2024年1月10日水曜日

詩篇49篇の黙想

 詩篇49篇の黙想

 この詩篇49篇には、この詩人(それは、表題に従えばコラと言うこと似なるのだが)の死生観がにじみ出ている。しかも、その死生観は旧約聖書においては極めて特異な死生観である。

 一般に旧約聖書は、人間の死後に関心を寄せていない。むしろ生きているその生において如何に神の祝福を得て生きるかに関心が向けられている。そしてその神の祝福とは、長寿であったり、多くの子供であったり、財産と言った寝に見える形で表される。

 ところがこの詩人は、それらのものがいっさい空しいと言う。そして、死んだなら人は等しく地の下にある陰府に下るのだと言うのである(11節12節)。もちろん、死んだ後、人は皆等しく陰府に下るというのは旧約的発想である。だからこそ、この地上で得る神の祝福に目が向けられているのである。だが、この詩人は、魂の救いに目を向けているのである(8節9節)。そしてこの魂の救いには贖い代が求められるのであるが、その贖い代を人は払いきることが出来ない。だれも払いきることが出来ないのである。

 もしここで、この詩が終わっていたとしたならば、人の一生とはなんと空しいことだろうか。東方教会の伝統は、罪と死の関係をわれわれ西方教会と逆転させ、死と罪の現実を、この死の空しさのゆえに、人は罪を犯す者となるという風に捉える。人間の死という現実があるがゆえに、人間は刹那的この世の快楽を求め、そこに罪が入り込むというのである。このような見方の神学的是非はあるかも知れないが、極めて卓越した人間観察だと言える。

 しかし、この詩人は、魂の贖いに目を向ける。それは、陰府から我々を贖い出す神の御業なのであり、キリストの十字架によって完成された神の救いの業なのである。

 この人は死んだなら皆等しく陰府に下るという旧約的思想に立ちながら、その陰府から神は魂をあがないだして下さるということを、コラの子たちが詠うということは、何とも皮肉な出来事である。というのもコラという人物は、モーセとアロンに逆らい、この世の栄誉を求めて生きたまま地に呑まれ、陰府下った人物だからである(民16:1-35)。その子孫が、陰府から贖い出す神の御業をたたえる者となっていると言うことにも、我々は神の救いの歴史の不思議さ見ることが出来る。

 旧約聖書全般を見れば、そこには確かに、神の前に如何に生きるかが問題とされ、その結果が生きている中に現れることが切に願われている。しかし、死後にも神の祝福があることが、所々に垣間見られている。この詩篇に先立つ48篇の最後の言葉は、「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」となっている。この死を越えてと言う言葉は、死という事態を越えて死後まで導くと言う意味と捉えるのか、死線を越えてと捉えるのかによって意味は違ってくる。また、個人的な死を意味し死後の世界を導くと捉えるのか、個人的な死の現実があってもその子孫を世々代々に渡って神が、神の民を導くと言う意味にも捉えられる。おそらく、文脈から言うならば、それがもっとも適切であろう。

しかし、黙想の世界においては、この「この神は代々限りなく私たちの神、死を越えて私たちを導く、と」と言う言葉の後に、詩篇49篇が置かれているのはなんとも味わい深い事象である。

2024年1月9日火曜日

23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」

 23年1月第一主日礼拝説教「マルタの信仰告白」                2023.1.7

旧約書:申命記18章13節から21節
福音書:ヨハネによる福音書11章17節から28節
使徒書:ヘブル人への手紙11章1節2節

 今日の礼拝説教の中心となる箇所は、先週の礼拝説教に続くヨハネによる福音書11章17節から28節です。イエス・キリスト様が親しくしていたマルタとマリヤの姉妹の兄弟ラザロが病気になっているとの知らせを聞き、そのラザロのところへ行こうとして、旅立たれます。今日の箇所は、そのマリヤとマルタそしてラザロの家に、イエス・キリスト様が到着したときの出来事が記されています。

 イエス・キリスト様が到着したとき、既にラザロが死んで墓に葬られ四日が過ぎていたとあります。また、イエス・キリスト様はラザロが病気であるという知らせを聞いて、二日ほどたってベタニヤにあるラザロに家に向かっています、またその旅程は二日ほどかかっています。だとすれば、マリヤとマルタの家から使者がイエス・キリスト様に所にたどり着くまで、最低で二日、そして仮にイエス・キリスト様が知らせを聞いすぐに旅立ったとしても往復で二日かかるのです。だとすればイエス・キリスト様がラザロの病気の話を聞いた時にはラザロは亡くなっていたことになります。
 このラザロの家があったベタニヤというのは、エルサレムから25丁はなれたところにあったといいますので、距離にして約⒉7㎞というまさにエルサレムの近郊です。ですから、11章7節にありますようにイエス・キリスト様がラザロのもとに行こうと言ったときに、弟子たちが「先生、ユダヤ人たちが、先ほどもあなたを石で打ち殺そうとしていましたのに、またそこうに行かれるのですか」と心配したのもうなずけます。ユダヤ人がイエス・キリスト様を石で打ち殺そうとしたのは、まさにエルサレムでの出来事だったからです。
 しかしそれでもなお、イエス・キリスト様はエルサレムの郊外のラザロの家に行かれるのです。イエス・キリスト様が来られたと聞いて、マルタはイエス・キリスト様を出迎えに行きます。そこで、マルタがイエス・キリスト様に発した言葉が 

主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています

というものです。ウィリアム・バークレーや榊原康夫をはじめとする多くの聖書注解者が、このマルタの言葉に、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きと同時に、それでもなお、イエス・キリスト様を信頼する心が読み取れると言っています。

 この、「ラザロが病気であることをお知らせしたのに、どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか」という非難の響きというのは、おそらくはイエス・キリスト様が、ラザロが病気であるという知らせを聞いて、なお二日滞在していた地にとどまっていたということを念頭に置いてのことであろうと思います。
 しかし、イエス・キリスト様が知らせを聞いた時点で、ラザロはすでに亡くなっていたのです。たとえ、イエス・キリスト様が知らせを聞いてすぐの駆け付けたとしても、ラザロが亡くなって二日が過ぎています。そういった点を考慮すると、マルタの言葉に非難めいた響きを読み取るのは、少々読み込みすぎかもしれません。
 しかし、彼女がイエス・キリスト様に信頼を寄せていたことは確かです。「彼女のあなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」という言葉は、真実な心から出た言葉なのです。ところが、その信頼は十分なものではありませんでした。そのことをイエス・キリスト様は明らかにし、ただ信頼するだけではなく、イエス・キリスト様を神の御子として信じ受け入れる信仰告白へと導くのです。ではどうやって、イエス・キリスト様はマルタを導かれたのでしょうか。
 まずイエス・キリスト様は、マルタに「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と語りかけます。その語りかけにマルタは、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えます。このマルタの答えは、当時のユダヤ教の終末論的希望と一致します。
 当時にユダヤ人たちの間に死者の復活があるという人たちと、復活はないと否定する人たちがいたことは使徒行伝23章8節を見れば明らかです。そこには「元来、サドカイ人は、復活とか天使とか霊とかは、いっさい存在しないと言い、パリサイ人は、それらは、みな存在すると主張している」と記されています。
 またN.T.ライトというイギリス国教会の司祭で新約学者は、当時のユダヤの民衆の名Kには、当時のローマ帝国の支配下にある状況にあって、彼らは、その支配から解放され、新しい聖地と神殿が回復され、その地で自由に律法を全うして生きていくという希望を持っていたと言います。そして、その時に命に甦るという希望を持っていた人たちがいたと述べています。まさに、パリサイ派の人々はそのような人だったと言えるでしょう。ですから、マルタが「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」と答えは、そのような人々の希望を言い表す言葉であったと言えます。

 しかし、その答えに対してイエス・キリスト様はさらに、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と追いかけるのです。
 みなさん、マルタは21節22節で

   「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」

と言っています。つまり彼女は、イエス・キリスト様が願うならば、神様はラザロに命を与え死から救ってくださっただろうと言っているのです。確かに、神様は命を与えるお方です。ですから、彼女の答えは間違っていない。しかし、このときにマルタにとって、イエス・キリスト様は、神と人をとりなす存在ではあっても命を与える存在ではないのです。おそらくマルタはイエス・キリスト様を偉大な預言者と捉えていたのだろうと思います。
 みなさん、私たちは先ほど、申命記18章の13節から21節までをお読みしました。そこにはモーセが語った言葉が記されていますが、そこでモーセは「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」と言っています。
 モーセは、イスラエルの民がエジプトで奴隷となっていた時、その支配から解放し、人々を救いした預言者です。そのモーセのような救いをもたらす預言者が起こされると旧約聖書は語るのです。また、マラキ書4章5節には

見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」

 とあります。つまり、やがて、イスラエルの民が救われる救いの時にはエリヤのような預言者やモーセのような預言者がやがて現れるというのです。そのことを受けるようにして、ヨハネによる福音書の1章19節から21節で人々がバプテスマのヨハネに、「あなたはエリヤの再来ですか、それともあの預言者ですか」と尋ねている箇所があります。このあの預言者というのが、モーセが言った私のような預言者が起こされると言ったその預言者なのです。

 そして、バプテスマのヨハネにしたように、イエス・キリスト様を、そのエリヤの再来であるとか、モーセのような預言者であると考えていたのではないかと思われます。そこには、彼らが待ち望んできた救い主であり、イスラエルの王となるお方が来る前に、預言者エリヤとモーセのような預言者再来するという期待があったからです。

そしてマルタもまた、イエス・キリスト様をそのような預言者であると捉えていたと思われるのです。だからこそ、そのマルタに、イエス・キリスト様は、「私が死者をよみがえらせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るのです。それは、イエス・キリスト様は、エリヤでもなく、モーセのような預言者でもなく、まさこの世界に王として来られたお方であり救い主メシアだからです。
 イスラエルの民にとって、イスラエルの王は神自身です。ですから、「私が死者をよみがえさせ、命を与えるものなのだ、あなたはそれを信じるか」と迫るイエス・キリスト様の言葉は、私こそがイスラエルを抑える王であるということを信じるかということを迫る言葉でもあります。しかし、イエス・キリスト様は、ただイスラエルの民を救う王として来られたわけではありません。それにまさる神の王国を治める王として来られたお方です。そしてその神の王国は、単にイスラエルの民だけに開かれているのではなく、世界中のすべての人に対して開かれているものです。
 もっとも、マルタ自身がそこまで理解できていたかどうかはわかりませんが、しかし、それでも、彼女はイエス・キリスト様を信頼していたその信頼は確かなものであったようです。イエス・キリスト様に「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と問われ、素直に「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」と応えるのです、

 来るべきキリスト、それは油注がれた王でということです。そしてイスラエルの民にとってイスラエルの王は、神ご自身なのです。だから、マルタは。イエス・キリスト様は神の御子であるというのです。そして、この言葉はマルタにとっての信仰告白の言葉となった。
 みなさん、マルタはまだ、ラザロのよみがえりを見たわけでもありません。また、具体的に神の王国がこの世界の中に広がっていくのも見ていない。けれども、まだ見ていないのに、イエス・キリスト様の言葉を聴き、その言葉をそのまま受け止めて信じるのです。もちろん、マルタとてやみくもに信じたわけではないでしょう。ここに至るまでにあるイエス・キリスト様との様々な交流や、それまでイエス・キリスト様がなされたことを見て来たことを通して築き上げられた信頼関係もあったでしょう。しかし、それでもなお彼女は、まだ見ていない信仰の事実を信じ受け入れたのです。

みなさん、私は、このマルタの姿に、先ほどお富舌ヘブル人への手紙11章1節のある「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することであるという新を見る思いがします。そしてその信仰の大切さを思うのです。それと同時に、信じる決断、信仰告白に至るまでに、いかに、イエス。キリスト様に対する信頼が大切かということを教えられるます。
 それは、今日、イエス・キリスト様を伝える伝道の業が困難な日本の現状における教会に対するとても重要な事だと思うのです。みなさん。教会はキリストの体であり、キリストの業を行う共同体です。そのキリストの体である教会が、人々に信頼されていなければ、教会が語る宣教の言葉が人々に受け入れられ、信仰告白に導くことができないからです。

 私たちはイエス・キリスト様に信頼されたように、人々に信頼されるキリストの業を行うものとなる必要があるです。そして、そのキリストの業とは、神を愛して礼拝をし、隣人を愛するという愛を実践していくことだと思うのです。このことを覚えながら、今年一年の歩みをしていきたいと思います。しばらく静まりまりましょう。心を静めて、神の御子であるイエス・キリスト様のことを思いましょう。

神様の不思議な名前

 

聖書の中で、神様がご自分の名前について語っているところがあります。その箇所は旧約聖書の出エジプト記という箇所の3章13節、14節です。そこにはこうあります。

モーセは神に言った。「御覧ください。今、私はイスラエルの人々のところに行って、『あなたがたの先祖の神が私をあなたがたに遣わされました』と言うつもりです。すると彼らは、『その名は何か』と私に問うでしょう。私は何と彼らに言いましょう。」神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」そして言われた。「このようにイスラエルの人々に言いなさい。『私はいる』という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと。」

ここのは、神様の名乗りがあります。この神の名乗りは、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に向かってなされるのですが、そこで表された神様の名は「私はいる」というものです。この「私はいる」という言葉は、旧約聖書が書かれたもともとの原語であるヘブライ語ではאֶהְ יֶ(エヒィエー)という一つの単語です。これはヘブライ語の動詞は、動詞が人称を含みながら活用するからです。このエヒィエーは「私はある」との訳されますので、以下では「私はある」とします。

神様は、私の名は「私はある」であると言われます。実に奇妙な名前です。しかし、この名前は、とても大切なのです。というのも「ある」という動詞は、英語のbeであり、要は「存在する」ということを意味しています。つまり、神は、この世界に存在するすべてのものを存在させている存在の根源であるということなのです。ですから「あなた」が「今、ここに存在している」のは、あなたが自身の力や頑張りによって「あなた」が存在しているのではなく、神様が「あなた」という人を「存在」させているのです。

この「わたしはある」という言葉の「わたし」一人称単数うの代名詞です。ですから「わたしはある」という言葉の「わたし」の部分に、、だれもが、「Aはある」というように、「わたし」の部分に自分の固有名詞を入れることが可能です。そのときまさに「わたしはある」いう言葉には、その言葉を発した人自身の、「わたしはわたしである」という自認が生まれてきます。

 この自認する「わたし」は絶対的「わたし」ではありません。それは極めて相対的です。たとえば、ある高校で成績がトップの子がいます。その子の「わたし」は「自分は優秀だ」と自認する「わたし」です。そして周囲もこの子に期待を寄せています。しかし世の中には優秀な人間が数多くいます。そのような中に置かれると「自分は優秀だ」と自認する「わたし」は崩壊し、「自分は普通だ」あるいはばあいのよっては、「自分は劣っている」という自認をもって「わたし」を見ることすらあるのです。つまり、通常わたしたちが自覚する「わたし」という自分は、極めて相対的であり、他人の目から見た自分の姿なのです。

 そのようなわたしたちが、『は「わたしはある』というものである」と名乗る神様にむかい、「わたしはある」という名を呼び求める時、周囲に左右されない真の自己が現れ出ます。それは、神のよって存在させられている「わたし」の姿であり、神の目からみた「わたし」の姿なのです。神様は人間や世界を超越する絶対他者です。ですからその絶対者である神様の前に立つときに、そこにゆるぎのない真の自己の姿が立ち現れるのです。それこそが、まさに神の目からみた「わたし」の姿なのです。

 その神様の前に立ち現れた真の自己としての「わたし」と現実の自分自身の自我が自認する「わたし」との間には差異があります。自我とは、この世界の中で様々な経験をし、その経験を通して自分が自分自身の意識の中に思い描く自分の姿だからです。そしてこの世界で生きるわたしたちが経験することの中には、様々な試練や苦しみや悩みを経験があります。その経験の中で苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたし」が、神様に向かい「わたしはある」という神様の名を叫び呼び求めるとき、その叫びはただ神様の名を呼ぶということに留まらず、ここに苦しみ、悩み、悲しみ、傷つき痛む「わたしがいる」という声にもなります。つまり「わたしはある」という名によって、痛みを通して神と人とが不可分に結びつくのです。そのような「わたしはある」という名前で神様は自らをエジプトで奴隷として苦しんできたイスラエルの民に現わしたのです。
 神様が「私はある」という名のものであるというとき、奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を生かし、存在させているのは私(神)であるという宣言でもあります。それは、「私はあなたを大切に思っているよ。だから私は、あなたを生かし存在させているのだ」という神様の前言でもあり「私は、いつでもあなたと共にいる(エヒィエー)よ」という神様の語り掛けでもあるので。。

 これらのことを思うとき、神様が自らの名を「わたしはある」として名乗られたことは、実に深みがあることだと言えます。そして、神様は、私たちに「私はある/いる」という神様の名を呼び

2024年1月8日月曜日

アイム・オッケー

 「アイム オッケー」

 旧約聖書イザヤ書43章1節、2節にこういう言葉があります。

「恐れるな。私はあなたを贖ったのだ。あなたは私の名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが、水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中をあるいても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 この聖書の言葉は、「恐れるな」と語りかけていますが、それは、「大丈夫だよ。心配しなくてもいいよ。」という神様からの語りかけの言葉です。
 私たちの人生には、様々な試練や試みと言ったことが起こります。どんなに順調で、人から順風満帆だと思われるように人生にだって、苦しみ悩むことは、何度かあるように思うのですが、どうでしょうか。まさしく、人生に、川の中を過ぎるときや、火の中を歩くような時があるんですよね。そんなときにも、神は、「大丈夫。心配しなくてもいいよ。」とそう語りかけてくださっているのです。
 私が、会社勤めをしているときの事です。仕事で問題を抱え込んで、悩んだり落ち込んだりしているときに、よく先輩が「大丈夫、命まで取られることはないから」と声をかけてくれました。そう言われると、少しだけ気が楽になる感じがしました。けれども、神が「大丈夫」は、「命まで取られることはないから大丈夫だ」と言うことではありません。「私が、あなたと共にいて挙げるから大丈夫だよ」とそういわれるのです。

 人生には、本当に本当に苦しいことや悩ましいこと、あるいは心配事を抱え込んで過ごすときがあります。私もそういう時を何度も過ぎしてきました。ある時は、母の死から始まって、娘たちの受験や、教会の様々な問題と、本当にいろんな事があった一年素図五しました。その時は心配なことや不安なこと、あるいは頭を悩ませることが一杯あって、正直なところ、心身共に疲れ切ってしまっていました。その時だけではありません、そういうことが何度もあったのです。
 そんなときにはね、静かに部屋にこもって、心を静めて祈るなんて事はできません。そんな時は、「ただ神に向って、『どうしてですか』と問いかけ、心の不満を神に語りかけるしかできなかったのです。しかし、ある意味それは、神に向かってなされる呻きような祈りであったということができます。
 試練の中で、神に不満をぶちまけ、「なぜこんなことの成っているのか」とつぶやく声ですら、神は耳を傾けて聴いてくださっているのです。そのことに気づいてから、私は、よくお風呂で、「神よ、どうしてですか。」と、自分の不満を神に語りかけていました。ひどいときには、祈りの言葉さえ出てこなくて、ふてくされて過ごすことさえありました。でも、それはそれで、私の神への意思表示だったのです。
 けれども、そんな私に、神はいつも寄り添ってくださっていました。そして、心の中に、「大丈夫」だと語りかけてくださっていたのです。もちろんそれは、言葉としてではありません。けれども確かに、神は私と共にいて、私を慰め、励ましてくださっていたのです。だからこそ、様々な試練やいろいろあった事を乗り越えてこられたのだろうと思います。
 この神が、私と共にいてくださるならば、これからもきっと、いろいろと思い悩み、落ち込むことがあっても、きっと「I’m OK、私は大丈夫」だと思える時がくるのだろうと思います。そして、あなたもこの神を信じ心に受け入れるならば「You are Ok、あなたも大丈夫」だと思えるようになると思うのです。

2024年1月4日木曜日

神様は決して監視しない

 



 夫婦がクリスチャンである家庭をクリスチャンホームというような呼び方をします。そのような家庭に生まれてきた子供は、自然とキリスト教的な環境で育ちますが、そのクリスチャンホームに生まれ育った子どもたちに中の比較的多くの子供が、とても嫌だっだということがあります。それは、親が「神様は隠れたところもみているからね」と言われることだったと言います。
 この「神様は隠れたところも見ているからね」という言葉は、新約聖書マタイによる福音書6章の5節6節に書かれて入り言葉に基づいているのだろうと思います。その言葉は次のようなものにです。

 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 親としては、「神様は私たちが隠れてこそこそとしている悪いこともお見通しなのだから、人が見ていないからと言って悪いことなんかしてはダメだよ」という教育的な意味で言っているのでしょうが、言われた側は、神様から何もかも監視されていて、見ていないところでした悪いことをしたら罰せられる」という感じがして、嫌だったというのです。私は、そのような話を聞いていて、なるほどなあと思いながら、ここには、今までのキリスト教(特にプロテスタントやカトリック)の悪い面、誤った面がいくつか出ているなと思いました。
 一つ目は、今までキリリスト教は、人間に関して、人間の罪を強調し、罪と神の裁きとを結びつけそれを裁きを強調してきという過ちです。神様は人間の悪い所を見つけて裁き罰する怖い存在のようなイメージを与えてきたといえるでしょう。これは、決して正しい神理解ではないということです。神様は確かに、人間の過ちを正し、正しい歩みをすることができるようにと導かれるお方です。そのために人を戒めるようなこともありますがが、しかし裁き罰するようなお方ではありません。むしろ神様は、どこまでも人間を愛し、慈しまれるお方なのです。
 二つ目は、罪と悪とを同じものとして扱ってきたということです。罪が悪を産み出すというような構造があり、それゆえに罪と悪とは非常に結びつきやすい性質があります。しかし、厳密な意味において、罪とは神から離れ、神を意識することなく、神に背を向けて生きていくことであり、それは、私たちの良心の声に耳を傾けない人間の傾向性といった性質の問題であり、悪とは具体的に行う人間の行動の結果だからです。つまり、悪とは倫理的事柄に反する行為であると言えます。
 神様は、そのような罪と悪とを同じように扱い、人間は罪びとであるという否定的な人間観をもって人間を見、語る時に、まるでその罪しか犯さないような罪と裁きとをちらつかせながら、人間を監視しているようお方ではないですし、先ほど挙げた聖書の言葉は、決してそのような意味で語られたものではありません。むしろ、先ほどの聖書の言葉をよく読むと、神様はむしろ逆のお方であることがわかります。

 先の聖書の言葉は、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と言っています。それは、祈りという信仰的行為は、人に見せるものではなく、信仰という信じる心は、神に知っていただくものなのだということです。信仰は、決して人に見せびらかし誇るものではありません。先の聖書の言葉はそのことを戒める言葉です。
 さらに少し読み込むならば、祈りというのは、人に見られたくないこと、隠しておきたいことを神様に祈るということでもあります。人にはどうしようもない、人では解決できない問題を神様に祈るのです。人に頼って解決できる問題なら、人に頼ればよいのです。でも人に頼っても解決しないからこそ、神に祈り神により頼む。だから祈るという行為がそこに起こってくるのです。
 人に頼っても解決できない問題というのは、隠れたところにあります。それは「わたしたち」人間の、深い心の奥という隠れた部屋にあるものです。そこには、誰にも話せない心の痛みや悲しみがあります。そして、その心の奥底にある痛みや悲しみで「わたしたち」は悩み苦しむのです。その誰にも話せない、また話したくない悩みや苦しみを神様は知ってくださっている。その心の奥底にある痛みや悲しみの苦しむ「わたしたち」姿を知ってくださっているのです。
 神様は、「わたしたち」が隠れてこそこそと割ることをしないかと監視するようなお方ではありません。むしろ、深く傷つき、痛み、苦しみ私たちを知って下さり、手を差し伸べておられるお方なのです。

2024年1月3日水曜日

いつもあなたとともにいる

 元旦早々、大きな地震があり、被災された方のことを思うと心痛む思いで一日を過ごしたのですが、その翌日には羽田で大きな飛行機事故があり、大変な一年の始まりとなりました。令和6年能登半島地震の被災者の方も、一夜を大変不安で心細い思い出過ごされたでしょうし、羽田の飛行機事故で自己にあったJALの飛行機に乗っておられた乗客の方とその家族の方々や、海上保安庁で不幸にも亡くなられた乗員の方のご家族は、どんなに不安で心配であっただろうかと思います。その思いというのは、「わたしたち」には、とても想像しきれないものであろうと思います。

 ですから、私の経験など、それらの方々が経験したものと比べると、とても小さな取るに足りないものだろうと思いますが、被災された方の気持ちや事故にあわれた方々やそのご家族の方の思いに思いをはせているときに、私の幼い日のことを思い出していました。それは小学生の頃の話ですが、そのことに触れる前に、新約聖書マタイの福音書二十八章二十節にある言葉に目を身けたいと思います。それは、次のような言葉です。

「みよ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 これは、キリストが、いつでも私たちと一緒にいてくれるという約束です。キリストは、私たちの目で見ることはできませんが、いつも私たちの側にいて、私たちを見守って下さっているというのです。
 私が子どもの頃は、決して豊かではなく、父は遠くに働きに行き、妹達は祖母の所に預けられいました。ですから、家には私と母の二人しかいませんでした。その母も仕事で帰ってくるのは夜中。そんなわけで、私は、一人で夕食をし、一人で夜を過ごし、自分で布団を引いて寝ると言った生活でした。
 夜を一人で過ごすというのは、子どもにとっては寂しいものです。寝るときなんか、恐くて心細くて、電気を消すことができなくて電気をつけたままで寝るってこともありました。時には、電気をつけていても恐くて、テレビもつけっぱなしにして頭から布団をかぶって、寝ようとしたこともありました。
 やがて、父が小さな店でした自分でちょっとした小料理の店を開き、商売をはじめて、家族みんなで暮すようになりました。私は、そのとき、誰かがいつも側にいるってことは、本当に有り難いことだなって、心からそう思いました。
 今、私は、当時の自分のことを思い返しながら、「ああ、あのとき、『いつもあなたと一緒にいます』というキリストのことを知っていたら、あんなに寂しくて、恐い気持ちにはならなかっただろうな」ってそう思います。そう思うと、タイムマシンで、当時の私のところにいって、キリストのことを伝えてあげたい衝動に駆られます。「大丈夫だよ、キリストが君と一緒にいてくれるんだ。だから寂しくないし、怖がらなくていいんだよ」って教えてあげたい、そんな気持ちになるのです。
 今、子供の頃の私と同じように、独りぼっちの寂しさを感じている人はいませんか。孤独の中で、言いようのない恐れを感じている人はいないでしょうか。それのような、寂しさや、孤独感は、単に、物理的に独りぼっちだということだけに限りません。多くの人に囲まれていても、誰も助けてくれない孤独感や、誰も理解してくれない寂しさを感じることだってあります。そんな、孤独感や寂しさの中にある人の側に、キリストはいつも一緒にいてくれるのです。
 ですから、もし、あなたが寂しさを感じ、孤独を感じているならば、どうか心にキリストを信じ受け入れて下さい。キリストは、いつもあなたと共にいると言って下さっているのです。また、今は、そんな寂しさや孤独感を感じていない人も、将来、もしそう言ったことを心に感じるときがあったら、その時はどうか、あなたと共にいるというキリストのことを思い出して欲しいのです。
この悲しみや苦しみ、そして孤独感の中にいる人と共におられる神様、共におられる御子イエス・キリスト様について、この記事に類するなう内容を、私の友人の岩本遠億牧師が、「キリストのあって喪中なし」という短い説教を語っています。その岩本牧師の説教は、以下のアドレスをクリックし新しく開かれた『366日元気の出る聖書の言葉』にホームページにある「キリストのあって喪中なし」のタイトルのところにある▶マークをクリック指摘だれ場聴くことができます。岩本牧師の許可を得てリンクを張りますので、下のアドレスをクリックして、この記事の内容と合わせてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/genki-seisho/episodes/ep-e2dsvhg

2024年1月2日火曜日

揺らぐことのない土台

「新年明けましておめでとうございます」の挨拶を交わしたばかりなのに、大きな地震が私たちの国を襲いました。被災地の方々の不安や恐れ、そして悲しみを思うと、本当に胸が痛みます。そして北陸の寒い気候の中で、どのようにして一夜を過ごされたのだろうかと心配です。食料や水は足りているのだろうか、暖をが取れているのだろうか、救援や救助が一刻も早くなされるように祈って止みません。

 私たちの国は、自信が頻繁に起こりますので、ある程度、地が揺れ動くということに慣れていますが、それでも阪神・淡路大地震や中越大地震、東日本大震災、そして今回の能登半島地震といった大きな地震に直面しますと、さすがに同様してしまいます。ですから、あまり地震を経験したことのない国の人々にとって大地が揺れるということは、とても大きな恐怖をもたらすようです。
 実際、昔、アメリカから来られたの方々と会議をしているときに地震が起こった際、私の体感では震度1か2の小さな揺れででしたが、彼らの驚き用と怯えようはびっくりするほどでした。彼らにとって大地とは決して揺らぐことのないしっかりとした基盤であったようです。その揺らぐことのないものが揺れるということに不安を感じ、怖れを感じてしまったようなのです。
 私たちは、どことなく、当たり前のようにして今ある生活が、毎日当たり前のように訪れるように思っています。しかし、変わらないものなどなく、絶対に揺るぎのない土台など、私たちを取り巻く世界の中にはないのです。
 聖書の中に、イエス・キリスト様がお話になった砂の上に家を建てた人と、岩の上に家を建てた人のたとえ話があります。砂の上に家を建てた人は土台がしっかりしていませんので、雨が降り、川があふれ、強風が来るとすぐに倒れてしまいます。しかし岩の上に家を建てた人は、そのような災害が来ても大丈夫だというのです。
 これはたとえ話ですので、このたとえ話を使って、イエス・キリスト様は伝えたいメッセージがあったのです。それは、この世界にあるものにより頼んでいても、この世界のものに絶対的に信頼し、絶対的な信頼を寄せて寄り縋ることができる物などないのだ。しかし、神は絶対に変わらないお方であり、揺るぎのないお方だ。だから神の言葉に信頼し、絶対に変わらない神の約束を信じ、それに寄り縋って生きていくことの大切さを伝えるために、このたとえ話をなさったのです。
 この世界に絶対に安心だとよりすがることができないということは、今回の令和6年能登半島地震でも思い知らされる思いがします。元旦という、私たちが一年で最も幸多かれと願い求める日に、あのような大災害が起こるなどと誰が考えたでしょう。しかし、それが起こったのです。そのような何が起こってもおかしくない私たちの世界の中で、ただ神様と神の御子イエス・キリスト様のみが、揺るぎのない土台として、私たちの心を支え、私たちを導いてくださるのです。そして、決して変わらない神の約束を私たちに与えてくださっています。それは、やがて再び、イエス・キリスト様が私たちのもとに来られるとき、それこそ決して揺らぐことのない新天新地が作られ、世界が神の前に一新され、神の愛と恵みに満ちた世界が建設され、死んだ者も蘇り、不安や恐れや悲しみの涙もない世界において、神と共に生きることができるのだという約束です。
 その約束こそが、決して揺らぐことのない、私たちの存在の土台であり、私たちが、この移り行きゆる動かされているこの世界の中で生きていく土台であり、よりすがって生きていく土台なのです。