2023年4月19日水曜日

復活の希望

               「復活の希望」

この春。私は復活祭を挟んで立て続けに、三名の方の訃報に接することになりました。このような訃報に触れるたびに、イエス・キリスト様の復活という出来事がもつ希望のメッセージに思いを馳せます。とりわけ、今回は復活祭の前後でもありましたので、この復活の希望ということについて考えさせられました。

 この希望ということを神学の中心に据えたのが、ユンゲル・モルトマンと言う神学者です。モルトマンは「希望の神学」というタイトルの書物で世に出てきました。その本の中でモルトマンは、「十字架に架けられたイエスは、復活なさったイエスである」という命題を立てます。これは、教会は、イエス・キリストの十字架の死という出来事を注視し、キリスト教における救いの出来事を十字架の出来事にのみ集中して語るけれども、その十字架の上で死なれたイエス・キリストは復活なさったおかたでもあるのだといって、十字架の死以上に、復活の出来事に目を向けるべきであるというモルトマンの主張を言い表したものです。

 私は、このモルトマンの主張を、「私たちキリスト者は、『今、ここで』の私ということに目を向けて生きている。もちろんそれも大切だが、しかしもっと私たちの将来に目を向け、そこに希望を見いだして生きて行こう」と言うメッセージでもあろうと受け止めています。私たちの生きている「この世」という世界には、楽しいこともあればうれしいこともありますが、厳しい辛さや苦しみと言ったものの多くあります。幸い、日本という裕福で豊かな国に住んでいますと、戦禍のなかにあるウクライナの人々や、激しい弾圧と圧政下にあるミャンマーの人たちのような苦しみを経験せずに日々を過ごすことができます。また、最貧国と呼ばれる国々は、今でも上や貧困にあえぐ人たちが多くいます。難民となった人たちも貧困にあえいでいます。世界銀行の発表では7億3600万人のひとが極貧状態にあるというのが現在の世界の状況なのです。そして、私たちの国日本でも格差社会が広がり、7人に一人の子供が、食べるのにも窮する貧困状態にあると言われます。このような世界は、神様が決して望まれた世界ではありません。それは、罪によって歪み壊れてしまった世界なのです。

 私たちひとり一人のキリスト者には、神様から復活という将来の希望が与えられています。そして、その将来の希望に向かって、今と言う時を生きています。それと同じように、神様はこの歪み、壊れてしまった世界に将来の希望を与えておられます。それは、神ご自身が神の愛と恵みによって支配する神の王国の完成です。そして、教会は、その神の王国の完成のための今になっているのです。そしてキリスト者とされたは、その神の王国の今を担う者として、将来の希望を実現に至らせるために教会に集められているのです。。

2023年4月14日金曜日

オリゲネスに見る教会の姿

             オリゲネスに見る教会の姿

先日、古代の教父のオリゲネスという人のルカによる福音書10章にある善きサマリア人の譬えから語られた説教を呼んでいました。教父とは、古代から中世初期にかけて教会の指導者であり、その信仰や、生活態度が教会の模範となるような人物で、後のキリスト教会の神学に大きな影響を与えた人たちのことです。

 その中で、オリゲネスという人物は非常に興味深い人で、その教えは古代ローマカトリック教会では異端であるとされ、その著作は焼き捨てられましたが、ギリシャ正教の系譜にある東方教会では受け入れられています。そして、異端とされたにもかかわらずその神学は、後の西方教会の神学に大きな影響を与えたとされる人物です。
 そのオリゲネスの善きサマリア人の説教においては、このエルサレムから下って来た旅人は、エルサレムに譬えられた天の楽園から追放されたアダムであると解釈されています。そしてそれは、この世に生きるわたしたち人間の姿であると言えます。そして、強盗は神に敵対する勢力の比喩的表現であると言われます。また祭司は律法、レビ人は預言者です。つまり、この二つは旧約を示していると言えます。そして善きサマリア人はイエス・キリスト様であり、宿屋は教会だと言われています。

 このような、たとえ話の登場人物や事物を何かの比喩的表現であると理解して物語を解釈する方法を寓意的解釈と言い、古代から中世の教会で用いられた聖書解釈の方法です。今日では、このような寓意的解釈を用いて聖書を解釈すると言うことはほとんどなされませんが、しかし、聖書の思想を学ぶためには、有益なことも少なからずあります。そして、このオリゲネスの寓話的解釈からも学ぶべきことは多くあります。

 オリゲネスは、「この世」という天の楽園から離れた世界に生きる私たちは、神にて期待する罪の力によって傷つけられ、痛めつけられ、倒れ苦しんでいますが、イエス・キリスト様が、そのような私たちを助けてくださるのですが、傷が癒され、回復する場は教会だと言うのです。このオリゲネス解釈は、教会を築き上げている私たちには、とても重要なことを教えてくれます。それは、教会は癒しの場であり、慰めの場であり、回復の場として立ち上げられているのであって、人を傷つけ、痛めつける「この世」という世界とは全く違ったものだと言うことです。

 そして、傷つけられ、痛めつけられ、倒れ苦しんでいる人にとって、律法や預言者といったものは、本来人間のあるべき姿を示して呉れてはいますが助けにはなりません。もちろん、律法や預言者は、人間が生きて行くうえで大切なものであり、なくてはならないものです。ですが、それは傷が癒され、肉体も心も回復して初めて役立つものです。ですから、教会は、まず、慰めと癒しと回復の業が第一に求められるべきものであり、それがあって初めて、私たちはエルサレム、すなわち天のエルサレムを目指して歩いて行くことができるからです。

 だとすれば、私たちの教会が目指すべき姿がどこにあるかが見えてきます。それは、癒しの場であり、慰めが語られ、力が与えられる場である教会です。今までもそうですし、これからもそのような教会を立て上げるために、みなさんと共に歩いて行ければと、オリゲネスの説教を読ませていただきました。


2022年9月20日火曜日

三つよりの綱

               「三つよりの綱」

 私は、牧師という仕事柄、結婚式を執り行うことが多くありました。その際、夫婦となられたお二人に、このような聖書の言葉がありますとお伝えし、その聖書の言葉を結婚の記念としてお贈りします。それは、旧約聖書の伝道の書4章9節から12節までの言葉です。

 ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れるときには、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、一人を攻め撃ったなら、ふたりでそれに当るであろう。三つよりの綱はたやすく切れない。」

 この言葉は、私たち夫婦が結婚する際に、神様から与えられた言葉であり、私たち夫婦にとっては特別な言葉です。その言葉を、これから人生の新しい歩み御向かって歩みだすお二人の幸せを願ってお贈りするのです。

ところが、この言葉が記されている旧約聖書の伝道の書(コーヘレトの言葉)は、人生がいかに空しいものかと言うことを教えている箇所です。華々しい、幸多き人生ではない、人生の空しさを語る書が、伝道の書(コーヘレトの言葉)なのです。ですから、その伝道の書には、「空の空」という言葉が繰り返し書かれています。

 確かに、私たちの人生には「空の空」と思われるような空しさを感じることがあります。いえ、そのような苦しさを感じる場面は、綿立たちの人生においては、決して少なくはないのです。むしろ、多くあるといってもいいのかもしれません。ですから、人生の様々な困難や問題にぶつかったときに、心から喜べず、ただ空しさだけを感じる局面は必ずやってくるといってもいい。また、どんなに成功していても、心にぽっかりと空いた穴から冷たい風が吹き込むことだってあるのです。そのように、人の世の営みには、必ず虚しさがあるからこそ、聖書は、「ふたりはひとりにまさる」というのです。

 それは、問題や困難にぶつかっても、ふたりでそれに当るならば、乗り越えていけるからです。仮に心に冷たい風が吹いても、二人が暖め合えば、冷たい風にも打ち勝てるのです。しかし、長い人生の中では、ふたりで助け合っても乗り越えられないような大きな問題にぶつかることもあるでしょう。ふたりで暖め合っても暖めきれないほどの冷たい風に吹かれることだってあるかもしれません。その時は、どうか聖書の神に頼り、助けを求めて下さい。

 先ほどの伝道の書(コーヘレトの言葉)は、二人は一人に優ると言いつつ、最後は三つ撚りの綱はたやすく切れないと言います。ここには、二つの糸にもう一つの糸が加わり綱となっています。そして、その三つ目の糸が神というお方なのです。人間は支え合って生きる者です。ですから、夫婦が、家族が、また友人や仲間が、試練の中にある私たちを助け支えてくれます。しかし、その助けや支えも限界を迎えることがある。その時に、神が三つよりの綱となって下さいます。三つよりの綱となって私たちの心を守り支え、祝福して下さるのです。そしてこの三よりの綱はたやすくは切れないのです。

 けれども、なぜ、神は私たちの人生が試練の時に、私たちに寄り添い三つよりの綱になってくださるのでしょうか。それは、神が私たちを深く愛しているからです。愛するがゆえに、私たちの心を守り、支えてくださるのです。例えば、私たちが仕事で問題を抱え悩むとき、そのパートナーの職種が違えば、その抱え込んだ問題を解決する手助けにはなりません。しかし、そのパートナーの存在が、具体的な職種を超え、慰めとなり、力となり、支えとなる。そこにはパートナーの深い愛情と思いやりがあるからです。

同じように、神もまた私たちに深い愛情を抱き、思いやりの心をもって、私たちに寄り添ってくくださるのです。

2022年9月16日金曜日

大切なあなたへ

         「大切なあなたへ」

孫が生まれて、娘が孫を連れてしばらくの期間を過ごすために帰ってきました。生まれて一週間足らずの赤ん坊は実に小さく、その指などはまるで人形の指のようです。しかし、どんなに小さくても、その部分部分は完全です。まぎれもない一人の存在として、それこそ小さな寝息を立てながら、母親の腕の中で眠っているのです。                 

 私は、その孫の姿を見ながら、何とも不思議な気持ちになりました。もちろん、その気持ちは私の三人の子供が生まれたときにも感じたものだったのですが、子供たちが成長し、私自身も日々起こってくる様々なことで忙しくしている中で忘れてしまった不思議な気持ちです。

 本当に壊れてしまいそうな小さな赤ん坊です。けれども、そこには紛れもない人間が存在している。けれども、その紛れもない人間は、自分では何もできず、ただ周りの人間に頼り、身をゆだね、身を横たえているだけなのです。人間として何かができるというわけではないのですが、そんなことはどうでもよい。ただ、その赤ん坊がそこにいるだけで、心が温かくなり、気が付いたら微笑んでいるのです。

 昔読んだ本に中に、キリスト教の信仰において大切なことは、doingではなくbeingであるという内容が書いてありました。私はその言葉に深い感動を覚えました。Doing、すなわち何かを行うこと、何かを成すことではなく、Being、つまり存在すること、あなたが「いる」ということが大切なのだというのです。

 まさに、そこに「あなた」が存在している。そこに「あなた」が存在してくれている。「あなた」が「いる」ということは、どんなに大切なことであり、素晴らしいことであり、喜ばしい嬉しいことなのでしょうか。

 旧約聖書の出エジプト記3章14節に次のような言葉があります。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

旧約聖書のほとんどの言葉がヘブライ語で書かれていますが、この「有る」という言葉は、ヘブライ語では「ハーヤー」という言葉です。英語に訳すとBeです。ですからこの「「わたしは、有って有る者」という言葉の意味は、私たちを存在させるのは神である。私たちをかけがえのないBeingとしてくださっているのは神というお方なのです。

2022年6月26日日曜日

「渇きに潤いをもたらす水」

 2020年6月第四主日礼拝説教
「渇きに潤いをもたらす水」 

旧約書:詩篇1篇1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書4章1節から15節
使徒書:ヨハネによる黙示録21章1節から8節

 

 今日の礼拝説教の中心となる箇所はヨハネによる福音書の4章1節から15節ですが、この個所は、4章1節から31節までのあるイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の前半部分になります。
 そののイエス・キリスト様とサマリアの女性の物語の中心は、今日の前半部分というよりも、むしろ後半部分にあり、その主題は礼拝ということであろうと思われます。そういった意味では、このヨハネによる福音書4章1節から15節は、この物語の中心ではないと言えます。

しかし聖書の面白いところは、その中心ではないところ、主題でない部分にも学ぶべき物語があると言うことです。ですから、この4章1節から15節のイエス・キリスト様とサマリアの女性との間のやり取りの中にも、一つの物語がある。では、その物語りは何かというと、渇きとそれを潤す水の物語です。この渇きは、肉体の渇き、いうなれば生理的な渇きだけでなく、人生の渇き、魂の渇きでもあります。では、その渇きを潤す水は何か。それをこのヨハネによる福音書4章1節から15節の物語は、私たちに教えるのです。

 物語は、サマリアの地から始まります。イエス・キリスト様の一行はバプテスマのヨハネより多くの弟子を作り、洗礼を授けていました。そのことは、このイエス・キリスト様とサマリアの女も物語の前に記されていることです。
 そして、そのことパリサイ派の人々の耳に入ったことを知ったイエス・キリスト様は、ユダヤ地方を去りガリラヤに向かいます。このユダヤ地方というのは、エルサレムの南西に広がる地方で、死海があるあたりです。それに対して、ガリラヤは、エルサレムを北にあるガリラヤ湖を有する地方です。そのユダヤ地方からガリラヤに移動するには、直線距離にするとざっと150kmぐらいです。。
 当時のイスラエルの国は南北に190kmぐらいであったと言いますから、このときイエス・キリスト様は、イスラエルの国をほぼ縦断するような距離を、ユダヤ地方からサマリア地方を通り、ガリラヤへ向かって歩いていたことになります。。

 みなさんもご存じのように、イエス・キリスト様の時代には、ユダヤ人とサマリア人は決して仲が良いとは言えない関係でした。言わば、渇き切った関係です。ですから、本来ならサマリアを通らずにガリラヤの向かいたいところですが、そのような道を行きますと、サマリア地方通って行く道の倍近くかかったようです。しかし、イエス・キリスト様はサマリアを通る最短ルートを選ばれた。きっと急いでおられたのでしょう、

 このようにイエス・キリスト様がそのように急がれたのは、パリサイ派の人々が、イエス・キリスト様がユダヤ地方で洗礼を授けていると言うことを知ったからであろうと思われます。と申しますのも、ヨハネによる福音書の3章25節には、バプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間で清めのことで論争があったと記されているからです。バプテスマのヨハネは、罪を洗い清めるための洗礼を授けていました。そのバプテスマのヨハネの弟子とユダヤ人の間に清めの論争があったというのですから、おそらくその論争は、洗礼を巡っての議論であったと思われます。
 つまり、そのような論争と対立とに巻き込まれないように、イエス・キリスト様は、足早にユダヤの地を去って、サマリアの地を通り、イエス・キリスト様と弟子たちの故郷であるガリラヤ後に向かったと思われるのです。そして、その道のりの途中であるサマリアの地で出来事が起こった。それは、イエス・キリスト様の弟子たちが食べ物を買うために町に出かけて行き、イエス・キリスト様がひとりで町はずれにおられたときのことです。そこに一人の女性が水を汲みに来た。水を汲みに来たというのですから、おそらくイエス・キリスト様は井戸の傍らで弟子たちを待っておられたのでしょう。

 その女性に、イエス・キリスト様は声をかけた。

   イエス・キリスト様:「もしもし、そこのご婦人。すみませんが、私に水を飲ませてくだいませんか」

声をかけられた女性は、イエス・キリスト様を見て怪訝に思います。イエス・キリスト様の風体をみると明らかにサマリア人とは犬猿の中にあるユダヤ人と思われる。そこで、サマリアの女性は

  サマリアの女性:おやおや。ユダヤ人のあなたがサマリア人の私に
          水をもませてくれだなんて、
          私たちサマリヤ人とあなた方ユダヤ人が仲が悪いのは
          ご存じでしょう。そのサマリヤ人の私に
          いったいどうしてそんなことを頼むのですか。

と答える。するとイエス・キリスト様は

  イエス・キリスト様:なるほど、あなたが不思議に思うのももっともだ。
            確かに私たちユダヤ人とサマリア人とは、
            仲が悪く互いに交流もない。
            だが、もしあなたが、神様が与えてくださる恵みが
            何であるかを知っていたら、
            そしてあなたに『水をください』と言ったこの私が
            誰であるかを知っていたら、
            あなたの方から、この私に生ける水をくださいと願い求め、
            それをもらうことができたでしょう。

そう言われてサマリアの女性

  サマリアの女性:生ける水をくださるですって。失礼ですがお見受けしましたところ、
          あなたは水を汲むものを持っていらっしゃらない。
          しかし、この井戸は深いのです。
          どうやって、その生ける水とやらを手に入れるのですが。
          それにねえ、自慢じゃないのですが、
          この井戸は私たちの先祖のヤコブが与えてくれた井戸ですよ。
          ヤコブと言えば、もう遠い昔の人。そんな昔から、この井戸は
          枯れることなく、
          私たちののどを潤してくれているありがたい井戸なんですよ。
          あなたは生ける水をくださるですっておっしゃいますが、
          あなたはヤコブよりお偉い方なんですか。

どうも、このサマリアの女性の言葉には、少々険がある。しかし、イエス・キリスト様はそんな険のある態度など一行に気に解せず

  イエス・キリスト様:そうです。確かにこの井戸は、
            私たちの先祖ヤコブが与えてくれた井戸です。
            でも、いくら井戸が由緒ある井戸でも、
            この井戸から汲んで飲む人は、必ずまた渇く。
            だからなんどでも水を汲みに来るのでしょう。
            でもね、私が与える水を飲むものは、決して渇かないのです。
            だって、私が与える生ける水は、その人の内で泉となり、
            永遠の命に至る水が湧き上がるのですから。

そう言われて、サマリアの女性は、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここに汲みにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」と言ったと、聖書にはそのように記されています。

 しかし聖書の文字を読むだけでは、このサマリアの女性が、真摯な態度で「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」とイエス・キリスト様に願い求めたのか、「そんなものあるなら、実際に私に見せて、与えてみなさいよ」と皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのかはわかりません。そこは想像するしかないのです。

 ただ私は、その後に続く、4章16節以降のやり取りを見ますと、まだこの時点では、このサマリアの女性は、イエス・キリスト様の言われた「生ける水」という言葉の真意を理解していなかったと思いますし、また、イエス・キリスト様がどのようなお方であるかについて、理解していなったろうと思うのです。ですから、おそらく皮肉たっぷりに懐疑的な態度で言ったのだろうと思います。
 実際、ここに至るまでのイエス・キリスト様とこのサマリアの女性のやり取りは、かなりチグハグでかみ合わない会話になっています。その原因が、このサマリアの女性が、イエス・キリスト様が言われた生ける水が、のどの渇きを潤す水、つまり物質的な水のことだと思い込んでいるからです。

 しかし、それもやむを得ないことかもしれません。そもそも、このイエス・キリスト様とサマリアの女の会話は、イエス・キリスト様が、このサマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたことに端を発しています。聖書は、その出来事は昼の12時頃であったと言いますから、イエス・キリスト様は本当に喉が渇いていたのだろうと思います。だから、このサマリアの女性に飲み水を求めた。
 話が、そのような所から始まっていますから、当然、このサマリアの女性はのみ水の話だと思ってもしかたがありません。おまけに、生ける水という言葉は、同時のユダヤ・サマリヤの人々にとっては、どこかに溜まった水ではなく、泉からこんこんと湧き上がる水、あるいは流れる川の水を指す言葉でした。そして溜まって流れのない水は死んだ水と呼ばれていた。溜まって流れのない水は、腐っていき飲むことができないからです。

 そのような中で、イエス・キリスト様の言葉を誤解しても仕方のないことなのです。しかし、それでもなぜ、サマリアの女性に「水を飲ませて下さい」と言われたイエス。キリスト様が、突然、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」と言ったのか。

 もちろん、それは水を飲ませてくださいと言ったイエス・キリスト様に、サマリアの女が「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリアの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言ったからです。そしてそこには、ユダヤ人とサマリア人の間にある深い溝がある。
 その溝がどうして売れたのかを話し出しますと長くなりますので、今日は割愛しますが、ともかく、長い歴史の中で、ユダヤ人とサマリア人の間には確執が生み出だされ、それが不和を生み出し、偏見を生み出し、そして断絶を生み出している。

 その偏見と断絶が、イエス・キリスト様を拒絶させている。しかし、イエス・キリスト様は、彼女に近づいている。歩み寄っているのです。だから、このサマリアの女性に声をかけ話しかけている。当時のイスラエルの民の中にあって、ラビと呼ばれる宗教的指導者が女性に話しかけると言うことはなかったそうです。話しかけているところを見られると、どんなに名声のある人でも、その名声は地に落ちてしまったのだそうです。しかも相手は、ユダヤの民とは不仲なサマリアの女性なのです。
 そこには、いざこざや争、そして敵対心をも乗り越えて、和解の出来事を取り除く和解の出来事、ユダヤ人であろうとサマリア人であろうと、敵対する者であっても、分け隔てなく救いの出来事をもたらそうとするイエス・キリスト様の姿を見ることができます。
 
断絶してしまった関係、それは、まさに死んでしまった関係です。関係における死、聖書によれば、それは断絶なのです。神と人との関係の断絶、人と人との関係の断絶、その死んでしまった関係を生きた関係に回復させる業、それがイエス・キリスト様の救いの業なのです。 
 その生きた関係への回復は、神と人との関係においては、私たちに永遠の命という神の命を与え私たちを神の子とします。そして、人と人との関係においては、互いにむつまじく愛し合い支え合う関係を生み出すことなのです。それが、死んだ関係ではなく生きた関係です。

 イエス・キリスト様は、そのような神を信じる者の生きた関係、生きた生き方へ、偏見と敵愾心によって壁が作られた死んでしまったような水の中に留まっているサマリアの女性を導こうとしておられる。だから、滾々と湧き上がる泉から、滔々と流れ出る生きた水を与えると言うのです。

 みなさん、先ほどお読みした旧約聖書詩篇1篇の2節3節は、協会共同訳聖書の訳では

主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。

 となっています。そこには神と結び合わされ、神の教え、神の言葉御耳を傾ける人は、滾々と湧き上がる泉の生ける水、豊かに滔々と流れる生ける水をその根から吸い上げ、その葉もかれることのない命の中で、豊かな実を結ぶものとなって生きる者となると述べられている。
 荒野という水のない荒涼とし、渇き切った風景を背負ったユダヤの人々やサマリアの人々にとって、尽きることのない泉や川の流れは、まさに命を与え豊かな実りをもたらすものの象徴です。そのような、豊かないのちのある関係を、渇き切った神と人との関係に、また人と人と関係にもたらそうと、イエス・キリスト様はこのサマリアの女性を招き、また私たちを導いておられるのです。

 そういった意味からいえば、生ける命の水に与ること、それがイエス・キリスト様がもたらす救いだと言えます。まただからこそ、先ほどお読みしました黙示録21章の6節7節では

   事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。
   初めであり終りである。
   かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
   勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。
   わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる

というのです。

 みなさん、死は悲しみをもたらし、痛みをもたらします。神と人との関係が、人と人との関係が死んだ水の中に留まり続ける限り、そこには涙という実を結んでいく。しかし、いのちの泉から湧き上がる生ける水を飲むときに、神は「人々の目から涙なみだを全まったくぬぐいとって下くだる。もはや、死しもなく、悲かなしみも、叫さけびも、痛いたみもない。先さきのものが、すでに過すぎ去さったからです」という事態を私たちにもたらしてくださるのです。

 その生ける水をくみ上げ、それを飲む者、それはイエス・キリスト様を信じる者です。その人には神と人と、人と人との関係に和解という喜びという豊かな実りが訪れるのです。イエス・キリスト様は、その神と人との和解、人と人との和解という喜びの実りにサマリアの女性を、そして私たちを導いておられる。ぎずぎすした関係に潤いをもたらす、新しい関係に私たちを導いておられるのです。そのことを心に思い描きつつ、しばらく心を静めて、神を思いう静まりの時を持ちましょう。

2022年6月17日金曜日

ウルトラマン、三日会わずんば刮目してこれを見よ!

    「ウルトラマン、三日会わずんば刮目してこれを見よ」      

 今、ちょっとした話題の映画「シンウルトラマン」を見てきました。私のような年代の人間にとっては、ウルトラマンは原体験に組み込まれています。それこそウルトラマンと共に育ってきたと言ってもいいのかもしれません。
 そんなわけで、ウルトラマンがあたらしく「シンウルトラマン」となって映画化されたと聞いては、ノスタルジーも手伝っていてもたってもいられなくなり、先日、映画館に足を運び見てきました。映画会社の思うつぼです。

 それでも映画館に入り、ワクワクしながら「シンウルトラマン」の上映を待っていました。やがて上映が始まります。私のワクワクは頂点に・・・・。ところが、映画が進んでいくにつれて、私のワクワクはモヤモヤに変わっていきました。そして「違う!これは私の知っているウルトラマンではない」という思いが心に広がっていくのです。

 考えてみれば、映画のタイトルが「シンウルトラマン」なのですがら、私の思い描くウルトラマンと違っていても当たり前なのですが、しかし、ウルトラマンはウルトラマンです。スクリーンに映っているウルトラマンの姿は、ちょっと細身になった感じもしますが、まぎれもないウルトラマンの姿です。スペシューム光線だって発します。

 けれども、物語が持つ雰囲気も、物語の展開の仕方も、私が子どものころに夢中になってみていたウルトラマンとは違うのです。見た目は同じなのですが、その中身はすっかり変わってしまっている。それが、見ている私に、モヤモヤとした気持ちを与え、結局がっかりした気持ちを引きずって映画館から帰ってくることになったのです。

 この私のモヤモヤ観とガッカリした気持ちは、見た目と本質とが食い違っていることに由来しています。言葉を換えれば、本来ある姿と、目の前にある姿の間に違いが生じてしまっていると言うことです。

 私たちは、しばしば現実の自分と自分が理想とする自分の姿の間に違いがあり、その差の大きさにガッカリすることがあります。また、時には周囲が私に期待する姿と、その期待に応えられていない自分の姿に苦しむことだってあるでしょう。そんなときに、私たちはありのまま間の自分を受け入れることがなかなかできなくなってくるのです。

 そして、自分自身が自分自身の、今のありのままを受け入れらなくなってしまってくるといったことが起こってきます。

 しかし、神は私たちの今を、ありのまま受け入れてくださいます。ありのままのあなたでいいといって、神は、私たちを受け止めてくださうのです。もちろん、だからと言って神は、私たちに期待をしていないということではありません。神は、私たちに期待をしてくださっています。私たちが人間として成長し、私たちが豊かな人間性をもった愛に溢れたものとなっていくことを期待してみています。

 確かに神は、そのように私たちに期待をもちつつも、しかし、今の私を、ありのまま受け止めてくれているのです。今の、あなたは、その今のあなたのありのままでよい。明日は、明日のありのままのあなたでというのです。

 今日の私は、明日の私とは同じではありません。私たちは気が付きませんが、たとえば見た目でも、今日の私よりも、明日の私のほうが神は少し伸び、爪だって少し伸びている。私はもう初老の域ですから、背は縮むことはあっても、伸びることはありません。しかし若い人なら、毎日毎日背も伸びているでしょう。 私たちは、必ず、一日、一日、成長しています。変化があるのです。 

 それは、私たちの心や精神といったものも同じです。私たちの心や精神も、昨日の私と今日の私は違っている。そして私たちの心も精神も確かに、日々わずかづつであっても成長していくのです。

 神は、そのわずかな成長を、「今日のあなたは、今日のあなたのありのままでいい」といって受け止め、忍耐強く見守り、支えてくださっているのです。なぜなら、私たち人間が人間であるその本質は、私たちが神によって神に似た者になるように作られた者だからですだから、心配することはないのです。

 聖書の中のコリントの信徒への手紙1の3章6節に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という言葉があります。神は私たちに愛を注いでくださり、成長するのを忍耐強くじっと見守ってくださっているのです。

 そして、私たちの心がその神の注がれる愛を受け止めるならば、私たちも必ず変わります。ウルトラマンだってシンウルトラマンに変わったのです。私たちが、私たちを愛する神の愛の中を生きるならば、私たちは必ず愛に満ちた神の姿に似た者へと成長していきます。なぜならば、私たちの本質には、神に乗せられた神のかたちが刻まれているからです。

 そう思うと、「シンウルトラマン」を見た後のモヤモヤ観も、少し薄れた感じがします。「ウルトラマン、三日会わずんば刮目してこれを見よ」ということなのかもしれません。

2022年6月5日日曜日

2022年聖霊降臨日(ペンテコステ)記念礼拝「主なる神が我らの弁護人」

 

22年聖霊降臨日(ペンテコステ)記念礼拝

        「主なる神が我らの弁護人」

                         202265

旧約書:申命記7章6節から8節
福音書:ヨハネによる福音書1518節から27
使徒書:使徒行伝21節から6

 今日はペンテコステ、すなわち聖霊降臨日です。イエス・キリスト様は、十字架に架けられ、三日目に復活し、よみがえられました。そのよみがえられたイエス・キリスト様は、40日間弟子たちに現れ、弟子たちに神の国のことについて教えられ、天に昇られたのです
 そのよう様子は、使徒行伝1章に書かれています。このイエス・キリスト様が天に昇られたという出来事があった後、イエス・キリスト様の弟子たちが集まって祈っていました。その時、突然、激しい風が吹いてくるような音がして、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たちの上に留まるという出来事があったのです。
 すると弟子たちは、聖霊に満たされ。聖霊が語らせるままに、他国の言葉で話だし、イエス・キリスト様の事を、エルサレムに来ていたあらゆる国の人に伝えはじめ、そこから世界中に教会が建てあげられるようになった。そのことが、使徒行伝21節から6節に記されています。そしてそのことを記念する日がペンテコステなのです。

 私たちは、このペンテコステを聖霊降臨日と呼びますが、先日、あるキリスト教の雑誌に、このペンテコステの出来事を巡って、二つの立場からの神学的理解についての議論が記されていました。
 それは、このペンテコステの出来事は聖霊のバプテスマだという主張と、これは聖霊のバプテスマではなく、聖霊の満たしの出来事だという異なる主張による議論でした。このように一つの出来事でも、教派や育ってきた伝統でその解釈が違ってくるということはよくあることです。だからキリスト教に様々な多様性がある。多様性があってよいのです。
 しかし、そのような多様性の中にも一致はある。このペンテコステの出来事に対する神学的な理解には違い、すなわち多様性があっても、それでもなお、私たちひとり一人に聖霊なる神が与えられているという事実において、私たちは一致することができるのです。

 聖霊なる神が私たち共にいてくださる。この聖霊なる神は、私たちの弁護者です(ヨハネによる福音書1526節)。口語訳聖書や新改訳2017では助け主と訳していますが、もともとの原語である弁護者という意味を持つギリャ語はπαράκλητος(パラクレートス)という言葉であり、ホーリネス教団の公用聖書である協会共同訳は、弁護人と訳しています。

 私たちは、聖書がこの聖霊なる神を弁護人と呼んでおられると言われると、即座に聖霊なる神は、罪びとであり私たちを、父なる神の前に弁護してくださるお方であると、そう思っいがちです。実は、私もそう思っていました。しかし、聖霊なる神は弁護人であると書かれている文脈を見ていくと、どうも、そうではないことがわかってきます。

この弁護するものとは、聖霊なる神が、私たちが罪びとであることを、父なる神に弁護してくださると言うのではなく、むしろキリストを信じる者を、「この世」が迫害する中で、「この世」というキリスト教に敵対し、クリスチャンを迫害する者たちに対して、彼らが証する彼らの信仰を、聖霊なる神が弁護してくださるというニュアンスなのです。
 だからこそ、先ほどお読みした使徒行伝1章にある、炎のような舌が分かれて現れ、弟子たちの上に留まるという出来事があった後に、弟子たちが、聖霊に満たされ、他国の言葉で話だし、イエス・キリスト様の事を伝えはじめた。その時に、聖霊なる神が、彼らの弁護者となり、彼らの言っていることは正しいのだと弁護して下さった。そこからイエス・キリスト様の福音が世界中に広がり、そして信徒の群れである教会が建てあげられ始め、今日に至るというキリスト教会の歴史があるのです。

 しかし、だからといって、この弁護人である聖霊なる神は、イエス・キリスト様の事を、言葉をもって延べ伝える人たち、たとえば伝道者と呼ばれるような人たちだけに与えられているわけではありません。クリスチャンが、「この世」の中にあって、クリスチャンとして、信仰をもって生きるとき、聖霊なる神は、私たちと共に生き、私たちを支えてくださるお方です。

 イエス・キリスト様を証するということは、言葉で証するだけでなく、クリスチャンがクリスチャンとして生活するだけも、それはイエス・キリスト様を証することになります。私たちがこうして毎週神を礼拝しながら生きること、それだけも、私たちは神を証し、イエス・キリスト様を証しているのです。
 あるいは食事の際に、祈りをもって神に感謝すること、そういった一つ一つのことが神を証し、イエス・キリスト様を証するのです。そういった、日々の生活の一つ一つの積み重ねが、神を証し、イエス・キリスト様を証する生活となっていく。みなさん、クリスチャンがクリスチャンとして生きて行くということそれだけで、私たちはイエス・キリスト様というお方を伝えるものとなっている。神に役立つ者となっているのです。

 しかしみなさん、クリスチャンがクリスチャンとして「この世」の中で生きて行くということは、決して簡単なことではありません。様々な軋轢が生まれることもありますし、心の中で葛藤を覚えることもあるでしょう。

 たとえば、毎週神を礼拝するために教会に集まるということだって、決して簡単なことではありません。それができないことだってある。また、食事の際に感謝の祈りを捧げてから食べ始めるといっても、レストランのような人目のあるとことでお祈りすることが、何か人と違ったことをするようで恥ずかしく感じてなかなかできない人もいる。
 かつて私がそうでした。若いころの私はクリスチャンの仲間と一緒に食事に行くようなとき、食事をすることそれ自体は楽しいのですが、みんなで食事をするのですから、誰かが代表者になって声を出して祈る。そうすると、周りが変わった連中がいるという目で見るのではないかと思えて、祈るのが嫌だった。ましてや、その祈りをしなければならないときなどは、本当に嫌だった。そもそも、クリスチャンの中であっても、人前で祈るのが好きではなかったのです。
 要は、人の見る目、人が自分をどう見るのか、ひいては人が自分をどう評価するかが気になったのです。私の友人が、日本には世間様という神様がいると言いました。そして、確かに世間様はいる。世間様、つまり人の目というものの圧力に、私たちは押しつぶされそうなりながら生きているというたことがある。そしてかつての私もそうだったのです。だから私は、そのような自分を、信仰者として、クリスチャンとして心の中で「だめな奴だ」と思っていました。

だからこそ、そうですみなさん、だからこそ私たちには弁護人が必要なのです。助け主が必要なのです。それは、できない私を、叱咤激励し、できないことをできるようにしてくれる助け主でもなく、できないものを、父なる神に対して、この人は、罪びとです、この人はだめなクリスチャンですが、どうぞ許してやってくださいといって弁護する弁護人でもありません。 

確かに私たちは、あの炎のような舌がひとり一人の頭に上に留まったペンテコステの出来事の直後から、イエス・キリスト様のことを語り伝えて行った使徒たちや最も原初の教会の人々の勇ましい姿をみると、そこに私たちを励まし、力づける聖霊なる神の姿を見るような思いがします。
 しかし、神様は、またイエス・キリスト様はそのような勇猛果敢な弟子だけを求めているのではありません。むしろ、人間の目には弱さを持った人や欠けがあると思われる人も神の民として求めておられるのです。
 そして、大丈夫だよ、安心しろと慰め、支えながら神を信じ、イエス・キリスト様を信じるクリスチャンとしての信仰生活を生かしてくださる。いえ、そういった人こそ、神は神の教会に必要な人だと言って求めておられるのです。

考えてみますと、イエス・キリスト様がお生まれになるまでの旧約聖書において、神の歴史を担ったイスラエルの民は、決して大きな、力のある人々ではありませんでした。むしろ、数の少ない少数者であり、力のない民であったからこそ、神はイスラエルの民を神の選びの民として選び出し、神の救いの物語を担う民となさったのです。
 しかも、彼らは決して信仰深い人たちであったかといえば、必ずしもそうではない。むしろ彼らの歴史には、信仰者としてはとても褒められないような歩みが数多くみられるのです。そして、社会的にはいつも弱者で虐げられてきた民なのです。にもかかわらず、それでも神は、イスラエルの民を選び、見守り、励まし、支えておられる。そして、イスラエルの民を神の民として育み育てておられるのです。そこには、神の慈しみと憐みがあふれている。 

みなさん、私たちは決して強い者ではありません。弱さを多く抱えたものです。欠けもいっぱいある。また、神を信じて生きているからといって、必ずしも「この世」に評価されるような成功をおさめることもないかもしれません。
 ですから、それこそ私たちを見て、周りの人からは、あれでも神を信じている者なかと言われることもあるでしょう。また、神を信じてもなにも良いことなどないではないかといわれることがあるかもしれません。
 しかしそれでもなお、聖霊なる神は、そのような「この世」という社会に向かい、「この人たちは、まぎれもなく神を信じ、神に愛され、神に養い育てられ、はぐくまれている人だ。神の目に高価で尊い人なのだ」と、声高らかに弁護してくださっている。

 みなさん、「この世」という世界のまなざしは目に見える成果や結果に目を注いでいます。そして、華々しい働きや結果を納める人を称賛し、褒め称えます。しかし、神のまなざしは、「この世」にあって、目立った働きをし、結果を残すことがなくても、ただ愚直に神を信じ、神の言葉に耳を傾けて生きて行く人に注がれて、そのような人を称賛するのです。そして、キリストの体なる教会に必要な人だと言って、教会に呼び集めてくださっている。

もちろん、神を信じ、華々しい活躍をし、結果を残すような人にも、神は目を注いでくださっています。しかし神は、その活躍のゆえに、その成果のゆえに目を注いでいられるのではない。教会における働きは、その賜物の多様性による結果でしかなく、その結果に優劣などなく、結果によって神の評価が変わるというようなものではありません。
 神は、ただ私たちが「この世」にあって小さき者だからこそ、そのまなざしを注ぐのです。華々しい活躍をする人だからではない。人の目から見た強い信仰を生きる人だからでもない。むしろ、「この世」にあって、「この世」から、小さきものとされているにもかかわらず、神を信じ、神の言葉に耳を傾けて生きて行く者であるからこそ、神は私たちを顧み、私たちに目を注がれるのです。そして聖霊なる神を私たちに与えてくださる。

だから、教会には不必要な人だの誰一人としていない。また、教会には聖霊なる神が共にいてくださらないというような人は誰一人もいないのです。大切なことは、私たちが、そのことを愚直に信じられるかどうかということです。
 そして、そのことを愚直に信じるということは、けっして自分は「ダメだ」と自己卑下しないということです。自分はダメなクリスチャンだとか、自分は信仰の弱いものだと思わないことです。そのような思いは、神と「この世」に向かって、「この人は、神に愛され、神の祝福に与る人だ」と弁護してくださる弁護人である聖霊なる神の言葉を否定することなのです。

 たとえ、誰かが、そして「この世」が、どんなに私たちを卑下し、認めず、ダメな奴だと言おうとも、聖霊なる神は、声を大にして、「この人は、神に愛され、神の祝福を受け継ぐ,高価で尊い人なのだ」と弁護してくださっているのです。そのことを覚え、神に感謝して生きて行くものでありたいですね。静まりの時を持ちましょう。