宣教を考えると、近隣の方々の理解をいただくことも大切なことなので、よく注意して、時期や再開の仕方を考えなければならないと思っています。早く公の礼拝を再開したいと言う気持ちがはやり、教会の近隣の方に不安を与えるようになってしまっては大変です。大阪府知事ではありませんが、集会の自粛の再開に向けてどのような出口対策を取るかが課題になっています。
 教団の事務所も5月一杯は閉じられることになり、いろいろと支障が出ることも考えられますが、現在の状況下ではやむを得ません。
 今回の新型コロナウィルスの世界的な流行を、14世紀の中世のヨーロッパのペストの流行に譬えて報道されたものをいくつか見かけました。私自身も、確かに似たような一面があるように感じています。
 もちろん、中世という時代背景は、今のような衛生状態ではありませんし、医療の内容も技術も格段に違っていますから、単純な比較はできませんが、人々がこぞって、この疫病に対して恐れや心配を感じており、多くの社会機能が停止してしまっていると言ったことなど、似たような一面も確かにあると言えます。
 その中世のヨーロッパでペストの流行もやがておさまり、ペスト騒動もやがて去って行きます。そしてペストが去った後のヨーロッパに何がやって来たかといいますと、ルネッサンスです。ルネッサンスというは、古典復興という文学的運動ですが、それに限らず人間とは何かを追求し、人間の可能性や尊厳性を評価し、人間の価値を認める運動です。
 中世ヨーロッパに人々は、苦しい出来事を通ることによって、自分たちの内側にある尊いものに目を向け始めたのです。
 今回の新型コロナウィルスに伴う自粛は、一人一人にとっても大変な試みですが、教会にとっても試練です。でも、この試練を通して私たちは、もう一度、教会とは何か、礼拝とは何かを考え、教会の持つ素晴らしさや、公の礼拝に共に集うことに意義と大切さを学び始めています。そしてそれは、私たちの信仰にとってとても大切なことです。。
 まだしばらくは、公の礼拝への出席の自粛が求められます。本当に大変なことで、みなさんにも、様々なストレスを書けていると思います。しかし、この時にしっかりと忍耐し、この事を益と変えて、より善い教会を築き上げる礎としましょう。

それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(ローマ人への手紙/5 3節から5節)

2020年5月2日土曜日

分断ではなく穏やかな心をもって


分断ではなく穏やかな心をもって

 ゴールデンウィークに入りましたが、世の中はStay Home(ステイホーム・家で過ごそう)ということで、外出を自粛する日々をですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 教会での礼拝出席も、信徒の皆様に自粛をお願いして2か月近くなろうとしています。しかし、いつこの状態が解消されるかは、いまだ目途が立たない状態ですし、政府の緊急事態宣言も延長される方向にあると聞きます。ですので、私区たちの教会では、更に礼拝出席への自粛をいたします。。従いまして、次週(510日)の礼拝も、各自家庭で礼拝を守る形で行ってください。
先週は、礼拝の動画を挙げる際にミスが起こり、礼拝の動画を挙げる時間が25分ほど遅くなってしまいました。みなさんにご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ございませんでした。今週は、通常通り10時半には見られるように努めますのでよろしくお願いいたします。

 この新型コロナウィルスという疫病が世界中に広がっている状況について、キリスト教の世界は、この状況をどう受け止めたらよいか、戸惑いの中にあります。ジョン・パイパーというアメリカの改革派の指導的な牧師は、この事態は神からの警告なので、私たちは悔い改めの心をもってこの事態を受け取るべきである旨の主張をしています。
 それに対して、私が説教で何度かご紹介したN.T.ライトという新約聖書学者は、このような事態がなぜ起こったのかは、誰にもわからない。だからそれを詮索するのは止めて、このような事態の中で、私たちはいかに行動し、いかに生きるべきであるかを考えるべきだと言います。
 私は、個人的にはN.T.ライトの主張の方が正しいように思っています。その上で、なぜこのような事態が起こっているかはわかりませんが、悪魔はこのような事態を利用して、私たちと神との関係を分断し、また人と人との関係や私たちクリスチャン同士の絆を分断させようとしているように感じています
 かつて、14世紀にヨーロッパでペストが流行したときに起こったことは、まさに、そのような事でした。教会への信頼性が損なわれ、デマが流布し、そのデマによって多くのユダヤ人が虐殺されるという出来事が起こりました。そして、今の状況を見ますと、様々な流言があり、どこからこの新型コロナウィルスが起こったのかと言うことで、中国とアメリカとの間で互いに非難し合う言葉が飛び交っています。
 そのようなときだからこそ、私たち主イエス・キリスト様にあるキリスト者は、しっかりと神の言葉に留まり、和解の福音を生きることが大切です。たとえ一緒に集まって礼拝することができなくても、家庭で礼拝をしっかり守り、神の言葉に耳を傾けて聴き、神の言葉の前に静まる時を持ち、神に祈る時を持つことが大切です。

 この礼拝への出席を自粛する状態がいつまで続くのかは誰にもわかりません。その意味で出口はまだ見えていない闇の状況です。しかし、私たちには、光である神がいらっしゃいます。そのことを覚えながら、大変ですが、穏やかな心をもって、家庭礼拝を守り、神の前に、キリスト者として節度を守り歩んでいきましょう。

   初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
                    
 ヨハネによる福音書11節から5

202051

                                濱 和弘

2020年4月24日金曜日

「霊と肉」


霊と肉

 東京の新型コロナウィルスの感染者数は、一時と比べると若干の現象は見られますが、相変わらず100人を超える新し感染者が出ており、まだまだ終息には時間がかかりそうですが、皆様、一週間の間お変わりありませんか。
 今週は私たちの教会に属する愛する兄弟が手術を受けると言うことで、みなさんにお祈りいただきましたが、この手紙を書き始めた少し前に、久子姉より、無事に手術が終わりましたとの連絡を受けました。9時から始まり15時近くまでの長丁場の手術ですが、神様に守られたことを覚えます。
 しかし、まだこれから術後の回復のための治療と期間が必要です。周りの情勢は新型コロナウィルス騒動で大変な状況下ですので、どうぞ引き続き兄弟と看護するご家族の上に、神様の恵みと支えとが注がれますようお祈りください。
 こうして、長く礼拝に集えないという状況の中で、私は「霊と肉」ということを考えさせられています。長いキリスト教会の歴史においては、この「霊と肉」というものについて、いろいろと考えられてきました。そのような中で、いつも霊が肉と比べそり優れたものであり、人間の肉、つまり肉体は霊よりも劣るものであるようにとらえられてきたように思います。
 場合によっては、プラトン哲学の影響もあり霊と肉とを二項対立的構造の中で捉えてしまい、肉体を人間にとって割るものであるかのように考えていた時代もありました。それがもっとも醜悪な形で表れたものがグノーシス主義と呼ばれる、初期のキリスト教の異端的思想でした。
 しかし、人間の肉体も神様の創造の業であり、人間の霊も肉体と言う器なしには存在し得ないものであると言うことを、現在の教会にみんなが集まって礼拝できないという状況の中で痛切に感じています。そして、みなさんが、心だけではなく、体をもって教会に集まり、礼拝する中で、皆さんの息(聖書言語のヘブル語もギリシャ語も霊と言う意味を持つ)を感じる中で、単に理念としてでなく、本当に一つの共同体、キリストの体という存在にリアリティ(現実感)をもってとなっていくのだなと教えられています。
 とわ言え、今の新型コロナウィルスが感染拡大しつつある現状の中、小金井市からも10名以上の感染者が起きている現実はしっかりと受け止めなければなりません。そして、決して教会がクラスターになることがなく、地域の方に不安感を与えないように努めなければなりません。また、まだはっきりとした方針が出ていませんが国の非常事態宣言が延長される可能性もあります。ですので、もうしばらく礼拝に集まることは自粛しなければなりません。
 今は受難の時ですが、信仰の模範であるイエス・キリスト様を見上げながら、激しい迫害の中にあっても信仰を守り抜いた初代教会の聖とたちのことを思いつつ辛抱しつつ頑張りたいと思います。
                 詩篇23

ダビデの歌うた

1 主はわたしの牧者であって、わたしには乏とぼしいことがない。
2 主はわたしを緑の牧場に伏ふさせ、いこいのみぎわに伴ともなわれる。
3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正道みち導かれる。
4 たといわたしは死の陰の谷たにを歩とも、わざわいを恐れません。
  あなたがわたしと共ともにおられるからです。
  あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け,
  わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
6 わたしの生きているかぎりは
  必らず恵みといつくしみとが伴なうでしょう。
  わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。


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                             牧師 濱和弘