最初に聖書の言葉を記します。
「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝を捧げで後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯を同じようにして、言われました。『この杯をは、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』
この言葉は、新約聖書コリント人への手紙第一、十一章二十三節、二十四節の言葉ですが、これは、主イエス・キリスト様の私たちに対する約束、すなわち契約の言葉です。
イエス・キリスト様は、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を自分の主であり、救い主あると信じ、神の子である身分を回復してくださる救い主として信じるものは、「この世」という世界の中生きてきたその人生が、どのようなものであっても、必ず受け入れて下さると約束して下さいました。
というのも、私たち人間は、神さまからもともと神の子と言う特別な身分を与えられて創造された特別な存在なのです。けれども、私たち人間は、神さまを見失ってしまっています。また私たちが生きる「この世」と呼ばれるこの世界そのものも、神さまを見失っています。そして神さまに代わって罪と死が支配する「この世」という世界の中に生きるものとなっているがために、神の子であるという特別な立場が損なわれてしまったのです。
けれども、神さまは、私たちのことを決して見捨ててはいません。だから、必ず回復する約束くださったのです。その約束を果たすために、イエス・キリスト様は、は十字架の上で命を投げ出し、罪と死の支配から私たちを解放して下さったのです。この解放の業を教会では贖いと言います。
教会では、礼拝の時に聖餐式と呼ばれる、パンとぶどう酒、もしくは葡萄ジュースをいただく儀式があります。その時に先程の聖書の言葉が読まれるんですね。それは、聖餐式で食べるパンは、キリスト様が十字架で釘打たれた体を表わし、ぶどう酒は、その時流された血潮を表わしているからです。ですから、パンとぶどう酒は、キリストが、私たちの贖ってくださり、神の子としての身分を証なのです。回復宇して下さったということの証なのです。
もう何年も前に、一人のお婆ちゃんが天に召されました。亡くなるちょっと前に、わたしは、そのおばあちゃんに、イエス・キリスト様が、お婆ちゃんを救い、神さまのこどもにして下さって、やがてよみがえり、神さまの御国でいることができるものとして下さるんだよとお話ししました。
すると、お婆ちゃんは、素直にそのことを受け入れ、神を信じイエス・キリスト様を自分の救い主として受け入たのです。それから一ヶ月、そのお婆ちゃんは家族と楽しく賛美歌を歌ったり、聖書の話をしたりと、心温まるような時を過ごし、天に召されていきました。
葬儀の後、そのお婆ちゃんのご主人が礼拝にこられ、聖餐式に出席なさいました。実は、ご主人は、昔、教会で洗礼を受けクリスチャンになったのですが、その後教会に行かなくなっていたのですね。でも、お婆ちゃんがイエス・キリスト様を信じ、神の子された平安の中で天に召されていく姿を見て、自分もイエス・キリスト様の約束の中にあることを思い出されたのです。
キリストは、私たちと結ばれた約束を決して忘れません。神を信じたことを忘れ、何十年も教会に行かなくなっていたとしても、神さまとイエス・キリスト様は、約束を守って下さっています。神さまとイエス・キリスト様は、それほどまでに私たちとの約束に対して真実なお方なのです。だからこそ、その約束は信じる価値があります。そのお方が、あなたと約束をしようと言っておられるのです。そのための準備は、イエス・キリスト様の側では十字架の上でもう出来ています。あとは、あなたが信じるだけなのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿