24年2月第三主日礼拝説教「王の就任」
旧約書:イザヤ書53章1節から10節
新約書:ヨハネによる福音書12章1節から20節
使徒書:ヘブル人への手紙4章14節から16節
前回の礼拝説教で、マリアが、イエス・キリスト様の足に高価なナルドの香油を塗り、自分の髪でその油をふき取ったという出来事に対して、イスカリオテのユダがとった態度から、私たちの心の中にある良心の問題について考えさせていただきました。
そして今週は、同じマリアの出来事をイエス・キリスト様がどう捉えたか、またこのヨハネによる福音書を書いた聖書記者がどのように、受け止めたかということから考えてみたいと思います。そのためには、このヨハネによる福音書の12章1節から20節までを一つの物語の単位として読む必要があります。ですので、1節から20節までをお読みしました。
みなさん、聖書を解釈するということは、聖書に書かれていることを今の時代の、この日本という文脈の中で、どのように聖書の物語を読み解き、関係づけていくかという作業です。そして様々な聖書解釈の方法が議論されてきました。そのような中で、近年言われるようになってきたのが、物語神学と呼ばれる聖書の解釈方法です。この物語神学というのは、宗教的真理というのは物語を通して語られてきたので、聖書もまた、一つの物語として読み解く必要があるというものです。
確かに、そうなのかもしれません。実際、前回の主日礼拝の説教で、私たちが着目したマリアがご自分の足に高価な香油を塗ったという出来事を、イエス・キリスト様は、神の御子であるご自身が受肉し、「この世」という世界の中で生き、そしてイスラエルの指導者たちから憎まれ殺されるであろうという、イエス・キリスト様のご生涯の物語の一部として理解し受け止められています。それが
「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」
という言葉だったのです。
みなさん、イエス・キリスト様は、このマリアの行為をイエス・キリスト様の葬りのための行為であるとして受け止めています。つまり、マリアの行為をイエス・キリスト様の十字架の死に結び付けて理解しているのです。それは、今、ここでの苦しみです。そして、その苦しみは、イエスらエルの民を治めている指導者層のパリサイ派や祭司長の人々や、ローマ帝国の総督ピラトから加えられる苦しみであり、いわば、「この世」の支配者から与えられる苦しみなのです。
だとすれば、イエス・キリスト様は、「今、ここで」、「この世」を支配するものから与えられる「苦しみ」によって「苦しめられ、殺され、葬られる人と」として、ご自分を見ており、その出来事を、マリアが香油を注がれた出来事の中に見ておられるのです。ところが、このヨハネによる福音書を記した聖書記者は、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を注ぐという出来事に別の意味を見出しています。そもそも、ヨハネによる福音者は、そこに書かれている言葉に二重の意味を持たせることがあると言われます。そして、確かに、この足に香油を塗るという行為にもその二重の意味を見ることができます。それは、イエス・キリスト様が自覚していた「葬りのための塗油」であると同時に「メシアに対する油注ぎ」ということです。
みなさん、メシアという言葉は、油注がれた者という意味があります。この油を注ぐという行為は、イスラエルの王が王に就任する時に行われるものであり、また、大祭司が大祭司として就任する時に行われるものです。ですから、たとえばスローヤンやシュラッターという聖書註解者は、このヨハネによる福音書の著者は、マリアのイエス・キリスト様が足に高価な香油を塗り、自分の髪でそれを拭いたという行為は、イエス・キリスト様がメシア(油注がれた王)であることを指し示しているというのです。
そして、ヨハネによる福音書の著者もまた、このマリアがイエス・キリスト様の足に香油を塗ったという出来事を、まさにイエス・キリスト様が神を信じるものの王として就任したのだという、その王の就任の際に行われる油注ぎの行為であると受け止めたのです。
それは、このマリアの行為が告げられた直後に、イエス・キリスト様がエルサレムに子ロバに乗って入城するという出来事が記されていることからわかります。というのも、名前こそ出てはきませんが、この女性がイエス・キリスト様の足に香油を塗り、自分の神でぬぐい取るという行為は、他の福音書にも出てきています。しかし、その出来事をイエス・キリスト様のエルサレム入城の直前に起こった出来事として記すのは、このヨハネによる福音書だけなのです。
おそらくこのヨハネによる福音書の著者は、この福音書を書こうとする際に、イエス・キリスト様の受肉から十字架の死と復活の出来事を振り返りながら、「ああ、あのマリアがイエス・キリスト様の足に高価な香油を注いだ出来事は、イエス・キリスト様が、神の民が集う、神の王国の王として就任なさる油注ぎの儀式の役割を果たしていたのだなあ。そして確かにイエス・キリスト様は王としてエルサレムに入城なさったのだ」と回顧しながら、このヨハネによる福音書を書き記して行ったのだろうと思われます。
みなさん、「今、ここで」、「この世」の支配者によって苦しめられ、十字架の上で殺され、墓に葬られる」お方こそが、神の民の王として、神の都であるエルサレムに入城するのです。それは、「この世」を支配する者から「苦しめられ、虐げられ、抑圧されて痛み苦しむ者の王となるためなのです。
そうなのです。イエス・キリスト様は、「この世」という世界の支配の中で虐げられ、痛む、苦しみや悲しむ私たちの心に、王として入城してくださるお方なのです。そして、共に苦しみ、痛み、悲しみをご自分の身に負われるのです。それは、神様というお方が、そのように、私たちの痛みや苦しみや悲しみに心を向け、共感してくださるお方だからであり、その神のひとり子だからです。
そのことが、もっともよく表れているのが、先ほどお読みしました旧約聖書イザヤ書53章1節から10節です。この箇所は、4節の「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」という言葉や5節の「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」とか8節の「彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」という言葉から、私たちの罪の身代わりとなって死んできださるお方が預言されているのだとして刑罰代償説というイエス・キリスト様のと呼ばれる救いに関する理論の根拠だとされてきました。
しかし、わたしは、この箇所は、そのような身代わりと言うことが言われているところではないと考えています。なぜならば、この時、イスラエルの民は、バビロン帝国の支配のもとで奴隷として抑圧され虐げられて、苦しみと痛みと悲しみの最中に置かれていたからです。そして、その痛みと苦しみと悲しみを、メシアは共に負って苦しみ、痛み、悲しむ姿がこのイザヤ書53章の1節から10節に描かれている。そして、その痛みや苦しみや悲しみを知っているからこそ、バビロン帝国という「この世」の支配者の支配のもとで苦しみ、痛み、悲しむ人を慰め、励まし、支えることで、その苦しみや痛みや悲しみから解放することができるのです、
みなさん、救い主とはその様なお方なのです。神を信じる神の民の油注がれた王として「この世」に来られたイエス・キリスト様というお方は、そのようなお方なのです。この、今も、このともに苦しき、共に痛み、共に悲しむお方が、油注がれた王となられた出来事は、それは2千年前のパレスチナの地で起こった出来事です。しかし、このお方は今も、この世界の王であられるのです。そして私たちの王として、わたしたちと共にいてくださるのです。
にもかかわらず、私たちの周りには、悲しみや苦しみや、痛みというものが未だ満ち溢れています。それはヨハネによる福音書の冒頭の1章10節11節で「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった」とあるように、このお方を「この世」という世界が、そしてこの世を治めている者が拒絶しているからです。
しかし、このお方を信じ受け入れて生きるならば、この方は、必ず「あなた」の慰めとなり、支えとなり、癒しとなってくださるのです。先ほどお読みしたヘブル人への手紙4章14節から16節にあるように「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた」お方だからです。だからこそ、私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様をいつも心の中が見上げながら生きていこうではありませんか。
マリアに十字架の死に対する葬りの油を注がれたイエス・キリスト様は、その死の葬りの出来事と共に、栄光の王となる王の就任のために油注ぎを受け、ご自身が、十字架につけられ殺される場所となるエルサレムに入場するのです。その入場の様子が、12節から20節に描かれている
だとすれば、このヨハネによる福音書12章1節から20節は、神様が、罪と死の力が支配するこの世界から私たちを解放し、神の王国をこの世界に広げるために、油注がれた王、すなわちメシアの到来を物語る物語なのです。なぜならば、聖書は一貫して、私たちを罪と死をもって支配する「この世」の支配者から解放する物語を語っているからです。
出エジプト記の物語、しかりバビロン捕囚から解放する物語然りです。そして、その神の救いの物語の中で、イエス・キリスト様は。この時代にあっても、私たちを、慰め励まし、支えてくださる王として、私たちと共にいてくださり、私たちを救ってくださるのです。そのことを覚えつつ、このイエス・キリスト様のことを静かに思い廻らしたいと思います、しばらく静まりの時を持ちましょう。
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