2023年9月19日火曜日

愛の基準としての聖書

 主日礼拝「愛の基準としての聖書」            

旧約書:ヨナ書4章9節から11節
福音書;ヨハネによる福音書9章18節から26節
使徒書;ヨハネ第一の手紙4章7節から11節

 今日の礼拝説教の中心となる箇所はヨハネによる福音書9章18節から23節です。この箇所は、生まれつき目が見えなかった盲人をイエス・キリスト様がお癒しになったという出来事から起こった一連の出来事に中にある一つのエピソードです。
 イエス・キリスト様が、ひとりの生まれつき目の見えない盲人の目をみえるようにしたという出来事は、この盲人を知っている人々にとっては、とても大きな驚きの出来事でした。しかし、その癒しの業が、安息日に行われたために波紋を広げます。イスラエルの民の間には、安息日は人を癒すということを含めて、一日中、いかなる労働もしてはならないと彼らの戒律である律法に定められているからです。
 そのため、このイエス・キリスト様がなさった「生まれつき目の見えない人の目を開き、見えるようにした」という癒しの業に対する評価が分かれた。あるパリサイ派の人々は「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」と言い、ほかの人々は、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」と言って、論争を始めたのです。

 この二つの相対する主張は、それぞれの着眼点が違います。イエス・キリスト様に対して、「その人は神からきた人ではない」といって批判的なパリサイ派の人々は「安息日を守っていないのだから」という、安息日の遵守という戒律を守るか否かに目を向け、そこからイエス・キリスト様というお方を評価します。しかし、別の人々の目の付け所は違います。彼らはイエス・キリスト様が「目が見えない人の目をみえるようにした」というイエス・キリスト様の業に着目して、「そんな素晴らしい善いことをする人が悪い人間であろうはずがない」と言って、イエス・キリスト様を評価するのです。

 すると、彼らは、この生まれつき目の見えなかった盲人の両親を呼び出して、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」と尋ねるのです。生まれつき目の見えなかった盲人の目が見えるようになったということ自体が信じられなかったからです。すると、この盲人の両親は、

 これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう。

と答えたというのです。
 みなさん、この出来事は、ヨハネによる福音書9章全体に横たわる生まれつき目の見えなかった盲人の癒しの物語の中にある小さな一つのエピソードです。しかし、とても私たちに大切なことを教えてくれるエピソードでもあるのです。というのも、22節、23節に

 両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエス をキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。

とあるからです。
 ここには、このイエス・キリスト様の安息日に目の見えない人を癒すという出来事をめぐる議論の是非に関わらず、すでにユダヤ人の間では、イエス・キリスト様をキリストと告白するものは、会堂から追い出すことが決まっていたことが記されています。
 それは、イエス・キリスト様を排斥する動きが、恐れを感じるほどの同調圧力を伴う力となってユダヤ人社会を、少なくともエルサレムの、街に住む住民を覆っていたことをうかがわせる言葉です。
 その力とは宗教的権威の持つ力であるといっても良いでしょう。みなさん、この当時のイスラエルの民によって構成されるユダヤ人社会を結び付けているものの一つにユダヤ教の信仰を上げることは、決して間違っていないでしょう。むしろ、ユダヤの人々をイスラエルの民であるという民族意識にまで高めているのは、彼らが神の選びの民であるという宗教意識であったと言ってよいだろうと思います。そして、その神の選びの民であるということが律法と深く結びついている。

 イスラエルの民を神が選んでくださり、選びの民としての生き方を示すために律法が与えられた。だから律法は神の恵みなのであり、その恵みに応答して生きるところにイスラエルの民のアイデンティティ(自己意識)があるのです。
 その律法に、「『安息日には何の業もしてはならない』と書いてある」という主張は、宗教的権威を伴う言葉です。その言葉に基づいて、「安息地には何の業もしてはならないと律法に書かれている。にもかかわらず、ナザレのイエスは安息日に癒しの業をしている。だから、ナザレのイエスは罪びとだ」と三段論法的にイエス・キリスト様を捕え、イエス・キリスト様をキリストと告白するものは、会堂から追い出すという空気(雰囲気)が、イスラエルの民を支配している。まさに、そのような状況のもとにエルサレムの街が覆っている。だからこそ、者生まれつき目の見えない人の両親は、イエス・キリスト様が癒してくださったのだとは言い辛く、彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」というのです。

 本来ならば、喜びをもって「ナザレのイエスというお方が、あの子の目を見えるようにしてくださったのです」と、喜びをもって答えたい場面です。しかし、この場面を描く聖書の言葉には、そのような喜びの気持ちが伝わってこない。むしろ伝わって切るのは、その場を覆っている重い空気です。
 そしてその空気の重さは、その場が裁きの場となっているからです。「安息日には何の業もしてはならない」という律法の言葉が、それは聖書の言葉でもあるのですが、その聖書の言葉が人を裁く裁きの基準として働き、安息日に目の見えない盲人を癒したイエス・キリスト様を裁き断罪している。それが、この聖書の箇所を思い空気で覆っているのです。

 しかし、聖書の言葉は、私たちを裁く基準として機能するものではありません。むしろ、聖書の言葉は、律法を含めて、私たちを愛する神の愛の基準であり、その神の愛に生かされている私たちが、神の愛に生きる愛の基準として機能すべきものなのです。
 
みなさん、聖書の言葉は、愛をその本質とする神によって吹き出された(θεόπνευστος〈セオプニューマトス〉)神の言葉です。愛の神の口から出る言葉は、愛の言葉なのです。ですから、聖書の言葉は、人を裁くために裁きの基準として用いられるべきではありません。むしろ、神の言葉は私たちを教え育み、育てるためにあるのです。

 みなさん、私たちは、先ほど旧約聖書のヨナ書4章9節から11節の言葉に耳を傾けました。このヨナ書というのは、神がヨナという預言者を、二ネベという町に遣わし、神の言葉を語らせるという物語です。
 二ネベはアッシリア帝国の首都であり、その当時では大都会です。神がその二ネベにヨナを遣わしたのは、二ネベが神の目に悪に満ちた街だったからです。実際、イスラエルの民は、このアッシリア帝国によってひどい目にあわされていたのです。
 その二ネベの街に、神はヨナを遣わし、「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉を告げるのです。この言葉は、神の裁きの言葉としての響きをもって聞こえてくる言葉です。だから、ヨナも、二ネベの街の人々が滅びることを期待しながら、神の言葉を伝えるのです。

 ところが「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉を聞いた二ネベの人々は神を信じ、自らの行いを悔い改めるのです。それで、神は二ネベの街を滅ぼすのを思いとどまるのです。結局、裁きの言葉をしての響きをもって聞こえていた「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉は、二ネベの人を裁くための言葉ではなく、むしろ、二ネベの人々を正しい道へと導き、生かすための神の愛から発せられた言葉だったのです。

 それに反して、アッシリア帝国からひどい目にあっていたユダヤ人であるヨナにとって「「あと40日後に二ネベを滅ぼされる」という神の言葉は、様に裁きの言葉そのものとして受け止められていました。だから二ネベの街の人々が滅びるのを見るのを心待ちにしていた。にもかかわらず、二ネベの街は滅びるのではなく神に立ち帰っている。そして彼の心を支配していた悪から二ネベの街の人々を救い出すのです。しかしヨナは、その神の慈愛に満ちた行為が気に入らない。だから、ヨナは不快に思い、腹の虫は収まらず、神に文句を言うのです。

 そんなヨナを教え諭す言葉が、先ほどお読みした9節以降の言葉なのです。そこで語られている言葉は、いかに二ネベの街の人々を愛しているかを語る言葉です。いえ、神は二ネベの街の人々だけではない、私たちが、「あんな奴なんか滅んでしまえばいい」と思うような人でさえ、愛し、救いのわざをもたらすのです。ましてやみなさんも、そう、あなたも神は愛し、恵み、慈しんでおられる。神の愛がみなさんに注がれているのです。そしてそのような神の愛は、イエス・キリスト様の「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という言葉(マタイによる福音書22章39節)の中に、また「あなたの敵を愛しなさい」という言葉(ルカによる福音書6章27節、35節)に、集約されて語られます。そして、その「敵をも愛する愛」は、「安息日に何の業をしてはならない」という言葉の背後に流れている。それは、6日間の労働で疲れたの心と体に休息と癒しを与えるためのものであり、だからこそイエス・キリスト様は、安息日であっても病に苦しむ人を癒すのです。そして、その業は私たちに喜びをもたらすものです。

 にもかかわらず、その愛の神の口から吹き出された言葉が、裁きの基準として用いられるならば、その言葉が私たちのうちから喜びや感謝を奪いとっていく。今日の聖書の箇所は、そのことを私たちに教えてくれるのです。
 

ですからみなさん、私たちは聖書の言葉を裁きの基準として捕らえるのではなく、むしろ神が私たちを愛する愛の基準として捕らえ、用いようではありませんか。たとえそれが、私たちの耳に裁きの言葉として響いても、それは絶えず私たちを正しい道へ導く神の愛から出た言葉であることを知り、「私はダメだ」と自分自身を責めるのではなく、むしろ、私たちを愛する神の語りかけとして聴こうではありませんか。

 みなさん、今日の聖書の箇所に見られように、神から与えられた律法を裁きの基準として用い、喜びと感謝の出来事から、喜びや感謝を奪い去る人々の姿を見た使徒ヨハネは、

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべ て愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である(ヨハネによる福音書4章7節から8節)。

とイエス・キリスト様を信じ、イエス・キリスト様の弟子になった人々にそう呼びかけるのです。そして、私たちもまた、そのイエス・キリスト様の弟子として召され、イエス・キリスト様に倣い、愛する者となるようにと召されてている者なのです。そのことを覚え、神が私たちを愛してくださっているということに、思いを馳せたいと思います。

 しばらく目を閉じ、心を静めて、私たちを愛してくださっている神を想います。静まりの時を持ちましょう。

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