2024年2月18日日曜日

24年2月第三主日礼拝説教「王の就任」

 24年2月第三主日礼拝説教「王の就任」                

旧約書:イザヤ書53章1節から10節
新約書:ヨハネによる福音書12章1節から20節
使徒書:ヘブル人への手紙4章14節から16節

 前回の礼拝説教で、マリアが、イエス・キリスト様の足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪でその油をふき取ったという出来事に対して、イスカリオテのユダがとった態度から、私たちの心の中にある良心の問題について考えさせていただきました。
そして今週は、同じマリアの出来事をイエス・キリスト様がどう捉えたか、またこのヨハネによる福音書を書いた聖書記者がどのように、受け止めたかということから考えてみたいと思います。そのためには、このヨハネによる福音書の12章1節から20節までを一つの物語の単位として読む必要があります。ですので、1節から20節までをお読みしました。

 みなさん、聖書を解釈するということは、聖書に書かれていることを今の時代の、この日本という文脈の中で、どのように聖書の物語を読み解き、関係づけていくかという作業です。そして様々な聖書解釈の方法が議論されてきました。そのような中で、近年言われるようになってきたのが、物語神学と呼ばれる聖書の解釈方法です。この物語神学というのは、宗教的真理というのは物語を通して語られてきたので、聖書もまた、一つの物語として読み解く必要があるというものです。

 確かに、そうなのかもしれません。実際、前回の主日礼拝の説教で、私たちが着目したマリアがご自分の足に高価な香油を塗ったという出来事を、イエス・キリスト様は、神の御子であるご自身が受肉し、「この世」という世界の中で生き、そしてイスラエルの指導者たちから憎まれ殺されるであろうという、イエス・キリスト様のご生涯の物語の一部として理解し受け止められています。それが

「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」

という言葉だったのです。
 みなさん、イエス・キリスト様は、このマリアの行為をイエス・キリスト様の葬りのための行為であるとして受け止めています。つまり、マリアの行為をイエス・キリスト様の十字架の死に結び付けて理解しているのです。それは、今、ここでの苦しみです。そして、その苦しみは、イエスらエルの民を治めている指導者層のパリサイ派や祭司長の人々や、ローマ帝国の総督ピラトから加えられる苦しみであり、いわば、「この世」の支配者から与えられる苦しみなのです。

 だとすれば、イエス・キリスト様は、「今、ここで」、「この世」を支配するものから与えられる「苦しみ」によって「苦しめられ、殺され、葬られる人と」として、ご自分を見ており、その出来事を、マリアが香油を注がれた出来事の中に見ておられるのです。ところが、このヨハネによる福音書を記した聖書記者は、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を注ぐという出来事に別の意味を見出しています。そもそも、ヨハネによる福音者は、そこに書かれている言葉に二重の意味を持たせることがあると言われます。そして、確かに、この足に香油を塗るという行為にもその二重の意味を見ることができます。それは、イエス・キリスト様が自覚していた「葬りのための塗油」であると同時に「メシアに対する油注ぎ」ということです。

 みなさん、メシアという言葉は、油注がれた者という意味があります。この油を注ぐという行為は、イスラエルの王が王に就任する時に行われるものであり、また、大祭司が大祭司として就任する時に行われるものです。ですから、たとえばスローヤンやシュラッターという聖書註解者は、このヨハネによる福音書の著者は、マリアのイエス・キリスト様が足に高価な香油を塗り、自分の髪でそれを拭いたという行為は、イエス・キリスト様がメシア(油注がれた王)であることを指し示しているというのです。
 そして、ヨハネによる福音書の著者もまた、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を塗ったという出来事を、まさにイエス・キリスト様が神を信じるものの王として就任したのだという、その王の就任の際に行われる油注ぎの行為であると受け止めたのです。

 それは、このマリアの行為が告げられた直後に、イエス・キリスト様がエルサレムに子ロバに乗って入城するという出来事が記されていることからわかります。というのも、名前こそ出てはきませんが、この女性がイエス・キリスト様の足に香油を塗り、自分の神でぬぐい取るという行為は、他の福音書にも出てきています。しかし、その出来事をイエス・キリスト様のエルサレム入城の直前に起こった出来事として記すのは、このヨハネによる福音書だけなのです。
 おそらくこのヨハネによる福音書の著者は、この福音書を書こうとする際に、イエス・キリスト様の受肉から十字架の死と復活の出来事を振り返りながら、「ああ、あのマリアがイエス・キリスト様の足に高価な香油を注いだ出来事は、イエス・キリスト様が、神の民が集う、神の王国の王として就任なさる油注ぎの儀式の役割を果たしていたのだなあ。そして確かにイエス・キリスト様は王としてエルサレムに入城なさったのだ」と回顧しながら、このヨハネによる福音書を書き記して行ったのだろうと思われます。

 みなさん、「今、ここで」、「この世」の支配者によって苦しめられ、十字架の上で殺され、墓に葬られる」お方こそが、神の民の王として、神の都であるエルサレムに入城するのです。それは、「この世」を支配する者から「苦しめられ、虐げられ、抑圧されて痛み苦しむ者の王となるためなのです。
 そうなのです。イエス・キリスト様は、「この世」という世界の支配の中で虐げられ、痛む、苦しみや悲しむ私たちの心に、王として入城してくださるお方なのです。そして、共に苦しみ、痛み、悲しみをご自分の身に負われるのです。それは、神様というお方が、そのように、私たちの痛みや苦しみや悲しみに心を向け、共感してくださるお方だからであり、その神のひとり子だからです。

 そのことが、もっともよく表れているのが、先ほどお読みしました旧約聖書イザヤ書53章1節から10節です。この箇所は、4節の「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」という言葉や5節の「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」とか8節の「彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」という言葉から、私たちの罪の身代わりとなって死んできださるお方が預言されているのだとして刑罰代償説というイエス・キリスト様のと呼ばれる救いに関する理論の根拠だとされてきました。
 しかし、わたしは、この箇所は、そのような身代わりと言うことが言われているところではないと考えています。なぜならば、この時、イスラエルの民は、バビロン帝国の支配のもとで奴隷として抑圧され虐げられて、苦しみと痛みと悲しみの最中に置かれていたからです。そして、その痛みと苦しみと悲しみを、メシアは共に負って苦しみ、痛み、悲しむ姿がこのイザヤ書53章の1節から10節に描かれている。そして、その痛みや苦しみや悲しみを知っているからこそ、バビロン帝国という「この世」の支配者の支配のもとで苦しみ、痛み、悲しむ人を慰め、励まし、支えることで、その苦しみや痛みや悲しみから解放することができるのです、

 みなさん、救い主とはその様なお方なのです。神を信じる神の民の油注がれた王として「この世」に来られたイエス・キリスト様というお方は、そのようなお方なのです。この、今も、このともに苦しき、共に痛み、共に悲しむお方が、油注がれた王となられた出来事は、それは2千年前のパレスチナの地で起こった出来事です。しかし、このお方は今も、この世界の王であられるのです。そして私たちの王として、わたしたちと共にいてくださるのです。

 にもかかわらず、私たちの周りには、悲しみや苦しみや、痛みというものが未だ満ち溢れています。それはヨハネによる福音書の冒頭の1章10節11節で「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」とあるように、このお方を「この世」という世界が、そしてこの世を治めている者が拒絶しているからです。
 しかし、このお方を信じ受け入れて生きるならば、この方は、必ず「あなた」の慰めとなり、支えとなり、癒しとなってくださるのです。先ほどお読みしたヘブル人への手紙4章14節から16節にあるように「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた」お方だからです。だからこそ、私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様をいつも心の中が見上げながら生きていこうではありませんか。

 マリアに十字架の死に対する葬りの油を注がれたイエス・キリスト様は、その死の葬りの出来事と共に、栄光の王となる王の就任のために油注ぎを受け、ご自身が、十字架につけられ殺される場所となるエルサレムに入場するのです。その入場の様子が、12節から20節に描かれている
だとすれば、このヨハネによる福音書12章1節から20節は、神様が、罪と死の力が支配するこの世界から私たちを解放し、神の王国をこの世界に広げるために、油注がれた王、すなわちメシアの到来を物語る物語なのです。なぜならば、聖書は一貫して、私たちを罪と死をもって支配する「この世」の支配者から解放する物語を語っているからです。

 出エジプト記の物語、しかりバビロン捕囚から解放する物語然りです。そして、その神の救いの物語の中で、イエス・キリスト様は。この時代にあっても、私たちを、慰め励まし、支えてくださる王として、私たちと共にいてくださり、私たちを救ってくださるのです。そのことを覚えつつ、このイエス・キリスト様のことを静かに思い廻らしたいと思います、しばらく静まりの時を持ちましょう。

2024年2月17日土曜日

休むことの大切さ―身も心も安らぐときー

 つい先日は建国記念日の振替休日があり、土、日、月の3連休がありました。休みっていうのは、いくつになっても嬉しいもんですよね。人間にとって、休息の時というのは、絶対に必要です。

 そんなわけでしょうか、聖書には、週に一日、「必ず休みの時を持つように」って、安息日という日が決められています。もともとは、金曜日の夕方から、土曜日の夕方だったんですけれど、今では日曜日が、その日の役割を果たしています。

この安息日は、生きるために。一週間働いてきた者が、ゆっくりと体を休ませ、疲れを取るためのものです。でも、私たちが疲れを感じるのは、何も体の疲れといった肉体的な疲れだけではありませんよね。体だけではなく心だって疲れることがある。むしろ、この心の疲れのほうが問題です。

 仕事や人間関係、あるいは健康のことなどで悩みや心配があるときには、体を休めても、それだけでは、心が平安に過ごせるとはかぎりません。身も心も休めることが出来てこそ、本当の安息日っていえるんですよね。

 そんなわけでしょうか、聖書には、安息日について、こんな事を書いています。旧約聖書申命記五章十四節です。途中を一部省略しますが、このようなことが書いてあります。

 「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。(中略)あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこから導き出されたことを覚えなければならない。それゆえに、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。」

これは、神が、イスラエルの民が、祖国から遠く離れたエジプトの地で奴隷となり苦しみ悩んでいるところから救い出し、イスラエルの民と共に歩んでくれる。だからそのことを心にしっかりと覚えるために安息日を守りなさいということです。

つまり、安息日に私たちを守り、苦しみや不安、悩みから救い出して下さる神を、心に覚え忘れないために安息日を守りなさいというのです。それは体の休息のためでなく、子心の休息、魂の休息のためなんですね。

今の時代は「心の時代」だと言われます。それは心が、どうしようもない程に、疲れ切りすり減ってしまっているからです。あなたの心は、疲れてはいませんか。すり減ってはいませんか。

神は、そんなあなたに、心の平安を与えてくださるお方です。あなたの心が神をこころに信じ受け入れるならば、神は、その人の心の中にいつも共にいて下さり、慰め励まして下さって、その悩み苦しむ心に平安を与えて下さいます。

そんなわけで、神を信じるクリスチャンは、日曜日に礼拝に集い、私たちの心に休息を与えて下さる神を心に覚え、新しい一週間を生きていく力をいただきながら生きているのです。

この、体と心に与えられる本当の安息日をあなたのものにしていただきたいと思います。

2024年2月15日木曜日

パンとワイン

 最初に聖書の言葉を記します。

「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝を捧げで後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯を同じようにして、言われました。『この杯をは、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』

この言葉は、新約聖書コリント人への手紙第一、十一章二十三節、二十四節の言葉ですが、これは、主イエス・キリスト様の私たちに対する約束、すなわち契約の言葉です。
 イエス・キリスト様は、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を自分の主であり、救い主あると信じ、神の子である身分を回復してくださる救い主として信じるものは、「この世」という世界の中生きてきたその人生が、どのようなものであっても、必ず受け入れて下さると約束して下さいました。
 というのも、私たち人間は、神さまからもともと神の子と言う特別な身分を与えられて創造された特別な存在なのです。けれども、私たち人間は、神さまを見失ってしまっています。また私たちが生きる「この世」と呼ばれるこの世界そのものも、神さまを見失っています。そして神さまに代わって罪と死が支配する「この世」という世界の中に生きるものとなっているがために、神の子であるという特別な立場が損なわれてしまったのです。

 けれども、神さまは、私たちのことを決して見捨ててはいません。だから、必ず回復する約束くださったのです。その約束を果たすために、イエス・キリスト様は、は十字架の上で命を投げ出し、罪と死の支配から私たちを解放して下さったのです。この解放の業を教会では贖いと言います。

教会では、礼拝の時に聖餐式と呼ばれる、パンとぶどう酒、もしくは葡萄ジュースをいただく儀式があります。その時に先程の聖書の言葉が読まれるんですね。それは、聖餐式で食べるパンは、キリスト様が十字架で釘打たれた体を表わし、ぶどう酒は、その時流された血潮を表わしているからです。ですから、パンとぶどう酒は、キリストが、私たちの贖ってくださり、神の子としての身分を証なのです。回復宇して下さったということの証なのです。

 もう何年も前に、一人のお婆ちゃんが天に召されました。亡くなるちょっと前に、わたしは、そのおばあちゃんに、イエス・キリスト様が、お婆ちゃんを救い、神さまのこどもにして下さって、やがてよみがえり、神さまの御国でいることができるものとして下さるんだよとお話ししました。
 すると、お婆ちゃんは、素直にそのことを受け入れ、神を信じイエス・キリスト様を自分の救い主として受け入たのです。それから一ヶ月、そのお婆ちゃんは家族と楽しく賛美歌を歌ったり、聖書の話をしたりと、心温まるような時を過ごし、天に召されていきました。
 葬儀の後、そのお婆ちゃんのご主人が礼拝にこられ、聖餐式に出席なさいました。実は、ご主人は、昔、教会で洗礼を受けクリスチャンになったのですが、その後教会に行かなくなっていたのですね。でも、お婆ちゃんがイエス・キリスト様を信じ、神の子された平安の中で天に召されていく姿を見て、自分もイエス・キリスト様の約束の中にあることを思い出されたのです。

 キリストは、私たちと結ばれた約束を決して忘れません。神を信じたことを忘れ、何十年も教会に行かなくなっていたとしても、神さまとイエス・キリスト様は、約束を守って下さっています。神さまとイエス・キリスト様は、それほどまでに私たちとの約束に対して真実なお方なのです。だからこそ、その約束は信じる価値があります。そのお方が、あなたと約束をしようと言っておられるのです。そのための準備は、イエス・キリスト様の側では十字架の上でもう出来ています。あとは、あなたが信じるだけなのです。

2024年2月14日水曜日

なぜ人には宗教が必要か

  以前、数人の中学生が「なぜ、人には宗教が必要か」ということについて教えて欲しいと訪ねてきました。学校の宿題だったようです。そこで私は、彼らに、自分が生きている意味と価値は何なのかと言うことを知るために宗教は必要なんだよとお話ししました

 科学は人間の体の構造や、脳の働き、あるいは心についても。多くのことを解明してきました。でもそれは、人間がどんな生き物かを明らかにしただけで、人間が生きる意味と価値ついては教えてくれていません。それを教えてくれるのが宗教なんですね。ではキリスト教は、そのことについて何と教えているのでしょうか。
 それは「神の栄光を表わすためだ」というのです。要は、神の素晴らしさを示し、神の喜ばれることをすると言うことです。でも、神の素晴らしさとか、神に喜ばれることって何なんでしょう。

 今の世の中は、環境汚染といった地球的な規模の問題から、戦争や犯罪、あるいは経済問題と言った社会的問題まで、様々な問題が山積みになっています。また、私たち個人の生活にもいろんな問題があって、将来はどうなるんだろうかと、不安にこそなれ、希望などなかなか持ちにくい世の中なんじゃないでしょうかね。そんな世の中でも、神が私たちの抱える問題に解決を与えてくれると信じ、希望を持って生きているならば、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。なぜなら、そのような生き方は、神は私たちに希望をもたらして下さる素晴らしいお方だと言うことを指し示しているからです。だからこそ、神はそのような生き方を喜んで下さるのです。

 もちろん、神を信じたからと言って、全てが、私たちの願うように解決するとは限りません。私たちが生きている間に解決しないような問題もあるだろうと思います。けれども、たとえこの世では解決がつかないようなことがあったとしても、神を信じ、キリストを自分の罪の救い主と信じる者には、天国という大きな希望が与えられるのです。そこは、慰めと憩いの場が与えられ、大きな喜びに満ちあふれた世界です。その天国という希望を持って生きていくならば、神はその人のことを本当に喜んで下さるのです。

 それだけではありません。問題の多い暗い世の中だからこそ、天国の希望を持って喜んで生きていくならば、それは、自分だけではない、周りの人々にも、神にある希望を指し示します。だとすれば、それこそまさに、神の栄光を表わす生き方だと言えますよね。神は、そのように、神に喜ばれ、人々にも希望を指し示す、意味とか価値ある人生に、あなたを招いておられます。あなたは、そのために神に愛される尊い存在として、この世に生まれてきました。あなたの人生には大きな意味と価値があるのです。

2024年2月11日日曜日

疚しい良心

 礼拝説教「疚しい良心」                

旧約書:民数記20章1節から13節
福音書:ヨハネによる福音書12章1節から
新約書:ペテロ第二の手紙1章16節から21節

 さて、今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所は、ヨハネによる福音書12章1節から8節です。この箇所は、過ぎ越しの祭りの6日前に、エルサレムから約3㎞程離れたベタニヤという町で起こった出来事が記されています。このベタニヤはイエス・キリスト様が親しくしていたマリアとマルタの兄弟であるラザロが住んでいた街です。

 イエス・キリスト様は、このベタニヤの街で、死んだ4日もたっていたラザロをイエス・キリスト様は死から甦らせるということをなさいました。それで、多くの人がイエス・キリスト様を信じるようになったのですが、イスラエルの民の指導者たちである最高法院はイエス・キリスト
様を殺そうということを、議会の決議として決めたのです。そのため、イエス・キリスト様は、ベタニヤの街を離れエフライムというところに身を避けます。ベタニヤは、エルサレムにあまりも近くにあるからです。しかし、いよいよ過ぎ越しの祭りが近づいてきたので、イエス・キリスト様は、エルサレムに向かおうとして、もう一度ベタニヤの街に立ち寄るのです。

 当時、イスラエルの国には、7つのお祭りがありましたが、その中でも過ぎ越しの祭り、仮庵の祭り、七週の祭りという三つのお祭りは、特に重要なお祭りとして、ユダヤ人の成人男性は、この三つのお祭りの時には、エルサレムにある神殿に宮もうですることが習わしとなっていました。その過ぎ越しの祭りに出ようとして、イエス・キリスト様はエルサレムに向かう途中にベタニヤの街に来られた。当然、死かラ命を救われたラザロはもちろん、その姉妹であるマリアとマルタは、イエス・キリスト様を歓迎します。そしてイエス・キリスト様のために夕食の用意をするのです。

 ラザロがイエス・キリスト様と共に席に着き、マルタが、給仕をしていました。そのときマルタとラザロの姉妹であるマルアが、イエス・キリスト様の高価な香油を塗り、自分の髪でその油で拭いたのです。そのマリアの行為を見ていた、イエス・キリスト様の弟子の一人のイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言うのです。それは、そうでしょう。このマリアの行為はとても不可解で理解できない行為です。

 その当時、出迎えた客に敬意を示すために、その髪に高価な香油を一滴だけ注ぐということはあったようです。しかし、マリアは一滴ではない、大量の香油をイエス・キリスト様の足に注ぎかけ、それを自分の髪の家で拭くのです。いったいマリアはどうしてこのようなことをしたのか。聖書は、その時のマリアの気持ちも、その行為の理由については何も触れていません。ですから、確かに、マリアがしたことだけを見るならば、ユダが言うように、無駄だと言われても仕方がないことかもしてません。

 なぜなら、一滴で良いのです。それで十分なのです。ですから、大量の項巣を注ぐような使い方をすれば「もったいない、無駄遣いだ」と考えてもおかしくはないのです。そしてそのような無駄な使い方をするならば、その香油を売り払って貧しい人に施しをした方が、ずっと有益だというのは、一般的に言っても、またユダの人生経験に基づくならば正論なのかもしません。

 このイスカリオテのユダが、マリアに対して厳しい視線を送り、マリアの行動を批判的に見ていることに対して、このヨハネによる福音書の著者は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。自分が盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである」と言うのです。つまり、自分の後ろめたさを、マリアを批判することで覆い隠そうとしているのです。自分自身の周りにいる人に対しても覆い隠そうとし、神様に対し覆い隠そうとし、また自分自身に対しても隠そうとしたのだろうと思います。

 ひょっとしたらこのヨハネによる福音書の著者も、マリアの行動目の当たりにし、イスカリオテのユダが言った言葉を耳にしたときには、ユダの言葉に同意したのではないかと思います。それは極めて正論だからです。しかし、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を目撃し、そのイエス・キリスト様の生涯を書き記るそうとしてこの福音書を書いているときに、もう一度この出来事を振り返りながら、「ああ、あの時、イスカリオテのユダはあんな正論をいっていたけれど、今こうして振り返ってみると、実はユダは、自分が疚しいことをしていた後ろめたさから、あんな正論を吐いて、私たちや自分自身の良心に対して、自分は決して悪い人間ではないと言い訳をしていたんだろうな」と思ったのかもしれませんね。そこには、自分自身を「善し」とする自己義認をする人間の弱さが浮き彫りになっています。

 けれどもみなさん、私はこのような疚しさを感じる心というものは、悪いことではないと思うのです。また実際は割ることをしていても、自分は善いものだと思われたいという思いは、決して偽善といって退けられる必要はないと思うのです。なぜならば、疚しさを感じる心は、また善いものと思われたいという思いは、その根底に善を求める思いがあるからです。

 古代ギリシャの哲学者のプラトンや修辞学の祖といわれるイソクラテスといった人は、人間が如何にしたらよい人になれるかと言うことを考えた人たちです。そこには人間は善い者になれるという確信があります。そしてそれは間違ってはいません。なぜならば、人間は、神さまに似た者となるように、神の像を持って造られているからです。私たちは、善い者になれる。善い者になるように神さまによって創造されているのです。
 ただ、現実には、善い者となることができるとしても、多くの過ちや心配をし、善いこともしますが、しかし悪いこともしてしまうものです。せっかく神さまが善い者になるように作ってくださったのに、必ずしもそうはなっていないという現実と理想との間のギャップがあるのです。そのような現実と理想のギャップの中で、この聖書箇所におけるユダの言葉は、それが歪んだ形で出てしまっているのかもしれません。けれども私は、そのイスカリオテのユダの言葉の根底には、善い者になりたいという思いが見え隠れしているように思うのです。

 みなさん、金子晴勇という高名な西洋キリスト教思想史の研究者がいらっしゃいます。この方は、私が尊敬し、多くのことを学ばせていただいている研究者ですが、長くアウグスティヌスや宗教改革者のルターの研究してこられました。同時に霊性ということの研究もなさってこられたのですが、霊性というのは、人間が神様に向き合う姿勢や態度であり、神さまと接点とを持つ部分です。その霊性において、ルターは良心を霊性として捕らえていたというのです。
 そして、その良心とは、「疚しい良心」であるという。というのも、良心は良いことをするときには、その存在がわからないが、悪いことするとき、またしようとするときに、良心は痛みとなって、私たちの内に存在することを示すというのです。だから「良心」は良い心と書くけれども、「疚しい良心」だというのです。

 この疚しい良心が働くとき、実は、私たちは神さまと向き合っているのです。良心が痛み、悪いことをする、また使用している自分を疚しく思う。そのときこそ、私たちは神さまに向き合っているのです。大切なのは、その疚しい良心の働きに真摯に向き合って、神さまの御顔を求め、神さまが語られる言葉に耳を傾けることなのです。そして、自分自身の経験や知識をもって、物事を勝手に解釈し言い訳をしないことです。

 悲しいことですが、私たちはしばしば自分勝手な解釈をし、言い訳をしてしまいます。その意味では、イスカリオテのユダの言葉は、マリアの行為を無駄な事だとかってい解釈し、自分はそんな無駄な財産の使い方はしないという言い訳をしている。ひょっとしたら、ユダはごまかして盗んでいたお金の一部を貧しい人に分け与えたことがあるのかもしれません。だから「私は余っているお金を貧しい人に施しをしていたのだ。だ私は悪くない。私は悪人でも罪びとでもないのだ」と自分の行為を勝手に解釈し、心の中で言い訳をしていたのかもしれないのです。

 そのように、私たちは物事を自分の都合の良いように解釈することがある。そして酷い時には、聖書の言葉ですら自分の経験をもとに、自分勝手に解釈し、言い訳にすることがあるのです。だから、聖書は、自分勝手に解釈をしてはならないというのです。秋ほどお読みししたペテロ第一の手紙は言うのです。
 しかし、この自分自身の経験をもとに、神の言葉を勝手に解釈するということを、私たちはしばしばやってしまう。また、そのような現実があるから、ペテロ第一の手紙は「聖書を自分勝手に解釈をしてはならないというのでしょう。実際、旧約聖書で最も偉大な人物の一人であるモーセですら、神の言葉を自分勝手に解釈してしまったと言うことがある。それが先ほどお読みした民数記20章1節から13節にあるモーセが岩を打ったという出来事です。

 この箇所は、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒野をさ迷い歩いているときに、水がなくなってしまったときの出来事です。荒野で水がなくなってしまうということは、死に直結するような重大な出来事です。ですから、イスラエルの民は、モーセとアロンに、どうしてこんな場所に私たちを導いてきたのだと詰め寄るのです。
 そこで、モーセとアロンは神に祈ります。すると神は、二人に「岩に命じて水を湧き上がらせよ」と言われます。そこで、モーセは岩を二度打って水を湧き上がらせるのです。ところが、この岩を二度打ったという行為が神様に叱責されたのです。モーセは神様が「岩に命じて水を湧き上がらせよ」という言葉を、岩を二度打って水を出すことだと解釈した。そしてその解釈は、モーセの過去の経験によるのです。というのも、このときのように荒野で水がなくなり、モーセとアロンに詰め寄るということは以前にもあったからです。それは出エジプト記17章1節から8節に記されています。そのとき神様は、モーセに岩を打って水を湧き出させ、イスラエルの民に水を与えたのです。その経験があるから、モーセは神様の「岩に命じて水を出せ」という言葉を「岩を打つことだ」と勝手に解釈して、それが神の言葉の意味であるとして神の民に提示したのです。そのことを神様から叱責された。

2024年2月9日金曜日

言葉の神

 旧約聖書創世記十八章十七節にこのような言葉があります。「主はこう考えられた『私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか』」。ここでいう「主」と言うのは、神のことですが、神は、アブラハムという人に、ご自分の考えておられることを、包み隠さず話されたと言うのです。この話は、概ねこのようなストーリーです。

 話は今から四千年ぐらい前に遡りますが、現在のイスラエル地方に、ソドムとゴモラという町がありました。そこは、不道徳で乱れ、人々の欲望が渦巻く、罪に汚れた町でした。それがあまりにひどいので、神は、それらの町を滅ぼそうと思われたのです。神の裁きを下そうとなさったのですね。その計画を、神はアブラハムに、包み隠さずお話しになったのです。その時のことを、先の聖書の言葉は言っているのです。
 聖書には、このアブラハムの時のように、神が御自分の計画や私たち人間に対する気持ちを語っておられる所がいくつもあります。聖書の神は、言葉を持って語りかける、言葉の神なんですね。

 私は小学校三年生の時、教会の礼拝堂に、もぐり込んで、「神よ、あなたの声を聞かせて下さい。そしたら、信じます」とお祈りしたことがあります。映画のように、天から聞こえる神の声を期待していたのです。でも、神の声は、私の耳には聞こえませんでした。
 それから十年後、私は教会の礼拝に出席するようになっていました。そのとき私は、まだ心から神を信じていたわけではありませんでした。そんな中、ある時の礼拝で、牧師が旧約聖書詩篇五十一篇の言葉から話をしていました。それは「砕かれた、悔いた心、神よ、あなたは、それをさげすまれません。」という言葉でした。

 そのとき私は、その聖書の話を聞きながら、神の言葉を聞いたと思ったのです。「あなたは失敗や過ち、挫折を経験するだろう。その時、心は粉々に砕かれるかも知れない。でも、私はあなたを立ち直らせ、あなたを導こう」。そう語りかけて下さったと思ったのです。耳で聞いている声は、牧師の声です。けれども、その話をしている聖書の言葉を通して、私は、私の心に響く神の言葉を聞いたとそう思ったのです。

 それから、私の人生の様々な場面で、私は、神の語りかけの言葉を聞いてきました。結婚や就職、牧師になろうと決断したとき、また病に倒れたとき、神は、聖書の言葉を通して、私の耳にではなく、心に語りかけて下さったのです。それは慰めの言葉であったり、励ましの言葉であったり、また導きの言葉であったりしました。
 アブラハムに、「私がしようとしていることを、隠しておくべきだろうか。」と言われた神は、こんにち、聖書の言葉を通して私たちに語りかけておられます。もちろん、あなたにもです。だからこそ私は、ぜひ、「あなた」にも聖書を読んでいただきたいと思うのです。

2024年2月8日木曜日

日本の太陽、外国の太陽

  最初に、聖書の言葉をお読みしたいと思います。お読みします箇所は、旧約聖書出エジプト記二十章三節です。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほか神々があってはならない。」

 牧師をしていますと時々、このように言われることがあります。「日本には日本の宗教があるから、何もキリスト教と言った外国の宗教を信じなくても良いのではないですか。」

 「なるほどなぁ」と思わされるような言葉ですが、しかしよく考えて見てください。確かに、世界中には様々な国があり、民族があります。しかし、国や民族はちがっても、私たち人間は、同じ一つの人類なのです。
 ある宇宙飛行士は、宇宙から地球を眺めたときに、地球儀でみた様子と同じ地球の姿にたった一つだけ違いがあることに気づきました。それは本物の地球には、国境を定める線がないと言うことです。なのに、神という存在は、それぞれの国のでしょうか。

 聖書は、神は唯一であるといいます。それは日本人の神とか外国人の神とか言うように、沢山の神があるのではなく、私たち人類にとって神は、唯一の存在なのだということです。

 さきほどの、聖書の言葉は、イスラエルの民を奴隷の地であったエジプトから助け出した神が、そのイスラエルの民に向って語られた言葉です。神が、そのようにイスラエルの民を助け出されたのは、イスラエルの民を我が子のように愛し慈しんでおられたからです。
 同じように、神は私たち人間を、全て愛し慈しんでおられます。なぜなら、聖書の神は、私たち人間を含む天地万物を造り、命を与えたお方だからです。私たちは、神の愛する作品なのです。だからこそ、神は私たち人間を愛し、慈しんでおられるのです。その神の慈しみは、キリストの十字架の死に表われています。キリストの十字架は、私たちの罪や心の奥に潜む、醜い心、自己中心的な心にo陥れる罪の力から、私たちを救いだし、神の愛の中に導く神の恵みの業なのです。

 ある人がこんな事を言っていました。「日本で見る太陽と外国で見る太陽に違いがあるはずはない。それは同じたった一つの太陽を見ているからだ。」そうです。たった一つの太陽は、地球の全ての国、すべての人に太陽の恵みを降り注いでいるのです。同じように、天地万物の創造者である唯一の神は、全ての国の人々に神の恵みを与えてくださるお方なのです。

 

 だからこそ、聖書は、神は唯一で、この神以外に信じるべきお方はいないとそう言うのです。ですから、皆さんのも日本の神だ外国の神だなどと言わず、ぜひ聖書の神を信じ受け入れて欲しいのです。