2024年2月9日金曜日

言葉の神

 旧約聖書創世記十八章十七節にこのような言葉があります。「主はこう考えられた『私がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか』」。ここでいう「主」と言うのは、神のことですが、神は、アブラハムという人に、ご自分の考えておられることを、包み隠さず話されたと言うのです。この話は、概ねこのようなストーリーです。

 話は今から四千年ぐらい前に遡りますが、現在のイスラエル地方に、ソドムとゴモラという町がありました。そこは、不道徳で乱れ、人々の欲望が渦巻く、罪に汚れた町でした。それがあまりにひどいので、神は、それらの町を滅ぼそうと思われたのです。神の裁きを下そうとなさったのですね。その計画を、神はアブラハムに、包み隠さずお話しになったのです。その時のことを、先の聖書の言葉は言っているのです。
 聖書には、このアブラハムの時のように、神が御自分の計画や私たち人間に対する気持ちを語っておられる所がいくつもあります。聖書の神は、言葉を持って語りかける、言葉の神なんですね。

 私は小学校三年生の時、教会の礼拝堂に、もぐり込んで、「神よ、あなたの声を聞かせて下さい。そしたら、信じます」とお祈りしたことがあります。映画のように、天から聞こえる神の声を期待していたのです。でも、神の声は、私の耳には聞こえませんでした。
 それから十年後、私は教会の礼拝に出席するようになっていました。そのとき私は、まだ心から神を信じていたわけではありませんでした。そんな中、ある時の礼拝で、牧師が旧約聖書詩篇五十一篇の言葉から話をしていました。それは「砕かれた、悔いた心、神よ、あなたは、それをさげすまれません。」という言葉でした。

 そのとき私は、その聖書の話を聞きながら、神の言葉を聞いたと思ったのです。「あなたは失敗や過ち、挫折を経験するだろう。その時、心は粉々に砕かれるかも知れない。でも、私はあなたを立ち直らせ、あなたを導こう」。そう語りかけて下さったと思ったのです。耳で聞いている声は、牧師の声です。けれども、その話をしている聖書の言葉を通して、私は、私の心に響く神の言葉を聞いたとそう思ったのです。

 それから、私の人生の様々な場面で、私は、神の語りかけの言葉を聞いてきました。結婚や就職、牧師になろうと決断したとき、また病に倒れたとき、神は、聖書の言葉を通して、私の耳にではなく、心に語りかけて下さったのです。それは慰めの言葉であったり、励ましの言葉であったり、また導きの言葉であったりしました。
 アブラハムに、「私がしようとしていることを、隠しておくべきだろうか。」と言われた神は、こんにち、聖書の言葉を通して私たちに語りかけておられます。もちろん、あなたにもです。だからこそ私は、ぜひ、「あなた」にも聖書を読んでいただきたいと思うのです。

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