2023年9月20日水曜日

苦しみは窓

 「苦しみは窓」

試練や苦難というものは、できるならば会いたくはないものです。
しかし、どんなに私たちがそれに会いたくないと思っても、試練や苦難は勝手に向こうの方からやってきます。それは、招かれざる客であり、決して好ましいものではありません。しかし、どんなに嫌な客であっても、それは客であるがゆえに手土産を持ってくるのです。そして、その手土産は、とても価値あるものなのです。

 「災い転じて福となす」。これは日本のことわざですが、災いが転じて福となるのは、試練や苦難という招かれざる客が持ってくる手土産を受け取ることことによってです。では、その手土産とは何なのか?
 16世紀前半、ヨーロッパでは宗教改革という出来事がありました。この宗教改革の立役者であったマルティン・ルターという人物は、祈りについて、次のように言います。すなわち祈りとは、「願い求めることであり、思い廻らすことであり、試練にあうことである」というのです。そして、試練に会うと言うことが祈りということでもっと大切な事なのだと言うのです。祈りというものが、願い求めるということはわかります。実際、私たちが祈る時、私たちは、神や仏の願いを訴えているからです。祈りが思いを思い廻らすものであるということも何となくわかるような気がします。私たちは、しばしば祈りつつ「どうしたらいいだろうか」「どうしてこんなことになったのか」と思い廻らしつつ祈るからです。しかし、祈りはこころみに会うことであるとは、どういうことなのでしょうか。
 祈りというものは、祈りを捧げる相手、詰まり祈る対象がいます。それこそキリスト教であるならば聖書にあらわされた神に向かって祈るのです。そのとき、私たちは真剣に自分が信じる信仰の対象と向き合います。自分が信じる神に向き合い、それお方がどのような方であるかを知るのです。そして、それこそが祈りということの本質なのだとルターは言っているのだろうと思います。
 試練の中に置かれた時、私たちが真剣に神に向き合うならば、神もまた真剣に私たちに向き合ってくださいます。試練や苦難が持ってくる手土産は、まさに「この真剣に神と向き合うと時」なのです。そして、そこで出会う神の顔は、慈しみに満ち、愛に包まれているのです。その神の地合いが、試練や苦難の中に置かれた私たちの心に、慰めと平安をもたらすのです。
 この試練や苦難がもたらす神との出会い。それは「苦しみは窓」ということです。そのことについて私の友人の岩本遠億牧師は3分ほどの短いメッセージとして次のように語ります。そのショートメッセージをお聞きになりたい方は、下に記したアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックすれば聞くことができます。(音声が出るまで、すこし時間がかかることがあります) 


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29haf2?fbclid=IwAR1P5TeLGD2TwMD8RYFpWR-f1X196KDUbk-bpmCJxGZvF9pN04Dgq53bJdc

この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声でお伝えしている者ですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

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