2023年9月20日水曜日

ゴジラと聖書と物語神学

 書斎の机越しに目を挙げると、ゴジラのフィギアが目に飛び込んでくる。ゴジラだけでなく、モスラやキングギドラなど様々なフィギアが、私の住居には、書斎に限らずリビングにもあふれている。これらのものは怪獣と呼ばれるが、私が趣味として集めたものである。これら怪獣の始まりは1954年版の初代ゴジラにあると言って様だろう。怪獣は、恐竜や巨大なモンスターとは違う。怪獣は怪獣であり、怪獣の存在そのものが、人間の存在を危うくし、存在の根底を揺るがし、不安にさせ、ある種の神性をおびた畏れを感じさせるものである。

 その怪獣の祖である初代ゴジラが東京に来襲して街を破壊していく物語は、制作当時の人々の、核兵器に対する漠然とした不安や怖れといったものを如実に物語っている。同時にゴジラの物語は、不安と怖れの源に勝利し、平安な生を回復する生き方へと私たちを誘う。つまり、そこにはゴジラを制作した監督の本多猪四郎をはじめとする制作者のパトス(熱情)が読み取れるのである。その意味で、初代ゴジラは強いメッセージ性を持つ啓示的作品であると言えよう。
 その後、ゴジラは2016年の庵野秀明監督のシン・ゴジラまで二九作品(アメリカ版ゴジラおよびアニメ版ゴジラを除く)が製作された。しかし、初代ゴジラ以後、初代ゴジラのヒットを受けて。その多くの作品が商業的意図を持った興行的娯楽作品に堕した感も否めない。もちろん、それはそれで拝金主義に陥っていく日本の姿を物語る物語なのだが、それでもなお、ゴジラ対ヘドラやゴジラ対ビオランテといった啓示的作品も製作されてきた。そして、最新作のシン・ゴジラは東日本大震災を彷彿させるリアリズムのある怖れと不安を見事に物語化している。つまり、1954年の時代背景の中で物語られた初代ゴジラの描く人間の存在を脅かす恐れと不安の物語が、2016年のシン・ゴジラにおいて、その時代背景のもとで再び物語られているのである。
このようにしてみると、不安と怖れを物語として語るゴジラ映画の歴史には、まさに物語神学的展開がみられる。また、シン・ゴジラはゴジラ映画の教義学的存在だと言える。そこには、キリスト教における啓示の問題に通じるものがある。それゆえに、私は神の啓示を語る書(『今、ここに立ち現れる神-傘の神学普遍啓示論』2023年11月出版予定、『神かく語れりー傘の神学特殊啓示論』2024年出版予定)を書く際に宗教学的論述から始めなければならなかった。それはまさに、神という存在が、怖れを感じつつ、しかしその存在に引き寄せられる畏怖すべき「私はいる(אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμι)」としてしか「言い表すことのできない」ヌミノーゼ的存在だからである。
もっとも、このヌミノーゼ的存在は、人間の存在を脅かす存在ではない。むしろ、人間を存在者として存在させ、かつ人間を人間とする人間形成を導く存在そのものである。だからこそ、ゴジラとは違い、排除されるのではなく、求められるのである。いうなれば、ゴジラは罪と死の原理のもとにある怖れ、すなわち破壊と死の恐怖の物語であり、אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιは、命と創造の原理のもとにあって畏敬を産みだす存在なのであると言える。。
そして、このヌミノーゼ的存在であるאֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιを、我々がいかに認識し語るのかというのが、啓示の問題である。この問題に対して、教会は歴史的に、それを聖書に求めてきた。その聖書は、様々な文学ジャンルがある。歴史的書物もあれば、詩のような文学的ジャンルもある。さらには手紙と言ったものさえ含まれている。しかし、それら一つ一つが人間の生の営みから生み出されたものである。そして、それら一つ一つに、אֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιの前に生きた人間の物語がある。その聖書の中にあるאֶ הְ יֶה אֶ הְ יֶה אֲשֶׁ ר あるいはἘγώ εἰμιとの関わりをもって生きた人間の生の物語を通して神は語っている。そしてそこには、神の我々人間に対する熱いパトスが感じられるのである。
 だとすれば、「今、ここで」を生きるキリスト者一人一人の生もまた、神の語りかける言葉に応答し営まれた生であると言うことができよう。だとするならば、我々キリスト者一人一人の生もまた、神の啓示となるのではないか。然りである。それゆえに私は、キリスト者に、そして何よりも私の妻や子供たち、孫たち、そしてすべての人に伝えたい。あなた方の存在は、

あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人間の心の板に記されたものであることは、明らかです。(コリントの信徒への手紙二・3)

と言われる存在であり、あなた方を通して神が現れ出るのである。だからといって、我々キリスト者の生が書き記されて残されるとき、それが聖書となるか、あるいは聖書と同等に扱われるべきかというと、それは否である。なぜならば、聖書は教会の伝統の中で正典(canon/基準)として受容されたものだからである。確かに聖書に記されたものは、イスラエルの民の歴史とイエス・キリストの歩み、およびその教えに基づき歩んだ最初期の教会の歴史である。しかし、それらを通して表されたものは神の民の生き方である。その聖書が教会の伝統の中で正典(canon/基準)として受容されたのであり、個々の信仰経験は、この正典としての聖書によって検証される。それゆえに聖書は、まさに正典として教会と教会に繋がるキリスト者一人ひとりの生き方を制し、導く神の語りである。

 一人一人の信仰とその信仰に基づく歩みは、神の語りかけに対する応答によって築き上げられる。その神の語りは、様々な形で我々に訪れる。そして、その語りかけは「私」に対して語りかけられる神の「神かく語れり」である。その意味において、我々は、神に語りかけられている。そのような神の語りかけの中で、我々は直接神に語りかけられたと感じる経験をすることがあるかもしれない。事実あるであろう。私自身、自らの信仰生活の中で、何度かそのような経験をしたことがある。そして、その語りかけられた言葉は、必ずしも聖書の言葉どおりでないこともあるであろう。それは、ある種の神秘的な宗教経験といってよい。
宗教にとって、宗教経験はその人の信仰の核となる極めて重要なものである。そしてだれにでも、またいずれの宗教にも、何らかの宗教経験といったものがある。それゆえに、神に直接語られたと感じるような神秘的な宗教経験を否定はしない。しかし、それがどんなに神秘的な経験であったとしても、それは私という個人の特殊な状況のもとでの個人的なものであり、キリスト教一般に横たわる真理として還元すべき普遍的なものではない。また、それがどんなに個人に対する特殊な経験であっても、その経験は絶えず正典である聖書の言葉に照らし合わせて内省され、吟味されなければならないであろう。なぜならば、経験は知覚されるものであり、知覚は認識に至るのであるが、その認識は過去の出来事によるからである。そしてその過去とは、聖書に物語られた過去なのである。
神が私に語った。そのような宗教的経験の正当性が、聖書のある部分だけに寄りかかっていたり、聖書の言葉が持つ時代的背景や社会的状況といったものを考慮に入れないで、その言葉の表面的な意味だけに寄りかかっているとするならば、その宗教経験は注意して批判的に内省すべきである。
神の啓示は、我々に謙虚になることを求めている。どんなに明確で強い体験をしたとしても、謙虚になって心を静め、聖書の言葉に耳を傾け、聖書が物語る物語に学ぶことが大切である。そして聖書という書物が語る物語を通して語られる神の言葉に学ぶということなしに、自らの宗教経験を神の啓示とするのは危険である。それは、自らの主観を絶対化することであり、自らを偶像化する行為である。そして、私たちが読むべき聖書が語る物語は、神の民の生の物語であり、神の民がイエス・キリストというお方に結実する神の像へと実を結んでいく歩みの物語であって、その物語が私たちに人生の歩みに結実するために記された物語なのである。

苦しみは窓

 「苦しみは窓」

試練や苦難というものは、できるならば会いたくはないものです。
しかし、どんなに私たちがそれに会いたくないと思っても、試練や苦難は勝手に向こうの方からやってきます。それは、招かれざる客であり、決して好ましいものではありません。しかし、どんなに嫌な客であっても、それは客であるがゆえに手土産を持ってくるのです。そして、その手土産は、とても価値あるものなのです。

 「災い転じて福となす」。これは日本のことわざですが、災いが転じて福となるのは、試練や苦難という招かれざる客が持ってくる手土産を受け取ることことによってです。では、その手土産とは何なのか?
 16世紀前半、ヨーロッパでは宗教改革という出来事がありました。この宗教改革の立役者であったマルティン・ルターという人物は、祈りについて、次のように言います。すなわち祈りとは、「願い求めることであり、思い廻らすことであり、試練にあうことである」というのです。そして、試練に会うと言うことが祈りということでもっと大切な事なのだと言うのです。祈りというものが、願い求めるということはわかります。実際、私たちが祈る時、私たちは、神や仏の願いを訴えているからです。祈りが思いを思い廻らすものであるということも何となくわかるような気がします。私たちは、しばしば祈りつつ「どうしたらいいだろうか」「どうしてこんなことになったのか」と思い廻らしつつ祈るからです。しかし、祈りはこころみに会うことであるとは、どういうことなのでしょうか。
 祈りというものは、祈りを捧げる相手、詰まり祈る対象がいます。それこそキリスト教であるならば聖書にあらわされた神に向かって祈るのです。そのとき、私たちは真剣に自分が信じる信仰の対象と向き合います。自分が信じる神に向き合い、それお方がどのような方であるかを知るのです。そして、それこそが祈りということの本質なのだとルターは言っているのだろうと思います。
 試練の中に置かれた時、私たちが真剣に神に向き合うならば、神もまた真剣に私たちに向き合ってくださいます。試練や苦難が持ってくる手土産は、まさに「この真剣に神と向き合うと時」なのです。そして、そこで出会う神の顔は、慈しみに満ち、愛に包まれているのです。その神の地合いが、試練や苦難の中に置かれた私たちの心に、慰めと平安をもたらすのです。
 この試練や苦難がもたらす神との出会い。それは「苦しみは窓」ということです。そのことについて私の友人の岩本遠億牧師は3分ほどの短いメッセージとして次のように語ります。そのショートメッセージをお聞きになりたい方は、下に記したアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックすれば聞くことができます。(音声が出るまで、すこし時間がかかることがあります) 


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29haf2?fbclid=IwAR1P5TeLGD2TwMD8RYFpWR-f1X196KDUbk-bpmCJxGZvF9pN04Dgq53bJdc

この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声でお伝えしている者ですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

2023年9月19日火曜日

ただ一つの必要な事

 「ただ一つの必要なこと」


私たちが幸せになるためには、何が必要でしょうか。
色々な答えを上げることができるかもしれません。
でも、本当にそれがなければ幸せではないのでしょうか。

私の知っている方に、星野富弘さんと言う方がいらっしゃいます。
この方は、大学を卒業し、中学校に教員をしておられましたが、自己で首から下が全く動かなくなりました。そのため、寝たきりの生活をしなければならなくなり、食べることも含めて、すべて誰かの手を借りなければいけなくなりました。
 やがて、星野さんは絵筆を口にくわて、水彩画を描くようになり、それにご自身の詩を書き加えるようになりました。もちろん、そこには大変な努力があったことには間違いがありません。
 その星野富弘さんが語った言葉で、私が衝撃を受けた言葉が二つあります。残念ながら、この言葉は直接聞いたことばであり、文献に残ってはいません。ただ、私が実行委員を務めた、静岡で行われた星野さんの作品を紹介した展覧会の記念誌にだけ記されています。その言葉は、

不自由と不幸とは結びつきやすい性質がありますが、不自由と不幸せは同じものではありません。私は、今、幸せです。

また、星野さんの作品の展覧会がハワイで開かれた時、ある人が「神様が、あなたをけがをする前の健康な体にもどしてくださる言われたらどうしますか」と尋ねました。その時、星野さんはこう答えたそうです。

 私は、今、幸せですから、せっかくのお申し出ですが、お断りしたいと思います。

 不自由とは、なにも体が動かない状況だけではありません。健康な体を持っていても、あれができない。これができない。思うようにいかないという不自由さを感じます。それは心が不自由になっているのです。そのような時、その心は簡単に「不幸だ」と思い込んでしまいます。しかし、不自由と不幸とは同じものではないのです。
 そして、星野さんをして、「今、幸せだ」と言わせているものは何でしょうか?
私は、それは愛だと思います。体が不自由になり、すべてのことを人に頼らなければ生きていけなくなった。その時に手を差し伸べ助けてくれる人の愛に触れ、それに触れ続けて、愛されているということを知った。そのことを通して、愛に包まれていることの中に幸せを感じているのではないか。私はそう思うのです。
 その愛は、多くの人から愛されるということでくてもいい。たった一人の人が、命がけで愛してくれる愛に触れるならば、私たちの心はその人の愛で包まれ、幸せを感じることができる。そして、そのような人が私たちには、今、ここにいるのです。それはイエス・キリストというお方です。
 幸せになるためになくてはならないもの、そのことを、私の友人、岩本遠億牧師は、ご自身の著書『366日元気の出る聖書の言葉』の中で次のように語りかけます。それを岩本牧師自身の音声で語っています。3分強の短いメッセージです。その内容を下記のアドレスをクリックし、▶ボタンをクリック してお聴きください。(音声が出るまで、すこし時間がかかることがあります)


 https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29f93m?fbclid=IwAR2G14sYmo8jbUHeiEDPoChP67XhCuxY0pyHd2AvXvFsHdlYjh_dc025Okw


この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』からのものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

愛の基準としての聖書

 主日礼拝「愛の基準としての聖書」            

旧約書:ヨナ書4章9節から11節
福音書;ヨハネによる福音書9章18節から26節
使徒書;ヨハネ第一の手紙4章7節から11節

 今日の礼拝説教の中心となる箇所はヨハネによる福音書9章18節から23節です。この箇所は、生まれつき目が見えなかった盲人をイエス・キリスト様がお癒しになったという出来事から起こった一連の出来事に中にある一つのエピソードです。
 イエス・キリスト様が、ひとりの生まれつき目の見えない盲人の目をみえるようにしたという出来事は、この盲人を知っている人々にとっては、とても大きな驚きの出来事でした。しかし、その癒しの業が、安息日に行われたために波紋を広げます。イスラエルの民の間には、安息日は人を癒すということを含めて、一日中、いかなる労働もしてはならないと彼らの戒律である律法に定められているからです。
 そのため、このイエス・キリスト様がなさった「生まれつき目の見えない人の目を開き、見えるようにした」という癒しの業に対する評価が分かれた。あるパリサイ派の人々は「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」と言い、ほかの人々は、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」と言って、論争を始めたのです。

 この二つの相対する主張は、それぞれの着眼点が違います。イエス・キリスト様に対して、「その人は神からきた人ではない」といって批判的なパリサイ派の人々は「安息日を守っていないのだから」という、安息日の遵守という戒律を守るか否かに目を向け、そこからイエス・キリスト様というお方を評価します。しかし、別の人々の目の付け所は違います。彼らはイエス・キリスト様が「目が見えない人の目をみえるようにした」というイエス・キリスト様の業に着目して、「そんな素晴らしい善いことをする人が悪い人間であろうはずがない」と言って、イエス・キリスト様を評価するのです。

 すると、彼らは、この生まれつき目の見えなかった盲人の両親を呼び出して、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」と尋ねるのです。生まれつき目の見えなかった盲人の目が見えるようになったということ自体が信じられなかったからです。すると、この盲人の両親は、

 これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう。

と答えたというのです。
 みなさん、この出来事は、ヨハネによる福音書9章全体に横たわる生まれつき目の見えなかった盲人の癒しの物語の中にある小さな一つのエピソードです。しかし、とても私たちに大切なことを教えてくれるエピソードでもあるのです。というのも、22節、23節に

 両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエス をキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。

とあるからです。
 ここには、このイエス・キリスト様の安息日に目の見えない人を癒すという出来事をめぐる議論の是非に関わらず、すでにユダヤ人の間では、イエス・キリスト様をキリストと告白するものは、会堂から追い出すことが決まっていたことが記されています。
 それは、イエス・キリスト様を排斥する動きが、恐れを感じるほどの同調圧力を伴う力となってユダヤ人社会を、少なくともエルサレムの、街に住む住民を覆っていたことをうかがわせる言葉です。
 その力とは宗教的権威の持つ力であるといっても良いでしょう。みなさん、この当時のイスラエルの民によって構成されるユダヤ人社会を結び付けているものの一つにユダヤ教の信仰を上げることは、決して間違っていないでしょう。むしろ、ユダヤの人々をイスラエルの民であるという民族意識にまで高めているのは、彼らが神の選びの民であるという宗教意識であったと言ってよいだろうと思います。そして、その神の選びの民であるということが律法と深く結びついている。

 イスラエルの民を神が選んでくださり、選びの民としての生き方を示すために律法が与えられた。だから律法は神の恵みなのであり、その恵みに応答して生きるところにイスラエルの民のアイデンティティ(自己意識)があるのです。
 その律法に、「『安息日には何の業もしてはならない』と書いてある」という主張は、宗教的権威を伴う言葉です。その言葉に基づいて、「安息地には何の業もしてはならないと律法に書かれている。にもかかわらず、ナザレのイエスは安息日に癒しの業をしている。だから、ナザレのイエスは罪びとだ」と三段論法的にイエス・キリスト様を捕え、イエス・キリスト様をキリストと告白するものは、会堂から追い出すという空気(雰囲気)が、イスラエルの民を支配している。まさに、そのような状況のもとにエルサレムの街が覆っている。だからこそ、者生まれつき目の見えない人の両親は、イエス・キリスト様が癒してくださったのだとは言い辛く、彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」というのです。

 本来ならば、喜びをもって「ナザレのイエスというお方が、あの子の目を見えるようにしてくださったのです」と、喜びをもって答えたい場面です。しかし、この場面を描く聖書の言葉には、そのような喜びの気持ちが伝わってこない。むしろ伝わって切るのは、その場を覆っている重い空気です。
 そしてその空気の重さは、その場が裁きの場となっているからです。「安息日には何の業もしてはならない」という律法の言葉が、それは聖書の言葉でもあるのですが、その聖書の言葉が人を裁く裁きの基準として働き、安息日に目の見えない盲人を癒したイエス・キリスト様を裁き断罪している。それが、この聖書の箇所を思い空気で覆っているのです。

 しかし、聖書の言葉は、私たちを裁く基準として機能するものではありません。むしろ、聖書の言葉は、律法を含めて、私たちを愛する神の愛の基準であり、その神の愛に生かされている私たちが、神の愛に生きる愛の基準として機能すべきものなのです。
 
みなさん、聖書の言葉は、愛をその本質とする神によって吹き出された(θεόπνευστος〈セオプニューマトス〉)神の言葉です。愛の神の口から出る言葉は、愛の言葉なのです。ですから、聖書の言葉は、人を裁くために裁きの基準として用いられるべきではありません。むしろ、神の言葉は私たちを教え育み、育てるためにあるのです。

 みなさん、私たちは、先ほど旧約聖書のヨナ書4章9節から11節の言葉に耳を傾けました。このヨナ書というのは、神がヨナという預言者を、二ネベという町に遣わし、神の言葉を語らせるという物語です。
 二ネベはアッシリア帝国の首都であり、その当時では大都会です。神がその二ネベにヨナを遣わしたのは、二ネベが神の目に悪に満ちた街だったからです。実際、イスラエルの民は、このアッシリア帝国によってひどい目にあわされていたのです。
 その二ネベの街に、神はヨナを遣わし、「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉を告げるのです。この言葉は、神の裁きの言葉としての響きをもって聞こえてくる言葉です。だから、ヨナも、二ネベの街の人々が滅びることを期待しながら、神の言葉を伝えるのです。

 ところが「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉を聞いた二ネベの人々は神を信じ、自らの行いを悔い改めるのです。それで、神は二ネベの街を滅ぼすのを思いとどまるのです。結局、裁きの言葉をしての響きをもって聞こえていた「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉は、二ネベの人を裁くための言葉ではなく、むしろ、二ネベの人々を正しい道へと導き、生かすための神の愛から発せられた言葉だったのです。

 それに反して、アッシリア帝国からひどい目にあっていたユダヤ人であるヨナにとって「「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉は、様に裁きの言葉そのものとして受け止められていました。だから二ネベの街の人々が滅びるのを見るのを心待ちにしていた。にもかかわらず、二ネベの街は滅びるのではなく神に立ち帰っている。そして彼の心を支配していた悪から二ネベの街の人々を救い出すのです。しかしヨナは、その神の慈愛に満ちた行為が気に入らない。だから、ヨナは不快に思い、腹の虫は収まらず、神に文句を言うのです。

 そんなヨナを教え諭す言葉が、先ほどお読みした9節以降の言葉なのです。そこで語られている言葉は、いかに二ネベの街の人々を愛しているかを語る言葉です。いえ、神は二ネベの街の人々だけではない、私たちが、「あんな奴なんか滅んでしまえばいい」と思うような人でさえ、愛し、救いのわざをもたらすのです。ましてやみなさんも、そう、あなたも神は愛し、恵み、慈しんでおられる。神の愛がみなさんに注がれているのです。そしてそのような神の愛は、イエス・キリスト様の「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という言葉(マタイによる福音書22章39節)の中に、また「あなたの敵を愛しなさい」という言葉(ルカによる福音書6章27節、35節)に、集約されて語られます。そして、その「敵をも愛する愛」は、「安息日に何の業をしてはならない」という言葉の背後に流れている。それは、6日間の労働で疲れたの心と体に休息と癒しを与えるためのものであり、だからこそイエス・キリスト様は、安息日であっても病に苦しむ人を癒すのです。そして、その業は私たちに喜びをもたらすものです。

 にもかかわらず、その愛の神の口から吹き出された言葉が、裁きの基準として用いられるならば、その言葉が私たちのうちから喜びや感謝を奪いとっていく。今日の聖書の箇所は、そのことを私たちに教えてくれるのです。
 

ですからみなさん、私たちは聖書の言葉を裁きの基準として捕らえるのではなく、むしろ神が私たちを愛する愛の基準として捕らえ、用いようではありませんか。たとえそれが、私たちの耳に裁きの言葉として響いても、それは絶えず私たちを正しい道へ導く神の愛から出た言葉であることを知り、「私はダメだ」と自分自身を責めるのではなく、むしろ、私たちを愛する神の語りかけとして聴こうではありませんか。

 みなさん、今日の聖書の箇所に見られように、神から与えられた律法を裁きの基準として用い、喜びと感謝の出来事から、喜びや感謝を奪い去る人々の姿を見た使徒ヨハネは、

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべ て愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である(ヨハネによる福音書4章7節から8節)。

とイエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様の弟子になった人々にそう呼びかけるのです。そして、私たちもまた、そのイエス・キリスト様の弟子として召され、イエス・キリスト様に倣い、愛する者となるようにと召されてている者なのです。そのことを覚え、神が私たちを愛してくださっているということに、思いを馳せたいと思います。

 しばらく目を閉じ、心を静めて、私たちを愛してくださっている神を想います。静まりの時を持ちましょう。

一対一の関係

 「一対一の関係」

日本は同調圧力が強い国だと言われます。
同調圧力とは、多数派が醸し出す空気であり、自分たちの考えや価値観に合わせた言動を求めるような無言の働きかけです。
このような同調圧力が働く世界に身を置いていますと、私たちは私たちの周囲にいる人を気にし始めます。
周りはどのような態度をしているのか。他の人はどうしているのか。
そして、このような同調圧力によって支配されている共同体においては、同調圧力を無視し、自分の心に従って行動する人は、その共同体の内にいずらくなり、結果として自らその共同体の外に出ていくか、その共同体の外に追い出されるのです。
では、そのような同調圧力の働く世界でどうやって生きて行けばいいのか。
それは、私たちは決して一人ではないということに気づくことです。
共同の外に出て行かざるを得なくなるのは、その共同体の中で孤独になるからです。様々な試練や悩みを経験することになっても、一人ではない、孤独ではない、その試練や悩みを共に負ってくれる同伴者がいるならば、そのような試練や悩みを乗り越えていくことができます。また仮の外に出たとしても、決して一人ではない、共に歩んでくれる人がいるからです。
イエス・キリスト様というお方は、まさにそのような同伴者であり、あなたの人生の同伴者になろうとしてくださっているのです。
私の友人の岩本遠億牧師は、そのような同調圧力の中にあっていかにい来るかについて、3分程度の短いショートメッセージを語ります。
岩本牧師のショートメッセージは以下のアドレスで聴くことができます。下に記したアドレスをクリックし、▶ボタンをクリック してお聴きください(音声が出るまで、すこし時間がかかることがあります)。
なお、今日は私の今週の礼拝説教「愛の基準としての聖書」も掲示してあります。よろしければそちらもお読みください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29ef8j?fbclid=IwAR0AFq-jvXNVcVg0Zri90lbMFRo9SAmzN125UzXGamcKoJuauA7EJ32oai4

岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』からのものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

2023年8月28日月曜日

 23年8月第四主日礼拝説教「安息日の意義」               2023.8.27

旧約書:申命記5章12節から15節
福音書:ヨハネによる福音書9章8節から24節
使徒書:ピリピ人への手紙4章6節、7節

 今日の礼拝説教の聖書箇所はヨハネによる福音書9章8節から24節までです。この箇所は、同じヨハネに福音書9章1節から7節で、イエス・キリスト様が、物乞いをしていた生まれつき目の見えない人を癒し、目が見えるようにして挙げた出来事をきっかけに起こった出来事が記されている箇所です。
 この物乞いをしていた生まれつき目の見えない人の目が見えるようになったという出来事は、彼を知る人々に大きな驚きを与えます。その驚きは、今、人々の前にいる人と、道端で物乞いをしていた生まれつき目の見えなかった人とが同一人物だと認めることができないほどの驚きでした。
 そこで、人々は一体何がこの生れる突き目の見えない人に起こったのかを尋ねます。すると、この目の見えなった人は、イエス・キリスト様というお方が、この人の目に泥ぬり「シロアムの池で目を洗え」と言われた言葉に従って目を洗うと見えなかったはずの目が見えるようになったのだというのです。

 シロアムの池というのは、紀元前700年頃に南ユダ王国のヒゼキヤ王によって造られたもので、首都エルサレムが敵に責められた取り囲まれた際、水源を確保するためにの「ギボンの泉」を覆い隠し、そのギホンの泉から、今日ヒゼキヤのトンネルと言われる岩盤をくり抜いた地下水路のトンネルの終点となったのが、この「シロアムの池」です。この「ヒゼキヤ・トンネル」は、高低差は2メートルほどの、現存する世界最古の水道施設であり、今も豊かな湧き水を運んでいます。
 そのシロアムの池で起こった「生まれつき目の見えなかった人の癒し」という驚きの出来事は、彼のことを知る人々から、パリサイ派の人々へと伝えられます。それは、驚きの出来事が安息日になされたことであると告げたからです。

 イスラエルの民にとって、安息日は、聖なる日として一切の労働が禁じられています。それは旧約聖書出エジプト記20章に記されているモーセの十戒と呼ばれる戒律に

「8:安息日を覚えて、これを聖とせよ。9:六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10:七日目はあなたの神、主の安息であるか ら、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。」

とあるからです。そして、このしてはならない労働の中に人を癒すということも含まれているのです。その安息日にイエス・キリスト様は、この生まれつき目の見えない人をお癒しになられた。そしてそれは、明らかな律法にある安息日規定に違反する行為だったのです。

 みなさん、今まで私たちは、この当時のパリサイ派の人々は、旧約聖書に記された津法を厳格に守ることで、救いを得ようとする行いによる義を主張していた人々であったと考えていました。しかし、近年になってE.P.サンダースやジェームス・ダン、またN.T.ライトといった新約学の研究者によって。彼らは、救いを得るために律法を守っていたのではなく、むしろ神の一方的な恵みによって神の選びの民とされたことに対する応答として、律法に従って生きようとしていた人々であるということがわかってきました。
 しかも彼ら研究は、当時のパリサイ派の人々は、自分たち自身にはすべての律法を厳格に守ることを求めましたが、人々に求めたものは、すべての律法を厳格に守るということではなく、律法が食べてはならない定めた食物を食べないという食物規定と安息日には一切労働を行なわない安息日規定の二つだけだったということも明らかにしてきたのです。

 この神の一方的な恵みに応答し、その応答として神の命じる律法を守り行って生きるというパリサイ派の人々の姿勢は、今日、私たちがイエス・キリスト様の救いの恵みに応答して、神の言葉に従い、イエス・キリスト様に従って生きていこうとする姿勢と、何ら変わりのないものです。しかし、イエス・キリスト様は、、福音書を読む限りそのパリサイ派の人々を厳しく糾弾し批判しています。
 みなさん、イエス・キリスト様が安息日にこの目の見えない人をお癒しになったのは、イエス・キリスト様が律法のないがしろしたとか、モーセの十戒を軽んじたということでは決してありません。むしろ、イエス・キリスト様は律法やモーセの十戒を大切の考え、それを生きられたのです。
 では、なぜ安息日にしてはならないと言われる癒しの業を行ったのでしょうか。みなさん、ここでもう一度、モーセの十戒に目を止めたいのです。すると、モーセの十戒には「なんのわざをもしてはならない」といわれているだけで、そのわざとは何かは、記されていないのです。ではそのわざとは一体何か?そのことをイスラエルの民は考え、解釈していきます。

 みなさん。イスラエルの民の伝統の中には、旧約聖書を色々と解釈したミシュナーと呼ばれる口伝による律法の解釈があります。そしてさらにそれを厳選し成文化したタルムードと呼ばれる律法の解釈書が出来上がって来た。そして、タルムードの中に、人を癒すということも、安息日にしてはならない労働のうちに含まれるという解釈があるのです。                        
 しかし、イエス・キリスト様は、安息日規定に何をしてはならないかという律法の解釈ではなく、律法そのものに目を止められた。つまり、安息日規定が何で設けられたのかという安息日の意味、あるいは意義といったことに目を止められたのです。

 神様は、なぜ安息日をもうけられたのか。先ほどの出エジプト記20章8節では、「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない」とあります。これは、神がこの世界を創造された際に、6日間で創造の業を終え、七日目に休まれたということを意識した言葉です。
 つまり、6日観労働をして疲れた心と体とを癒すために安息日があるというのです。そう考えると、モーセの十戒における安息日規定に「あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人も」なんの仕事もしてはならないと書かれている言葉はとても重要です。神様は、イスラエルの民の民だけが休むのではなく、奴隷や家畜、他国の人といった弱い立場にいる人までも休ませなさいというのです。

 みなさん、主人と奴隷という関係の中では、主人は自由に休んでも、弱いものを虐げ、休みなく働かせることができます。しかし、安息日規定が設けられているからこそ、弱い立場の人も、労働から解放され、心も体も休めることができるのです。そのことは、先ほどお読みしました旧約聖書申命記5章12節から15節に色濃く出ています。すなわち

 「12:安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。13:六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。14:七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。15:あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」

 ここでは、神様の創造の業の故に安息日を守れとは言っていません。むしろ、神様がエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い、開放してくださったがゆえに、あなた方のうちにある奴隷や家畜や他国の人も、安息日には彼らを縛り付けている労働から解放して休ませてやりなさいというのです。そして、自分たちもまた、神様の救いの業の故に今、こうして、ここにあるのだということを思い起こしなさいというのです。

 安息日、その安息日にイエス・キリスト様は安息日に病に苦しむ人をお癒しになりました。この目の見えない人だけでなく、ヨハネによる福音書5章1節から13節には、ベステダの池のほとりに身を横たえていた歩けない人を、安息日に癒されています。それは、病の苦しみに縛り付けられ、「あの人は本人の罪か、親の罪のために目が見えないのだ」といった人々の心無い言葉に虐げられ苦しんでる人を、その苦しみから解放し、心に平安をもたらす救いの業なのです。

 みなさん、安息日は、まさに弱い者、虐げられている人々を労働から解放し、休息を与え、慰めを与え、平安を与えるために制定されたのです。それが安息日が持つ本来の意味であり、意義です。神様は、安息日を通して、この世界において虐げられ、弱められ、苦しめられている人々の子ことに慰めを癒しと平安をもたらしたいと願っておられる。
 この神様のご意思に目を向けないで、安息日に何をしてはならないかなどと議論し、安息日に労働をしたと言って人を裁くなどといったことは、実に愚かな議論であり、あるパリサイ派の人々が言ったある「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」などと言う言葉は、安息日の意味や意図を理解していない人の言葉だと言えます。

 みなさん、イエス・キリスト様は律法の精神を生きられた。律法を大切に生きられたのです。もちろん、パリサイ派の人々の中にも、そのことに気づいた人もいたようです。だから、今日の聖書箇所の12節にあるように「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じたのです。
 その論争の最後を、このヨハネによる福音書の著者が「そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った」という言葉で締めくくっていることは、実に意味深い。そこには、聖書を聖書ならしめる聖霊の御業を感じられます。なぜならば、預言者とは、イスラエルの民が神のみこころ離れ、律法の精神を見失い、誤った道を歩んでいるとき、それを厳しく糾弾し、それを正し、本来の神の民としてのあるべき姿へと導く存在だからです。

 この生まれつき目の見えなかった人は、そのような意図で安息日に自分を癒してくれたイエス・キリスト様を「預言者だと思います」といったわけではないでしょう。しかし、その言葉は、結果としてまさに、弱い者、虐げられているものが、私たちを支配し、苦しめ虐げているものから解放し、心と体とに休息と慰めと、そして平安を与えるという安息日が制定されたその意味と意義を生きられたイエス・キリスト様を指し示しています。そしてそこには、律法を生きられたイエス・キリスト様のお姿があるのです。

みなさん、先日私の友人の岩本遠億という牧師が、祈りについて、ピリピ人への手紙4章6節、7節の

6:何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7:そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

というみ言葉から短いメッセージを語っておられました。その内容をまとめると「祈っても。祈り求める者が与えられないこともある。(もちろん与えられることもあるでしょう)、しかし、神に祈りを通して、私たちは人知でははかり知ることのできない神の平安が与えられる。それは、神が与える平安こそが、実は本当に私たちの心が願い求めているものだからではないか」と言うのです。

私たちの祈りと願いの根底にある人知でははかり知ることのできない平安をもたらす主の安息に、イエス・キリスト様は私たち導いておられる。真の安息日を私たちにもたらし、真の安息日の中で私たちを生かしてくださるのです。その主イエス・キリスト様のことを、今静かに思いめぐらしたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め私たちに慰めを与え、平安をもたらす主イエス・キリスト様ことを想いましょう。静まりの時を持ちます。

2023年8月21日月曜日

私たちは神の御業である

           礼拝説教「私たちは神の御業である」     

旧約書:ヨブ記4章1節から11節
福音書:ヨハネによる福音書9章1節から7節
使徒書:ガラテヤ書3章23節から28節

 今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所は、ヨハネによる福音書9章1節から12節です。この箇所は、イエス・キリスト様が物乞いをしていた生まれつき目の見えない人をお癒しになったこと告げる物語です。そのストーリーは、おおまか次のようなものです。

 あるとき、イエス・キリスト様が弟子たちと共に道を歩いていると、生まれつき目の見えない人が道端に坐り物乞いをしていた。それに気づいた弟子の一人が、イエス・キリスト様に「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」とたずねる。

 このとき弟子たちは、この人が、生まれつき目が見えないということを、すでに知っていたものと思われます。ひょっとしたら、ずっと以前から、この「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という質問が人々の間でささやかれていたのかもしれません。その問いを、弟子たちはイエス・キリスト様に訊いたのです。

 というのも、この当時は、病気や障碍というものは、人間の罪の結果、罰としてもたらされる因果応報的なものとして考えられていたからです。そしてそのような考え方を、私たちは旧訳聖書の中にも読み取り事ができます。

例えば、先ほどお読みしましたヨブ記がその一つです。ヨブ記というのは、信仰が厚く、敬虔に、そして真面目に生きてきたヨブという人が、家族や財産を失い、自分自身も病気になって苦しむという物語です。

 そのようなヨブの苦しみの背後には、神様と悪魔との間の議論がある。それは、悪魔は神にむかって、「ヨブがあのように信仰が厚く敬虔な態度で神を信じるのは、多くの財を築き、家族にも恵まれているからであり、それがあなたからの祝福だと受け止めているいるからです。もし彼が、不幸に見舞われたならば、ヨブはすぐにあなたを信じる信仰から離れてしまいますよ」と言いがかりから始まる。

 その悪魔の言葉に対して神は、「それならば、試してみろ」というのです。それで、ヨブは、悪魔の業によって財産も家族をも失うという災難にあい、自分自身までもが病気で苦しむことになる。しかし、それでもヨブは「われわれは、神から幸いを受けるのであるから、災いをもうけるべきではないか」と言って、神を呪うことも、恨むこともせず、神を信頼する心を失わないのです。

 ところが、ヨブの友人たちが彼を慰めようとして彼のもとにやって来ることで風向きが変わる。というのも、その友人たちは「ヨブ、お前がこんな苦しみに会うのは、お前が神の前に何か罪を犯したからであり、神がお前にその罪に対する罰をあたえているからだ。だから、自分の罪を神に告白し、神にお詫びして、神に赦しを請いなさい。そうすれば、許されるから」と言うからです。

 この言葉には、病気や障碍そして災いというものは、人間の罪の結果、罰としてもたらされるという因果応報的思想があります。それが顕著に表れているのが、先ほどお読みしたヨブ記4章節から1節までの言葉です。とりわけ7節以降の言葉にそれが見られます

 

7:考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、 断ち滅ぼされた者があるか。8:わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。9:彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。

 

 もちろん、ヨブの友人たちは、ヨブを慰めようとしているのですから、悪気はない。むしろ善意から言っている。しかし、その言葉がヨブを苦しめるのです。なぜなら、ヨブには自分は神の前に正しく歩み、罪を犯したことなどないという自負があるからです。実際、ヨブはそのような人であったのでしょう。そんなヨブにとって、もし、この苦しみが神に対する私の罪の罰であるとするならば、それは身に覚えのない不当な苦しみでしかないのです。だから、ヨブは友人たちに反論する。そうして、ヨブと友人たちの議論が、この4章から始まり延々と37章まで続くのです。

 みなさん、ヨブの苦しみは、悪魔がもたらした不幸や災いにあったからではありません。彼は「あなたの罪の結果であり、あなたの罪に対して神が罰をあたえたのだ」という友人たちの言葉に傷つき、心が痛み苦しんだのです。

 それと同じ言葉が、今、イエス・キリスト様の弟子たちによって、この生れつき目の見えない盲人に投げかけられるのです。「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と。

 おそらく、同じような言葉を、この人は何度も何度も耳にしてきたのでしょう。そして、その言葉は、彼を傷つけ苦しめて来たのではないかと思う。ひっとしたらこの人は「またか、もういい加減にしてくれ」と思っていたかもしれない。けれども、それでもこの人は、物乞いをしなければ生きて生きないのです。だから、人々の憐みを請うために道の傍らに坐るのです。

 その時、この盲人は突然、今まで聞いたことのない言葉を聞く。それはイエス・キリスト様の「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」という言葉です。それは、この生まれつき目の見えない人を通して神の御業が現れるということです。今まで、罪の罰を担ったものであると言われ続けてきたこの人が、神の御業を現すのです。

 この人が、目が見えないという障碍を負っているのは、罪に対する罰なのだという言葉。それはその人の存在そのものを否定する言葉です。そのような言葉を浴びせられ続けてきた自分が、「そうではない。あなたは神の御業を担う人間である」という言葉を聞く。その言葉は、いったいどのような響きでこの盲人の心に響き渡ったのでしょうか。

 それは、その人の存在そのものを暗闇の中から掬い取るような言葉です。だとすれば、その人を通して現れ出た神の御業とは何なのでしょうか。

 みなさん、私たちは、この箇所を読むと、それはイエス・キリスト様が、この見えない人の目を見えるようにしたことであると思ってします。私自身もそう思って読んでいた。でも、本当にそうなのでしょうか。

 確かに、聖書において、イエス・キリスト様が病を癒すとき、それは神の国の到来を示すの証の業として用いられています。しかし、そのために病の苦しみがあるのではありません。むしろ「あの人たちは罪の罰を受けて病や障碍という苦しみを負っているのだという」と人々の中傷や心ない声を投げかける世界に対して、「そうではない。彼らもまた神の創造の業であり、それゆえに神に愛されたかけがえのない神の子であって、神の王国の招かれているひとり一人なのだ」ということを証明するために、イエス・キリスト様は、癒しの業を成しているのではないか。私にはそう思えて仕方がないのです。

 

 この生まれつき目の見えない人は、人々が言うように、罪の罰を負って生まれてきたのではありません。神に愛され、神の創造の御業の中で生れて来た尊い神の子なのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、人々が中傷し、蔑んで見ているこの目の見えない人の前を、その苦悩を見過ごして通り過ぎることができないのです。だから、この人に目を止め癒すのです。

 みなさん、私たちは、イエス・キリスト様が、この目の見えない人の目を開くにあたって、「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」と言っている言葉に着目する必要があります。

 というのも、このヨハネによる福音書は、私たちが生きている「この世」という世界は暗闇に覆われていると言っているからです。だとすればその暗闇の世界では、誰もが目が見えていないのです。だからこの生まれつき目の見えない人が、神の愛する神の創造の業なのだということに気づかない。見えていない。だから「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親の罪なのだろう」などと言うのです。

 みなさん、目が見えていないのは、この生まれつき目の見えない人ではない。彼の周りにいた人々も、イエス・キリスト様の弟子たちも、いえ、今の時代の私たちだって同じように暗闇に覆われて目が見えていないのです。

 そうではないですか。私たちは、どこかで病に苦しむ人や障碍を負った人をかわいそう人、憐れむべき人だと、知らず知らずの内にそのような目で見ているようなことはないですか。人種や民族、肌の色や国籍と言ったこと、最近では性志向や性自認といった問題で、白眼視し、差別的なまなざしを持って見ていることがないでしょうか。そして知らず知らずの内に心無い言葉をかけてしまい、心を傷つけてしまっていることがある。

 そのような私たちに、暗闇に勝利したと言われるイエス・キリスト様は、目を開いてくださるのです。この物語は、「この世」という暗闇に覆われた世界の中で、目が見えなくなってしまっている私たちの目を開いて、私たちひとり一人が、すべての人が尊厳ある、尊いひとり一人であるということを見えるようにしてくださることを告げる物語なのです。なぜならばイエス・キリスト様は「世の光」だからです。

 そのキリストの光に照らされた者にとっては、もはや差別も区別もなく、誰一人も卑下されることもなく、すべての者が、皆がキリストの照らす光のもとで一つなのです。

 だから、誰もがキリストの弟子となれるし、神の恵みを受けることができる、神の恵みに与ることのできない者、神に愛されていない者など一人もいないのです。そのことを端的に述べているのが、先ほどお読みしたガラテヤ書の3章23章から29節、とりわけ27節から29節です。そこには

 

26:あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。27:キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。28:もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。29:もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 

と言われている。

 みなさん、私たちはイエス・キリスト様というお方のもとに身を置き、この人が照らす光の輝きによってあらわされた世界、それは神の王国と言って良いのですが、その世界を見る時、そこには、ダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、また健常者も障碍者の区別もなく、また、病の内にある者の健康なものも、すべての者が神の創造のもとにある神の業としてのかけがえのない一人一人が移りだされるのです。

 ヨブは、自分を襲った災難や病気という悪魔がもたらした出来事で心を痛め、傷つき、苦悩したのでありません。因果応報説と言ったこの世の闇の中にある友人たちの言葉、すなわち人の言葉によって苦しんだ。また、この目が見えないという障碍を負った人もまた、「生まれつき目が見えないのは、この人か、その両親の罪の罰として目が見えないのだ」という、人々の心無い言葉で傷ついていた。

 しかし、イエス・キリスト様は、そうではない。私たちはみな、そうすべての人は皆、神の創造の業のもとにある神の業を顕れである尊い存在なのだと言う。だから、イエス・キリスト様は、弟子たちの問いに対して、罪の宣告をするのではなく、まず神の恵みの業を語るのです。そのことを、今日の聖書箇所を通してイエス・キリスト様は「世の光」として、照らし出し、私たちに教えてくださっているのです。みなさん。私たちは、そのイエス・キリスト様に私たちは一つに結び合わされているのです。

そのことを、今しばらく、目を閉じ、心を静めて思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。