元旦早々、大きな地震があり、被災された方のことを思うと心痛む思いで一日を過ごしたのですが、その翌日には羽田で大きな飛行機事故があり、大変な一年の始まりとなりました。令和6年能登半島地震の被災者の方も、一夜を大変不安で心細い思い出過ごされたでしょうし、羽田の飛行機事故で自己にあったJALの飛行機に乗っておられた乗客の方とその家族の方々や、海上保安庁で不幸にも亡くなられた乗員の方のご家族は、どんなに不安で心配であっただろうかと思います。その思いというのは、「わたしたち」には、とても想像しきれないものであろうと思います。
ですから、私の経験など、それらの方々が経験したものと比べると、とても小さな取るに足りないものだろうと思いますが、被災された方の気持ちや事故にあわれた方々やそのご家族の方の思いに思いをはせているときに、私の幼い日のことを思い出していました。それは小学生の頃の話ですが、そのことに触れる前に、新約聖書マタイの福音書二十八章二十節にある言葉に目を身けたいと思います。それは、次のような言葉です。
「みよ、わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
これは、キリストが、いつでも私たちと一緒にいてくれるという約束です。キリストは、私たちの目で見ることはできませんが、いつも私たちの側にいて、私たちを見守って下さっているというのです。
私が子どもの頃は、決して豊かではなく、父は遠くに働きに行き、妹達は祖母の所に預けられいました。ですから、家には私と母の二人しかいませんでした。その母も仕事で帰ってくるのは夜中。そんなわけで、私は、一人で夕食をし、一人で夜を過ごし、自分で布団を引いて寝ると言った生活でした。
夜を一人で過ごすというのは、子どもにとっては寂しいものです。寝るときなんか、恐くて心細くて、電気を消すことができなくて電気をつけたままで寝るってこともありました。時には、電気をつけていても恐くて、テレビもつけっぱなしにして頭から布団をかぶって、寝ようとしたこともありました。
やがて、父が小さな店でした自分でちょっとした小料理の店を開き、商売をはじめて、家族みんなで暮すようになりました。私は、そのとき、誰かがいつも側にいるってことは、本当に有り難いことだなって、心からそう思いました。
今、私は、当時の自分のことを思い返しながら、「ああ、あのとき、『いつもあなたと一緒にいます』というキリストのことを知っていたら、あんなに寂しくて、恐い気持ちにはならなかっただろうな」ってそう思います。そう思うと、タイムマシンで、当時の私のところにいって、キリストのことを伝えてあげたい衝動に駆られます。「大丈夫だよ、キリストが君と一緒にいてくれるんだ。だから寂しくないし、怖がらなくていいんだよ」って教えてあげたい、そんな気持ちになるのです。
今、子供の頃の私と同じように、独りぼっちの寂しさを感じている人はいませんか。孤独の中で、言いようのない恐れを感じている人はいないでしょうか。それのような、寂しさや、孤独感は、単に、物理的に独りぼっちだということだけに限りません。多くの人に囲まれていても、誰も助けてくれない孤独感や、誰も理解してくれない寂しさを感じることだってあります。そんな、孤独感や寂しさの中にある人の側に、キリストはいつも一緒にいてくれるのです。
ですから、もし、あなたが寂しさを感じ、孤独を感じているならば、どうか心にキリストを信じ受け入れて下さい。キリストは、いつもあなたと共にいると言って下さっているのです。また、今は、そんな寂しさや孤独感を感じていない人も、将来、もしそう言ったことを心に感じるときがあったら、その時はどうか、あなたと共にいるというキリストのことを思い出して欲しいのです。
この悲しみや苦しみ、そして孤独感の中にいる人と共におられる神様、共におられる御子イエス・キリスト様について、この記事に類するなう内容を、私の友人の岩本遠億牧師が、「キリストのあって喪中なし」という短い説教を語っています。その岩本牧師の説教は、以下のアドレスをクリックし新しく開かれた『366日元気の出る聖書の言葉』にホームページにある「キリストのあって喪中なし」のタイトルのところにある▶マークをクリック指摘だれ場聴くことができます。岩本牧師の許可を得てリンクを張りますので、下のアドレスをクリックして、この記事の内容と合わせてお聴きください。
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