2023年8月28日月曜日

 23年8月第四主日礼拝説教「安息日の意義」               2023.8.27

旧約書:申命記5章12節から15節
福音書:ヨハネによる福音書9章8節から24節
使徒書:ピリピ人への手紙4章6節、7節

 今日の礼拝説教の聖書箇所はヨハネによる福音書9章8節から24節までです。この箇所は、同じヨハネに福音書9章1節から7節で、イエス・キリスト様が、物乞いをしていた生まれつき目の見えない人を癒し、目が見えるようにして挙げた出来事をきっかけに起こった出来事が記されている箇所です。
 この物乞いをしていた生まれつき目の見えない人の目が見えるようになったという出来事は、彼を知る人々に大きな驚きを与えます。その驚きは、今、人々の前にいる人と、道端で物乞いをしていた生まれつき目の見えなかった人とが同一人物だと認めることができないほどの驚きでした。
 そこで、人々は一体何がこの生れる突き目の見えない人に起こったのかを尋ねます。すると、この目の見えなった人は、イエス・キリスト様というお方が、この人の目に泥ぬり「シロアムの池で目を洗え」と言われた言葉に従って目を洗うと見えなかったはずの目が見えるようになったのだというのです。

 シロアムの池というのは、紀元前700年頃に南ユダ王国のヒゼキヤ王によって造られたもので、首都エルサレムが敵に責められた取り囲まれた際、水源を確保するためにの「ギボンの泉」を覆い隠し、そのギホンの泉から、今日ヒゼキヤのトンネルと言われる岩盤をくり抜いた地下水路のトンネルの終点となったのが、この「シロアムの池」です。この「ヒゼキヤ・トンネル」は、高低差は2メートルほどの、現存する世界最古の水道施設であり、今も豊かな湧き水を運んでいます。
 そのシロアムの池で起こった「生まれつき目の見えなかった人の癒し」という驚きの出来事は、彼のことを知る人々から、パリサイ派の人々へと伝えられます。それは、驚きの出来事が安息日になされたことであると告げたからです。

 イスラエルの民にとって、安息日は、聖なる日として一切の労働が禁じられています。それは旧約聖書出エジプト記20章に記されているモーセの十戒と呼ばれる戒律に

「8:安息日を覚えて、これを聖とせよ。9:六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。10:七日目はあなたの神、主の安息であるか ら、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。」

とあるからです。そして、このしてはならない労働の中に人を癒すということも含まれているのです。その安息日にイエス・キリスト様は、この生まれつき目の見えない人をお癒しになられた。そしてそれは、明らかな律法にある安息日規定に違反する行為だったのです。

 みなさん、今まで私たちは、この当時のパリサイ派の人々は、旧約聖書に記された津法を厳格に守ることで、救いを得ようとする行いによる義を主張していた人々であったと考えていました。しかし、近年になってE.P.サンダースやジェームス・ダン、またN.T.ライトといった新約学の研究者によって。彼らは、救いを得るために律法を守っていたのではなく、むしろ神の一方的な恵みによって神の選びの民とされたことに対する応答として、律法に従って生きようとしていた人々であるということがわかってきました。
 しかも彼ら研究は、当時のパリサイ派の人々は、自分たち自身にはすべての律法を厳格に守ることを求めましたが、人々に求めたものは、すべての律法を厳格に守るということではなく、律法が食べてはならない定めた食物を食べないという食物規定と安息日には一切労働を行なわない安息日規定の二つだけだったということも明らかにしてきたのです。

 この神の一方的な恵みに応答し、その応答として神の命じる律法を守り行って生きるというパリサイ派の人々の姿勢は、今日、私たちがイエス・キリスト様の救いの恵みに応答して、神の言葉に従い、イエス・キリスト様に従って生きていこうとする姿勢と、何ら変わりのないものです。しかし、イエス・キリスト様は、、福音書を読む限りそのパリサイ派の人々を厳しく糾弾し批判しています。
 みなさん、イエス・キリスト様が安息日にこの目の見えない人をお癒しになったのは、イエス・キリスト様が律法のないがしろしたとか、モーセの十戒を軽んじたということでは決してありません。むしろ、イエス・キリスト様は律法やモーセの十戒を大切の考え、それを生きられたのです。
 では、なぜ安息日にしてはならないと言われる癒しの業を行ったのでしょうか。みなさん、ここでもう一度、モーセの十戒に目を止めたいのです。すると、モーセの十戒には「なんのわざをもしてはならない」といわれているだけで、そのわざとは何かは、記されていないのです。ではそのわざとは一体何か?そのことをイスラエルの民は考え、解釈していきます。

 みなさん。イスラエルの民の伝統の中には、旧約聖書を色々と解釈したミシュナーと呼ばれる口伝による律法の解釈があります。そしてさらにそれを厳選し成文化したタルムードと呼ばれる律法の解釈書が出来上がって来た。そして、タルムードの中に、人を癒すということも、安息日にしてはならない労働のうちに含まれるという解釈があるのです。                        
 しかし、イエス・キリスト様は、安息日規定に何をしてはならないかという律法の解釈ではなく、律法そのものに目を止められた。つまり、安息日規定が何で設けられたのかという安息日の意味、あるいは意義といったことに目を止められたのです。

 神様は、なぜ安息日をもうけられたのか。先ほどの出エジプト記20章8節では、「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない」とあります。これは、神がこの世界を創造された際に、6日間で創造の業を終え、七日目に休まれたということを意識した言葉です。
 つまり、6日観労働をして疲れた心と体とを癒すために安息日があるというのです。そう考えると、モーセの十戒における安息日規定に「あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人も」なんの仕事もしてはならないと書かれている言葉はとても重要です。神様は、イスラエルの民の民だけが休むのではなく、奴隷や家畜、他国の人といった弱い立場にいる人までも休ませなさいというのです。

 みなさん、主人と奴隷という関係の中では、主人は自由に休んでも、弱いものを虐げ、休みなく働かせることができます。しかし、安息日規定が設けられているからこそ、弱い立場の人も、労働から解放され、心も体も休めることができるのです。そのことは、先ほどお読みしました旧約聖書申命記5章12節から15節に色濃く出ています。すなわち

 「12:安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。13:六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。14:七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。15:あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」

 ここでは、神様の創造の業の故に安息日を守れとは言っていません。むしろ、神様がエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を救い、開放してくださったがゆえに、あなた方のうちにある奴隷や家畜や他国の人も、安息日には彼らを縛り付けている労働から解放して休ませてやりなさいというのです。そして、自分たちもまた、神様の救いの業の故に今、こうして、ここにあるのだということを思い起こしなさいというのです。

 安息日、その安息日にイエス・キリスト様は安息日に病に苦しむ人をお癒しになりました。この目の見えない人だけでなく、ヨハネによる福音書5章1節から13節には、ベステダの池のほとりに身を横たえていた歩けない人を、安息日に癒されています。それは、病の苦しみに縛り付けられ、「あの人は本人の罪か、親の罪のために目が見えないのだ」といった人々の心無い言葉に虐げられ苦しんでる人を、その苦しみから解放し、心に平安をもたらす救いの業なのです。

 みなさん、安息日は、まさに弱い者、虐げられている人々を労働から解放し、休息を与え、慰めを与え、平安を与えるために制定されたのです。それが安息日が持つ本来の意味であり、意義です。神様は、安息日を通して、この世界において虐げられ、弱められ、苦しめられている人々の子ことに慰めを癒しと平安をもたらしたいと願っておられる。
 この神様のご意思に目を向けないで、安息日に何をしてはならないかなどと議論し、安息日に労働をしたと言って人を裁くなどといったことは、実に愚かな議論であり、あるパリサイ派の人々が言ったある「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」などと言う言葉は、安息日の意味や意図を理解していない人の言葉だと言えます。

 みなさん、イエス・キリスト様は律法の精神を生きられた。律法を大切に生きられたのです。もちろん、パリサイ派の人々の中にも、そのことに気づいた人もいたようです。だから、今日の聖書箇所の12節にあるように「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じたのです。
 その論争の最後を、このヨハネによる福音書の著者が「そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った」という言葉で締めくくっていることは、実に意味深い。そこには、聖書を聖書ならしめる聖霊の御業を感じられます。なぜならば、預言者とは、イスラエルの民が神のみこころ離れ、律法の精神を見失い、誤った道を歩んでいるとき、それを厳しく糾弾し、それを正し、本来の神の民としてのあるべき姿へと導く存在だからです。

 この生まれつき目の見えなかった人は、そのような意図で安息日に自分を癒してくれたイエス・キリスト様を「預言者だと思います」といったわけではないでしょう。しかし、その言葉は、結果としてまさに、弱い者、虐げられているものが、私たちを支配し、苦しめ虐げているものから解放し、心と体とに休息と慰めと、そして平安を与えるという安息日が制定されたその意味と意義を生きられたイエス・キリスト様を指し示しています。そしてそこには、律法を生きられたイエス・キリスト様のお姿があるのです。

みなさん、先日私の友人の岩本遠億という牧師が、祈りについて、ピリピ人への手紙4章6節、7節の

6:何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7:そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

というみ言葉から短いメッセージを語っておられました。その内容をまとめると「祈っても。祈り求める者が与えられないこともある。(もちろん与えられることもあるでしょう)、しかし、神に祈りを通して、私たちは人知でははかり知ることのできない神の平安が与えられる。それは、神が与える平安こそが、実は本当に私たちの心が願い求めているものだからではないか」と言うのです。

私たちの祈りと願いの根底にある人知でははかり知ることのできない平安をもたらす主の安息に、イエス・キリスト様は私たち導いておられる。真の安息日を私たちにもたらし、真の安息日の中で私たちを生かしてくださるのです。その主イエス・キリスト様のことを、今静かに思いめぐらしたいと思います。静かに目を閉じ、心を静め私たちに慰めを与え、平安をもたらす主イエス・キリスト様ことを想いましょう。静まりの時を持ちます。

2023年8月21日月曜日

私たちは神の御業である

           礼拝説教「私たちは神の御業である」     

旧約書:ヨブ記4章1節から11節
福音書:ヨハネによる福音書9章1節から7節
使徒書:ガラテヤ書3章23節から28節

 今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所は、ヨハネによる福音書9章1節から12節です。この箇所は、イエス・キリスト様が物乞いをしていた生まれつき目の見えない人をお癒しになったこと告げる物語です。そのストーリーは、おおまか次のようなものです。

 あるとき、イエス・キリスト様が弟子たちと共に道を歩いていると、生まれつき目の見えない人が道端に坐り物乞いをしていた。それに気づいた弟子の一人が、イエス・キリスト様に「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」とたずねる。

 このとき弟子たちは、この人が、生まれつき目が見えないということを、すでに知っていたものと思われます。ひょっとしたら、ずっと以前から、この「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という質問が人々の間でささやかれていたのかもしれません。その問いを、弟子たちはイエス・キリスト様に訊いたのです。

 というのも、この当時は、病気や障碍というものは、人間の罪の結果、罰としてもたらされる因果応報的なものとして考えられていたからです。そしてそのような考え方を、私たちは旧訳聖書の中にも読み取り事ができます。

例えば、先ほどお読みしましたヨブ記がその一つです。ヨブ記というのは、信仰が厚く、敬虔に、そして真面目に生きてきたヨブという人が、家族や財産を失い、自分自身も病気になって苦しむという物語です。

 そのようなヨブの苦しみの背後には、神様と悪魔との間の議論がある。それは、悪魔は神にむかって、「ヨブがあのように信仰が厚く敬虔な態度で神を信じるのは、多くの財を築き、家族にも恵まれているからであり、それがあなたからの祝福だと受け止めているいるからです。もし彼が、不幸に見舞われたならば、ヨブはすぐにあなたを信じる信仰から離れてしまいますよ」と言いがかりから始まる。

 その悪魔の言葉に対して神は、「それならば、試してみろ」というのです。それで、ヨブは、悪魔の業によって財産も家族をも失うという災難にあい、自分自身までもが病気で苦しむことになる。しかし、それでもヨブは「われわれは、神から幸いを受けるのであるから、災いをもうけるべきではないか」と言って、神を呪うことも、恨むこともせず、神を信頼する心を失わないのです。

 ところが、ヨブの友人たちが彼を慰めようとして彼のもとにやって来ることで風向きが変わる。というのも、その友人たちは「ヨブ、お前がこんな苦しみに会うのは、お前が神の前に何か罪を犯したからであり、神がお前にその罪に対する罰をあたえているからだ。だから、自分の罪を神に告白し、神にお詫びして、神に赦しを請いなさい。そうすれば、許されるから」と言うからです。

 この言葉には、病気や障碍そして災いというものは、人間の罪の結果、罰としてもたらされるという因果応報的思想があります。それが顕著に表れているのが、先ほどお読みしたヨブ記4章節から1節までの言葉です。とりわけ7節以降の言葉にそれが見られます

 

7:考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、 断ち滅ぼされた者があるか。8:わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている。9:彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。

 

 もちろん、ヨブの友人たちは、ヨブを慰めようとしているのですから、悪気はない。むしろ善意から言っている。しかし、その言葉がヨブを苦しめるのです。なぜなら、ヨブには自分は神の前に正しく歩み、罪を犯したことなどないという自負があるからです。実際、ヨブはそのような人であったのでしょう。そんなヨブにとって、もし、この苦しみが神に対する私の罪の罰であるとするならば、それは身に覚えのない不当な苦しみでしかないのです。だから、ヨブは友人たちに反論する。そうして、ヨブと友人たちの議論が、この4章から始まり延々と37章まで続くのです。

 みなさん、ヨブの苦しみは、悪魔がもたらした不幸や災いにあったからではありません。彼は「あなたの罪の結果であり、あなたの罪に対して神が罰をあたえたのだ」という友人たちの言葉に傷つき、心が痛み苦しんだのです。

 それと同じ言葉が、今、イエス・キリスト様の弟子たちによって、この生れつき目の見えない盲人に投げかけられるのです。「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」と。

 おそらく、同じような言葉を、この人は何度も何度も耳にしてきたのでしょう。そして、その言葉は、彼を傷つけ苦しめて来たのではないかと思う。ひっとしたらこの人は「またか、もういい加減にしてくれ」と思っていたかもしれない。けれども、それでもこの人は、物乞いをしなければ生きて生きないのです。だから、人々の憐みを請うために道の傍らに坐るのです。

 その時、この盲人は突然、今まで聞いたことのない言葉を聞く。それはイエス・キリスト様の「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」という言葉です。それは、この生まれつき目の見えない人を通して神の御業が現れるということです。今まで、罪の罰を担ったものであると言われ続けてきたこの人が、神の御業を現すのです。

 この人が、目が見えないという障碍を負っているのは、罪に対する罰なのだという言葉。それはその人の存在そのものを否定する言葉です。そのような言葉を浴びせられ続けてきた自分が、「そうではない。あなたは神の御業を担う人間である」という言葉を聞く。その言葉は、いったいどのような響きでこの盲人の心に響き渡ったのでしょうか。

 それは、その人の存在そのものを暗闇の中から掬い取るような言葉です。だとすれば、その人を通して現れ出た神の御業とは何なのでしょうか。

 みなさん、私たちは、この箇所を読むと、それはイエス・キリスト様が、この見えない人の目を見えるようにしたことであると思ってします。私自身もそう思って読んでいた。でも、本当にそうなのでしょうか。

 確かに、聖書において、イエス・キリスト様が病を癒すとき、それは神の国の到来を示すの証の業として用いられています。しかし、そのために病の苦しみがあるのではありません。むしろ「あの人たちは罪の罰を受けて病や障碍という苦しみを負っているのだという」と人々の中傷や心ない声を投げかける世界に対して、「そうではない。彼らもまた神の創造の業であり、それゆえに神に愛されたかけがえのない神の子であって、神の王国の招かれているひとり一人なのだ」ということを証明するために、イエス・キリスト様は、癒しの業を成しているのではないか。私にはそう思えて仕方がないのです。

 

 この生まれつき目の見えない人は、人々が言うように、罪の罰を負って生まれてきたのではありません。神に愛され、神の創造の御業の中で生れて来た尊い神の子なのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、人々が中傷し、蔑んで見ているこの目の見えない人の前を、その苦悩を見過ごして通り過ぎることができないのです。だから、この人に目を止め癒すのです。

 みなさん、私たちは、イエス・キリスト様が、この目の見えない人の目を開くにあたって、「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」と言っている言葉に着目する必要があります。

 というのも、このヨハネによる福音書は、私たちが生きている「この世」という世界は暗闇に覆われていると言っているからです。だとすればその暗闇の世界では、誰もが目が見えていないのです。だからこの生まれつき目の見えない人が、神の愛する神の創造の業なのだということに気づかない。見えていない。だから「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親の罪なのだろう」などと言うのです。

 みなさん、目が見えていないのは、この生まれつき目の見えない人ではない。彼の周りにいた人々も、イエス・キリスト様の弟子たちも、いえ、今の時代の私たちだって同じように暗闇に覆われて目が見えていないのです。

 そうではないですか。私たちは、どこかで病に苦しむ人や障碍を負った人をかわいそう人、憐れむべき人だと、知らず知らずの内にそのような目で見ているようなことはないですか。人種や民族、肌の色や国籍と言ったこと、最近では性志向や性自認といった問題で、白眼視し、差別的なまなざしを持って見ていることがないでしょうか。そして知らず知らずの内に心無い言葉をかけてしまい、心を傷つけてしまっていることがある。

 そのような私たちに、暗闇に勝利したと言われるイエス・キリスト様は、目を開いてくださるのです。この物語は、「この世」という暗闇に覆われた世界の中で、目が見えなくなってしまっている私たちの目を開いて、私たちひとり一人が、すべての人が尊厳ある、尊いひとり一人であるということを見えるようにしてくださることを告げる物語なのです。なぜならばイエス・キリスト様は「世の光」だからです。

 そのキリストの光に照らされた者にとっては、もはや差別も区別もなく、誰一人も卑下されることもなく、すべての者が、皆がキリストの照らす光のもとで一つなのです。

 だから、誰もがキリストの弟子となれるし、神の恵みを受けることができる、神の恵みに与ることのできない者、神に愛されていない者など一人もいないのです。そのことを端的に述べているのが、先ほどお読みしたガラテヤ書の3章23章から29節、とりわけ27節から29節です。そこには

 

26:あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。27:キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。28:もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。29:もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 

と言われている。

 みなさん、私たちはイエス・キリスト様というお方のもとに身を置き、この人が照らす光の輝きによってあらわされた世界、それは神の王国と言って良いのですが、その世界を見る時、そこには、ダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、また健常者も障碍者の区別もなく、また、病の内にある者の健康なものも、すべての者が神の創造のもとにある神の業としてのかけがえのない一人一人が移りだされるのです。

 ヨブは、自分を襲った災難や病気という悪魔がもたらした出来事で心を痛め、傷つき、苦悩したのでありません。因果応報説と言ったこの世の闇の中にある友人たちの言葉、すなわち人の言葉によって苦しんだ。また、この目が見えないという障碍を負った人もまた、「生まれつき目が見えないのは、この人か、その両親の罪の罰として目が見えないのだ」という、人々の心無い言葉で傷ついていた。

 しかし、イエス・キリスト様は、そうではない。私たちはみな、そうすべての人は皆、神の創造の業のもとにある神の業を顕れである尊い存在なのだと言う。だから、イエス・キリスト様は、弟子たちの問いに対して、罪の宣告をするのではなく、まず神の恵みの業を語るのです。そのことを、今日の聖書箇所を通してイエス・キリスト様は「世の光」として、照らし出し、私たちに教えてくださっているのです。みなさん。私たちは、そのイエス・キリスト様に私たちは一つに結び合わされているのです。

そのことを、今しばらく、目を閉じ、心を静めて思い廻らしたいと思います。静まりの時を持ちます。   



2023年4月19日水曜日

復活の希望

               「復活の希望」

この春。私は復活祭を挟んで立て続けに、三名の方の訃報に接することになりました。このような訃報に触れるたびに、イエス・キリスト様の復活という出来事がもつ希望のメッセージに思いを馳せます。とりわけ、今回は復活祭の前後でもありましたので、この復活の希望ということについて考えさせられました。

 この希望ということを神学の中心に据えたのが、ユンゲル・モルトマンと言う神学者です。モルトマンは「希望の神学」というタイトルの書物で世に出てきました。その本の中でモルトマンは、「十字架に架けられたイエスは、復活なさったイエスである」という命題を立てます。これは、教会は、イエス・キリストの十字架の死という出来事を注視し、キリスト教における救いの出来事を十字架の出来事にのみ集中して語るけれども、その十字架の上で死なれたイエス・キリストは復活なさったおかたでもあるのだといって、十字架の死以上に、復活の出来事に目を向けるべきであるというモルトマンの主張を言い表したものです。

 私は、このモルトマンの主張を、「私たちキリスト者は、『今、ここで』の私ということに目を向けて生きている。もちろんそれも大切だが、しかしもっと私たちの将来に目を向け、そこに希望を見いだして生きて行こう」と言うメッセージでもあろうと受け止めています。私たちの生きている「この世」という世界には、楽しいこともあればうれしいこともありますが、厳しい辛さや苦しみと言ったものの多くあります。幸い、日本という裕福で豊かな国に住んでいますと、戦禍のなかにあるウクライナの人々や、激しい弾圧と圧政下にあるミャンマーの人たちのような苦しみを経験せずに日々を過ごすことができます。また、最貧国と呼ばれる国々は、今でも上や貧困にあえぐ人たちが多くいます。難民となった人たちも貧困にあえいでいます。世界銀行の発表では7億3600万人のひとが極貧状態にあるというのが現在の世界の状況なのです。そして、私たちの国日本でも格差社会が広がり、7人に一人の子供が、食べるのにも窮する貧困状態にあると言われます。このような世界は、神様が決して望まれた世界ではありません。それは、罪によって歪み壊れてしまった世界なのです。

 私たちひとり一人のキリスト者には、神様から復活という将来の希望が与えられています。そして、その将来の希望に向かって、今と言う時を生きています。それと同じように、神様はこの歪み、壊れてしまった世界に将来の希望を与えておられます。それは、神ご自身が神の愛と恵みによって支配する神の王国の完成です。そして、教会は、その神の王国の完成のための今になっているのです。そしてキリスト者とされたは、その神の王国の今を担う者として、将来の希望を実現に至らせるために教会に集められているのです。。

2023年4月14日金曜日

オリゲネスに見る教会の姿

             オリゲネスに見る教会の姿

先日、古代の教父のオリゲネスという人のルカによる福音書10章にある善きサマリア人の譬えから語られた説教を呼んでいました。教父とは、古代から中世初期にかけて教会の指導者であり、その信仰や、生活態度が教会の模範となるような人物で、後のキリスト教会の神学に大きな影響を与えた人たちのことです。

 その中で、オリゲネスという人物は非常に興味深い人で、その教えは古代ローマカトリック教会では異端であるとされ、その著作は焼き捨てられましたが、ギリシャ正教の系譜にある東方教会では受け入れられています。そして、異端とされたにもかかわらずその神学は、後の西方教会の神学に大きな影響を与えたとされる人物です。
 そのオリゲネスの善きサマリア人の説教においては、このエルサレムから下って来た旅人は、エルサレムに譬えられた天の楽園から追放されたアダムであると解釈されています。そしてそれは、この世に生きるわたしたち人間の姿であると言えます。そして、強盗は神に敵対する勢力の比喩的表現であると言われます。また祭司は律法、レビ人は預言者です。つまり、この二つは旧約を示していると言えます。そして善きサマリア人はイエス・キリスト様であり、宿屋は教会だと言われています。

 このような、たとえ話の登場人物や事物を何かの比喩的表現であると理解して物語を解釈する方法を寓意的解釈と言い、古代から中世の教会で用いられた聖書解釈の方法です。今日では、このような寓意的解釈を用いて聖書を解釈すると言うことはほとんどなされませんが、しかし、聖書の思想を学ぶためには、有益なことも少なからずあります。そして、このオリゲネスの寓話的解釈からも学ぶべきことは多くあります。

 オリゲネスは、「この世」という天の楽園から離れた世界に生きる私たちは、神にて期待する罪の力によって傷つけられ、痛めつけられ、倒れ苦しんでいますが、イエス・キリスト様が、そのような私たちを助けてくださるのですが、傷が癒され、回復する場は教会だと言うのです。このオリゲネス解釈は、教会を築き上げている私たちには、とても重要なことを教えてくれます。それは、教会は癒しの場であり、慰めの場であり、回復の場として立ち上げられているのであって、人を傷つけ、痛めつける「この世」という世界とは全く違ったものだと言うことです。

 そして、傷つけられ、痛めつけられ、倒れ苦しんでいる人にとって、律法や預言者といったものは、本来人間のあるべき姿を示して呉れてはいますが助けにはなりません。もちろん、律法や預言者は、人間が生きて行くうえで大切なものであり、なくてはならないものです。ですが、それは傷が癒され、肉体も心も回復して初めて役立つものです。ですから、教会は、まず、慰めと癒しと回復の業が第一に求められるべきものであり、それがあって初めて、私たちはエルサレム、すなわち天のエルサレムを目指して歩いて行くことができるからです。

 だとすれば、私たちの教会が目指すべき姿がどこにあるかが見えてきます。それは、癒しの場であり、慰めが語られ、力が与えられる場である教会です。今までもそうですし、これからもそのような教会を立て上げるために、みなさんと共に歩いて行ければと、オリゲネスの説教を読ませていただきました。


2022年9月20日火曜日

三つよりの綱

               「三つよりの綱」

 私は、牧師という仕事柄、結婚式を執り行うことが多くありました。その際、夫婦となられたお二人に、このような聖書の言葉がありますとお伝えし、その聖書の言葉を結婚の記念としてお贈りします。それは、旧約聖書の伝道の書4章9節から12節までの言葉です。

 ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れるときには、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、一人を攻め撃ったなら、ふたりでそれに当るであろう。三つよりの綱はたやすく切れない。」

 この言葉は、私たち夫婦が結婚する際に、神様から与えられた言葉であり、私たち夫婦にとっては特別な言葉です。その言葉を、これから人生の新しい歩み御向かって歩みだすお二人の幸せを願ってお贈りするのです。

ところが、この言葉が記されている旧約聖書の伝道の書(コーヘレトの言葉)は、人生がいかに空しいものかと言うことを教えている箇所です。華々しい、幸多き人生ではない、人生の空しさを語る書が、伝道の書(コーヘレトの言葉)なのです。ですから、その伝道の書には、「空の空」という言葉が繰り返し書かれています。

 確かに、私たちの人生には「空の空」と思われるような空しさを感じることがあります。いえ、そのような苦しさを感じる場面は、綿立たちの人生においては、決して少なくはないのです。むしろ、多くあるといってもいいのかもしれません。ですから、人生の様々な困難や問題にぶつかったときに、心から喜べず、ただ空しさだけを感じる局面は必ずやってくるといってもいい。また、どんなに成功していても、心にぽっかりと空いた穴から冷たい風が吹き込むことだってあるのです。そのように、人の世の営みには、必ず虚しさがあるからこそ、聖書は、「ふたりはひとりにまさる」というのです。

 それは、問題や困難にぶつかっても、ふたりでそれに当るならば、乗り越えていけるからです。仮に心に冷たい風が吹いても、二人が暖め合えば、冷たい風にも打ち勝てるのです。しかし、長い人生の中では、ふたりで助け合っても乗り越えられないような大きな問題にぶつかることもあるでしょう。ふたりで暖め合っても暖めきれないほどの冷たい風に吹かれることだってあるかもしれません。その時は、どうか聖書の神に頼り、助けを求めて下さい。

 先ほどの伝道の書(コーヘレトの言葉)は、二人は一人に優ると言いつつ、最後は三つ撚りの綱はたやすく切れないと言います。ここには、二つの糸にもう一つの糸が加わり綱となっています。そして、その三つ目の糸が神というお方なのです。人間は支え合って生きる者です。ですから、夫婦が、家族が、また友人や仲間が、試練の中にある私たちを助け支えてくれます。しかし、その助けや支えも限界を迎えることがある。その時に、神が三つよりの綱となって下さいます。三つよりの綱となって私たちの心を守り支え、祝福して下さるのです。そしてこの三よりの綱はたやすくは切れないのです。

 けれども、なぜ、神は私たちの人生が試練の時に、私たちに寄り添い三つよりの綱になってくださるのでしょうか。それは、神が私たちを深く愛しているからです。愛するがゆえに、私たちの心を守り、支えてくださるのです。例えば、私たちが仕事で問題を抱え悩むとき、そのパートナーの職種が違えば、その抱え込んだ問題を解決する手助けにはなりません。しかし、そのパートナーの存在が、具体的な職種を超え、慰めとなり、力となり、支えとなる。そこにはパートナーの深い愛情と思いやりがあるからです。

同じように、神もまた私たちに深い愛情を抱き、思いやりの心をもって、私たちに寄り添ってくくださるのです。

2022年9月16日金曜日

大切なあなたへ

         「大切なあなたへ」

孫が生まれて、娘が孫を連れてしばらくの期間を過ごすために帰ってきました。生まれて一週間足らずの赤ん坊は実に小さく、その指などはまるで人形の指のようです。しかし、どんなに小さくても、その部分部分は完全です。まぎれもない一人の存在として、それこそ小さな寝息を立てながら、母親の腕の中で眠っているのです。                 

 私は、その孫の姿を見ながら、何とも不思議な気持ちになりました。もちろん、その気持ちは私の三人の子供が生まれたときにも感じたものだったのですが、子供たちが成長し、私自身も日々起こってくる様々なことで忙しくしている中で忘れてしまった不思議な気持ちです。

 本当に壊れてしまいそうな小さな赤ん坊です。けれども、そこには紛れもない人間が存在している。けれども、その紛れもない人間は、自分では何もできず、ただ周りの人間に頼り、身をゆだね、身を横たえているだけなのです。人間として何かができるというわけではないのですが、そんなことはどうでもよい。ただ、その赤ん坊がそこにいるだけで、心が温かくなり、気が付いたら微笑んでいるのです。

 昔読んだ本に中に、キリスト教の信仰において大切なことは、doingではなくbeingであるという内容が書いてありました。私はその言葉に深い感動を覚えました。Doing、すなわち何かを行うこと、何かを成すことではなく、Being、つまり存在すること、あなたが「いる」ということが大切なのだというのです。

 まさに、そこに「あなた」が存在している。そこに「あなた」が存在してくれている。「あなた」が「いる」ということは、どんなに大切なことであり、素晴らしいことであり、喜ばしい嬉しいことなのでしょうか。

 旧約聖書の出エジプト記3章14節に次のような言葉があります。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

旧約聖書のほとんどの言葉がヘブライ語で書かれていますが、この「有る」という言葉は、ヘブライ語では「ハーヤー」という言葉です。英語に訳すとBeです。ですからこの「「わたしは、有って有る者」という言葉の意味は、私たちを存在させるのは神である。私たちをかけがえのないBeingとしてくださっているのは神というお方なのです。

2022年6月26日日曜日

「渇きに潤いをもたらす水」

 2020年6月第四主日礼拝説教
「渇きに潤いをもたらす水」 

旧約書:詩篇1篇1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書4章1節から15節
使徒書:ヨハネによる黙示録21章1節から8節

 

 今日の礼拝説教の中心となる箇所はヨハネによる福音書の4章1節から15節ですが、この個所は、4章1節から31節までのあるイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の前半部分になります。
 そののイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の中心は、今日の前半部分というよりも、むしろ後半部分にあり、その主題は礼拝ということであろうと思われます。そういった意味では、このヨハネによる福音書4章1節から15節は、この物語の中心ではないと言えます。

しかし聖書の面白いところは、その中心ではないところ、主題でない部分にも学ぶべき物語があると言うことです。ですから、この4章1節から15節のイエス・キリスト様とサマリアの女性との間のやり取りの中にも、一つの物語がある。では、その物語りは何かというと、渇きとそれを潤す水の物語です。この渇きは、肉体の渇き、いうなれば生理的な渇きだけでなく、人生の渇き、魂の渇きでもあります。では、その渇きを潤す水は何か。それをこのヨハネによる福音書4章1節から15節の物語は、私たちに教えるのです。

 物語は、サマリアの地から始まります。イエス・キリスト様の一行はバプテスマのヨハネより多くの弟子を作り、洗礼を授けていました。そのことは、このイエス・キリスト様とサマリアの女も物語の前に記されていることです。
 そして、そのことパリサイ派の人々の耳に入ったことを知ったイエス・キリスト様は、ユダヤ地方を去りガリラヤに向かいます。このユダヤ地方というのは、エルサレムの南西に広がる地方で、死海があるあたりです。それに対して、ガリラヤは、エルサレムを北にあるガリラヤ湖を有する地方です。そのユダヤ地方からガリラヤに移動するには、直線距離にするとざっと150kmぐらいです。。
 当時のイスラエルの国は南北に190kmぐらいであったと言いますから、このときイエス・キリスト様は、イスラエルの国をほぼ縦断するような距離を、ユダヤ地方からサマリア地方を通り、ガリラヤへ向かって歩いていたことになります。。

 みなさんもご存じのように、イエス・キリスト様の時代には、ユダヤ人とサマリア人は決して仲が良いとは言えない関係でした。言わば、渇き切った関係です。ですから、本来ならサマリアを通らずにガリラヤの向かいたいところですが、そのような道を行きますと、サマリア地方通って行く道の倍近くかかったようです。しかし、イエス・キリスト様はサマリアを通る最短ルートを選ばれた。きっと急いでおられたのでしょう、

 このようにイエス・キリスト様がそのように急がれたのは、パリサイ派の人々が、イエス・キリスト様がユダヤ地方で洗礼を授けていると言うことを知ったからであろうと思われます。と申しますのも、ヨハネによる福音書の3章25節には、バプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間で清めのことで論争があったと記されているからです。バプテスマのヨハネは、罪を洗い清めるための洗礼を授けていました。そのバプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間に清めの論争があったというのですから、おそらくその論争は、洗礼を巡っての議論であったと思われます。
 つまり、そのような論争と対立とに巻き込まれないように、イエス・キリスト様は、足早にユダヤの地を去って、サマリアの地を通り、イエス・キリスト様と弟子たちの故郷であるガリラヤ後に向かったと思われるのです。そして、その道のりの途中であるサマリアの地で出来事が起こった。それは、イエス・キリスト様の弟子たちが食べ物を買うために町に出かけて行き、イエス・キリスト様がひとりで町はずれにおられたときのことです。そこに一人の女性が水を汲みに来た。水を汲みに来たというのですから、おそらくイエス・キリスト様は井戸の傍らで弟子たちを待っておられたのでしょう。

 その女性に、イエス・キリスト様は声をかけた。

   イエス・キリスト様:「もしもし、そこのご婦人。すみませんが、私に水を飲ませてくだいませんか」

声をかけられた女性は、イエス・キリスト様を見て怪訝に思います。イエス・キリスト様の風体をみると明らかにサマリア人とは犬猿の中にあるユダヤ人と思われる。そこで、サマリアの女性は

  サマリアの女性:おやおや。ユダヤ人のあなたがサマリア人の私に
          水をもませてくれだなんて、
          私たちサマリヤ人とあなた方ユダヤ人が仲が悪いのは
          ご存じでしょう。そのサマリヤ人の私に
          いったいどうしてそんなことを頼むのですか。

と答える。するとイエス・キリスト様は

  イエス・キリスト様:なるほど、あなたが不思議に思うのももっともだ。
            確かに私たちユダヤ人とサマリア人とは、
            仲が悪く互いに交流もない。
            だが、もしあなたが、神様が与えてくださる恵みが
            何であるかを知っていたら、
            そしてあなたに『水をください』と言ったこの私が
            誰であるかを知っていたら、
            あなたの方から、この私に生ける水をくださいと願い求め、
            それをもらうことができたでしょう。

そう言われてサマリアの女性

  サマリアの女性:生ける水をくださるですって。失礼ですがお見受けしましたところ、
          あなたは水を汲むものを持っていらっしゃらない。
          しかし、この井戸は深いのです。
          どうやって、その生ける水とやらを手に入れるのですが。
          それにねえ、自慢じゃないのですが、
          この井戸は私たちの先祖のヤコブが与えてくれた井戸ですよ。
          ヤコブと言えば、もう遠い昔の人。そんな昔から、この井戸は
          枯れることなく、
          私たちののどを潤してくれているありがたい井戸なんですよ。
          あなたは生ける水をくださるですっておっしゃいますが、
          あなたはヤコブよりお偉い方なんですか。

どうも、このサマリアの女性の言葉には、少々険がある。しかし、イエス・キリスト様はそんな険のある態度など一行に気に解せず

  イエス・キリスト様:そうです。確かにこの井戸は、
            私たちの先祖ヤコブが与えてくれた井戸です。
            でも、いくら井戸が由緒ある井戸でも、
            この井戸から汲んで飲む人は、必ずまた渇く。
            だからなんどでも水を汲みに来るのでしょう。
            でもね、私が与える水を飲むものは、決して渇かないのです。
            だって、私が与える生ける水は、その人の内で泉となり、
            永遠の命に至る水が湧き上がるのですから。

そう言われて、サマリアの女性は、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここに汲みにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」と言ったと、聖書にはそのように記されています。

 しかし聖書の文字を読むだけでは、このサマリアの女性が、真摯な態度で「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」とイエス・キリスト様に願い求めたのか、「そんなものあるなら、実際に私に見せて、与えてみなさいよ」と皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのかはわかりません。そこは想像するしかないのです。

 ただ私は、その後に続く、4章16節以降のやり取りを見ますと、まだこの時点では、このサマリアの女性は、イエス・キリスト様の言われた「生ける水」という言葉の真意を理解していなかったと思いますし、また、イエス・キリスト様がどのようなお方であるかについて、理解していなったろうと思うのです。ですから、おそらく皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのだろうと思います。
 実際、ここに至るまでのイエス・キリスト様とこのサマリアの女性のやり取りは、かなりチグハグでかみ合わない会話になっています。その原因が、このサマリアの女性が、イエス・キリスト様が言われた生ける水が、のどの渇きを潤す水、つまり物質的な水のことだと思い込んでいるからです。

 しかし、それもやむを得ないことかもしれません。そもそも、このイエス・キリスト様とサマリアの女の会話は、イエス・キリスト様が、このサマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたことに端を発しています。聖書は、その出来事は昼の12時頃であったと言いますから、イエス・キリスト様は本当に喉が渇いていたのだろうと思います。だから、このサマリアの女性に飲み水を求めた。
 話が、そのような所から始まっていますから、当然、このサマリアの女性はのみ水の話だと思ってもしかたがありません。おまけに、生ける水という言葉は、同時のユダヤ・サマリヤの人々にとっては、どこかに溜まった水ではなく、泉からこんこんと湧き上がる水、あるいは流れる川の水を指す言葉でした。そして溜まって流れのない水は死んだ水と呼ばれていた。溜まって流れのない水は、腐っていき飲むことができないからです。

 そのような中で、イエス・キリスト様の言葉を誤解しても仕方のないことなのです。しかし、それでもなぜ、サマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたイエス。キリスト様が、突然、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と言ったのか。

 もちろん、それは水を飲ませてくださいと言ったイエス・キリスト様に、サマリアの女が「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリアの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言ったからです。そしてそこには、ユダヤ人とサマリア人の間にある深い溝がある。
 その溝がどうして売れたのかを話し出しますと長くなりますので、今日は割愛しますが、ともかく、長い歴史の中で、ユダヤ人とサマリア人の間には確執が生み出だされ、それが不和を生み出し、偏見を生み出し、そして断絶を生み出している。

 その偏見と断絶が、イエス・キリスト様を拒絶させている。しかし、イエス・キリスト様は、彼女に近づいている。歩み寄っているのです。だから、このサマリアの女性に声をかけ話しかけている。当時のイスラエルの民の中にあって、ラビと呼ばれる宗教的指導者が女性に話しかけると言うことはなかったそうです。話しかけているところを見られると、どんなに名声のある人でも、その名声は地に落ちてしまったのだそうです。しかも相手は、ユダヤの民とは不仲なサマリアの女性なのです。
 そこには、いざこざや争、そして敵対心をも乗り越えて、和解の出来事を取り除く和解の出来事、ユダヤ人であろうとサマリア人であろうと、敵対する者であっても、分け隔てなく救いの出来事をもたらそうとするイエス・キリスト様の姿を見ることができます。
 
断絶してしまった関係、それは、まさに死んでしまった関係です。関係における死、聖書によれば、それは断絶なのです。神と人との関係の断絶、人と人との関係の断絶、その死んでしまった関係を生きた関係に回復させる業、それがイエス・キリスト様の救いの業なのです。 
 その生きた関係への回復は、神と人との関係においては、私たちに永遠の命という神の命を与え私たちを神の子とします。そして、人と人との関係においては、互いにむつまじく愛し合い支え合う関係を生み出すことなのです。それが、死んだ関係ではなく生きた関係です。

 イエス・キリスト様は、そのような神を信じる者の生きた関係、生きた生き方へ、偏見と敵愾心によって壁が作られた死んでしまったような水の中に留まっているサマリアの女性を導こうとしておられる。だから、滾々と湧き上がる泉から、滔々と流れ出る生きた水を与えると言うのです。

 みなさん、先ほどお読みした旧約聖書詩篇1篇の2節3節は、協会共同訳聖書の訳では

主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。

 となっています。そこには神と結び合わされ、神の教え、神の言葉御耳を傾ける人は、滾々と湧き上がる泉の生ける水、豊かに滔々と流れる生ける水をその根から吸い上げ、その葉もかれることのない命の中で、豊かな実を結ぶものとなって生きる者となると述べられている。
 荒野という水のない荒涼とし、渇き切った風景を背負ったユダヤの人々やサマリアの人々にとって、尽きることのない泉や川の流れは、まさに命を与え豊かな実りをもたらすものの象徴です。そのような、豊かないのちのある関係を、渇き切った神と人との関係に、また人と人と関係にもたらそうと、イエス・キリスト様はこのサマリアの女性を招き、また私たちを導いておられるのです。

 そういった意味からいえば、生ける命の水に与ること、それがイエス・キリスト様がもたらす救いだと言えます。まただからこそ、先ほどお読みしました黙示録21章の6節7節では

   事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。
   初めであり終りである。
   かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
   勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。
   わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる

というのです。

 みなさん、死は悲しみをもたらし、痛みをもたらします。神と人との関係が、人と人との関係が死んだ水の中に留まり続ける限り、そこには涙という実を結んでいく。しかし、いのちの泉から湧き上がる生ける水を飲むときに、神は「人々の目から涙なみだを全まったくぬぐいとって下くだる。もはや、死しもなく、悲かなしみも、叫さけびも、痛いたみもない。先さきのものが、すでに過すぎ去さったからです」という事態を私たちにもたらしてくださるのです。

 その生ける水をくみ上げ、それを飲む者、それはイエス・キリスト様を信じる者です。その人には神と人と、人と人との関係に和解という喜びという豊かな実りが訪れるのです。イエス・キリスト様は、その神と人との和解、人と人との和解という喜びの実りにサマリアの女性を、そして私たちを導いておられる。ぎずぎすした関係に潤いをもたらす、新しい関係に私たちを導いておられるのです。そのことを心に思い描きつつ、しばらく心を静めて、神を思いう静まりの時を持ちましょう。