2023年11月12日日曜日

練られた品性を築き上げる

  


 人生の試練や困難は人間を成長させます。試練や困難を通り乗り越えることで、「わたしたち」の人間性が練り上げられるという事があるのです。しかし、そうはいっても試練や困難というものは好ましいものではありません。それを乗り越えるには忍耐が必要になります。要は耐え忍ばなければならないのです。
 聖書には、忍耐は練られた品性を産み出し、練られた品性が希望を産み出すと書かれていますが、それはまさに試練や困難が人間を成長させるという事言い表している言葉だろうと思います。とはいえ、忍耐するということにも限界があります。その忍耐の限界を超える試練は、私たちの人間性を成長させるどころか、それを壊してしまいます。ですから、私たちは、これ以上耐え忍ぶことができないと感じたならば、誰かにより頼むという事も必要になるのです。
 もちろん、そのより頼む相手が家族や友人である場合もあるでしょう。そういったより頼むことのできる家族や友人がいることは幸せなことです。しかし、その家族や友人ですら支えていくことができる限界があるのです。では、本当に誰にも支えてもらうことができないと感じたとき、いったい私たちは誰に頼ればよいのでしょうか。
 聖書は、困難や試練が私たちの四方を取り囲んだとしても、わたしたちには逃れの道が一つだけ残されていると言います。それは神様という存在です。前、後、右、左という四方を困難や試練という壁が多い、逃れの道が閉ざされているように見えても、私たちの上はいつも天に向かって開けています。その天に向かい、神により頼むのです。
 この天という逃れにみちがあるからこそ、私たちはわたしたちに襲ってくる試練や困難に向き合い、それを乗り越えようと努力することが大切なのです。天という逃れの場があるからといって、試練や困難に向き合い、困難や試練を耐え忍び、それを乗り越えていく努力をしないという事を神は望んでおられません。なぜなら、神は私たちが練られた品性を持ち希望をもって生きることができるような、人間へと成長してほしいと願っておられるからです。私たちは忍耐の限りを尽くして、試練を乗り越え、より練られた品性を持つ人になっていく必要があるのです。
それは、決して楽な事ではありません。でも大丈夫です。その忍耐の限界の先には、わたしたちを支てくれる神様がおられるからです。
 試練や困難を耐え忍び、それを乗り越えていくことの大切さを、私の友人である岩本遠億牧師が「人生の精錬」という短いめせーじの中でよりわかりやすく語っています。そのメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれた「366日元気の出る聖書の言葉」のホームページにある▶マークをクリック聴くことができるので、それをお聞きくださればと思います。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bpq3v?fbclid=IwAR0QMwdFBT12yypL8vm3zVT4iUp9zE0aZt8yZyKTw2A-MwbrFpz5kPKkrUA

この岩本牧師のメッセージのアドレスは、岩本牧師からご許可をいただいてここに掲載しています。

2023年11月11日土曜日

人は何のために生きるのか。

  「自分が生きている意味と意義は何か」ということ、それは人生の目的といっていいのかもしれません。「自分は何のために生きているのか」は、それは「わたしたち」の永遠のテーマかもしれません。
 「わたしたち」は、自分の人生は自分のものだと思っているかもしれません。自分のものだから自分勝手に生きて良い、自分の好きなように生きて良い。「自分は自分の人生を楽しむために生きている」もしかしたらそうおもっているのかもしれません。
 しかし、だとしたら「わたしたち」は、「自分は何のために生きているのか」という問いは永遠にわからないかもしれません。「何のために生きるのか」というとき、そこには、「~のため」という関係性が前提にされています。つまり、自分以外の「何ものか」の存在があって初めて「何のために生きているのか」という問いは成り立つのです。そういった意味で私たちは社会の中で、関係の中で生きているのです。そして「あなた」が「何かのために生きている」とするならば、そこには「あなた」を必要としている存在があるのです。「あなた」との関係を必要な人がいるのです。
 どんなに「わたし」は社会から求められていない。社会の「何のためにもなっていない」と思っていても、私は絶対に「あなた」を必要としている人を知っています。「あなた」との関係することを求めている人を知っています。それは、イエス・キリスト様というお方です。そして、そのイエス・キリスト様の父なる神様です、
 イエス・キリスト様と父なる神は、「あなた」が生きて、このお方と関わりを持ってくれること本当に喜んでおられます。「あなた」はイエス・キリスト様と父なる神様にとって、本当に大切な存在なのです。だから、「あなた」の人生は、神とイエス・キリストの喜びとなるためにあるのです。「あなた」は大切な「あなた」なのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が「破れることのない計画」という短いメッセージで語っています。ですので、下記のアドレスをクリックし「366日元気の出る聖書の言葉」のページにある「破れることない計画」のところにある▶マークをクリックしてください。私たちに希望を与えるメッセージを聞くことができます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bp76p?fbclid=IwAR2Q_UGufyatJ-pbkuOZNHScOyLO0RuNjpn5d7iXEZM7Swe_vxjK0l7ldMU

2023年11月10日金曜日

差別と区別

 「差別と区別」

 最近、私の周辺では差別と区別という言葉をよく聞きくようになりました。それは人種差別の問題であったり、性的少数者の人たちへの差別問題であったりと様々です。そのような中で、これ「差別ではなく区別だ」と言う言葉を耳にすることがあります。それは、差別の問題には、ほとんどすべてと言っていいほど「差別する者と差別される者」という構造があるからです。
 そのような中で「差別する者」といわれると、極めて聞こえがよろしくありません。それは誰もが差別は良くないことだと思っているからです。
だから、「差別をしている」と言われたくないので「差別ではなく区別をしているのだ」と言うのでしょう。しかしそれは、一種の詭弁のようなものですが、ある種、差別と言う問題の本質をついている言葉でもあります。というのも、差別という事が起こるその根底には、人を肌の色や、国籍、性別や性的指向性、あるいは能力によって分類して区別するという事がありからです。そしてその区別にレッテルを張ることで差別が起こるのです。
 人を分類して区別すると言うのは、一見すると妥当性があるかのように思えますが、極めて乱暴で大雑把な行為です。なぜならば、私たち人間は、ある特徴や能力によってひとくくりにすることが難しいほど多様性に富んでいるからです。それこそ、ひとり一人が名前を持ち、みんな違っているのです。そのような個性を持ち、特徴を持ち、持っている能力も一人一人違う「わたしたち」を、ある一つの特性をもってひとくくりに分類し区別するという事自体、極めて乱暴なことであると言えます。
 昔聴いた話ですが、ある保育園では、毎月一回、その月に誕生日を迎える子どもたちのためにお誕生会を行っていたそうです。ところがある時、ひとりの子供の親御さんから、「確かにその月に生まれたのだけれど、生まれた日は違う。子供が生まれた人と違う日にお誕生会をするのはおかしい。生まれた日にお祝いをして欲しい」という申し出があったそうです。
 私は、その話を聞いた時に、そんなことしたら保育園の先生の負担が大きくなってします。ただですら保育の現場は大変なのにもっと大変になってしまうと、そう思いました。ところがその申し出を受けた保育園では、色々と考えて、その親御さんの申し出を受け入れて、園児一人一人が生まれた日に、その子のお誕生会をするようにしたそうです。もちろん、そうすれば保育園の先生方の負担は増えます。しかし、園児のことを考えて、大変にはなるけれど、それでも、園児一人一人が、自分が生まれてきたことが喜ばれているのだという事感じることができるようにと、ひとり一人のお祝いをしてあげることにしたと言うのです。
 私は、その話を聞いてた時に、その保育園の先生方は、本当に園児一人一人のことを大切にして愛しているのだなと思いました。けっして、その円に集う子どもたちを、何かの括りでまとめて分類し、区別するのではなく、ひとり一人の名を呼んで愛し慈しんでいる。そして、それは神様が私たちに注いでいる眼差しに通じるものです。
 神様は、私たちの何かで、それこそ性別やは肌の色といった身体的特徴で私たちを分類した区別したり、何ができて何ができないかと言う能力によっても私たちを分類し区別しないのです。当然、分類や区別しない以上差別などおこりません。神様は、わたしたちひとり一人の個性や特性を大切に思い、ひとり一人を愛し慈しんでくださっているのです。もちろん「あなた」もです。神様は、「あなた」を愛し、「あなた」を慈しみ。「あなた」の名を呼んでおられるのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が、「愛は分類しない」という五分弱の短いメッセージで語ります。下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページに行き、「愛は分類しない」の▶マークをクリックしてください。なおこのメッセージのアドレスは、岩本牧師の御許可をいただいて掲載しています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bms0b?fbclid=IwAR1rJ0fQTwa6j4Se3SPOcI20kgW1w91f_gaMUxma_usreXb1NhZTNKcgZQQ

2023年11月9日木曜日

豊かな人生をおくるために

 人生の豊かさは何をもってきまるのでしょうか?
お金でしょうか?
なるほど、生きて行くうえでお金は大切です。食べることにも窮するような貧困は、「わたしたち」の生命を奪ってしまう危機を「わたしたち」にもたらします。しかしそれはもはや「豊かさ」と言ったこと以前の問題です。
 もっとも、この場合、お金そのものが問題なのではありません。食べ物を手に入れることができないという事が問題なのです。さらにほりさげるならば、「わたしたち」が生きて行くという事のために必要な物資が、お金というものを通して手に入ると言う経済システムが問題だと言えます。 
 しかし、「豊かさ」という事だけに絞って考えると、必ずしもお金の量自体で「豊かさ」を量ることはできないようにも思います。「豊かさ」の中には、心の「豊かさ」と言ったものがあるからです。では、心の「豊かさ」とは何なのでしょうか。「豊かな心」とは、いったいどんなものなのでしょうか。
 「豊かな心」それは、「心に余裕があること」だという事です。心が満ち足りている方、余裕がある。余裕があるから分け与えることができる。だとすれば、人に分け与えることができることが「豊かさ」の本質なのではないかと思うのです。
 もちろん、分け与えてばかりでは、いつか枯渇してしまいます。しかし、どんなに分け与えても枯渇しないものがあるのです。それは、神の愛です。神は永遠です。永遠と言うのは時間的に無限と言うだけでなく、質的にも無限です。だから、神の愛はどんなに人に分け与えてもなくなることなく、無尽蔵にあるのです。そして愛は「わたしたち」の心を満たしてくれます。そして、「わたしたち」の心に、生きる力や勇気というものをも満たしてくれるのです。
 この「神の愛」はイエス・キリスト様と言うお方によって「わたしたち」の心に注がれます。イエス・キリ様と言うお方が「あなた」の心のうちにいるならば、「神の愛」は「あなた」の心の中にいるイエス・キリスト様に溢れるほどに注がれるのです。
 このイエス・キリスト様というお方を、「あなた」が心で信じ、このお方を「あなた」の心に迎え入れ、このお方に「あなた」の心が頼るならば、イエス・キリスト様は、必ず「あなた」の心に住み、「あなた」を「心の豊な人」にし、あなたの人生を「心が満たされた」ところの豊かな人生にしてくれるのです。
 この人に分け与えることができるほどの豊かな人生を送った人の物語を、私の友人の岩本遠億と言う牧師がC


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bm0j7?fbclid=IwAR1ES8jwLLLMLRf-z-UCQKM8Z6gfQi4Qnj6dOVSxSTnWwnFQVwda610IZRk

2023年11月8日水曜日

怖れと不安からの脱出

 先々日、このブログで私は、ゴジラフ・リークだということをカミングアウト(告白)しましたが、映画『ゴジラ』シリーズは、アニメ版やハリウッド製作作品をいれると今回の作品で39作目になりますが、その原点は1954版の『ゴジラ』になります。

 この最初の作品のゴジラを、初代ゴジラと呼ぶとしまして、初代ゴジラが東京に来襲して街を破壊していく物語は、制作当時の人々の、核兵器に対する漠然とした不安や怖れといったものを如実に物語っているといえるでしょう。同時にゴジラの物語は、不安と怖れの源に勝利し、平安な生を回復する生き方へと私たちを誘います。つまり、そこには、ゴジラを制作した人たちの戦争に断固反対し、平和を願う熱い情熱が感じ垂れます。。その意味で、初代ゴジラは強いメッセージ性を持つ啓示的作品であると言えます。そして、前作の『シン・ゴジラ』は東日本大震災を彷彿とさせるリアリズムある怖れと不安を見事に物語化しています。
 「怖れ」というのは、私たちの生活の様々な場面に顔を出します。そして、「わたしたち」を言いようのない不安に陥れます。もちろん、その不安が何から起こっているのかという不安の原因がわかれば、その不安の原因を解決さえすれば不安は取り除けます。しかし、心の奥底にある言いようのない不安は、その原因が何であるかわかりません。ですから、「わたしたち」は、「わたしたち」自身でその不安を解消することはできません。「わたしたち」以外の誰かにより頼むことによってしか、この「わたしたち」の心の奥底に潜む不安を取り除くことができないのです。
 その言い知れぬ不安の中で生きて行く力、それは絶対者である神を信じ、神に自分自身をゆだねて生きて行く以外に道はありません。神の絶大な手によって守っていただくことで、私たちは初めて、この不安から逃れることができるのです。
 それに関することを、私に友人岩本遠億牧師が「恐れる時も」という4分弱の短いメッセージで伝えています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、「366日元気の出る聖書の言葉」のホームページの▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。そのアドレスの記載を岩本牧師の御許可をいただいて掲載していますの、岩本牧師の書とメッセージもあわせてお聞きください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bkf05?fbclid=IwAR3HIFSuT6suUapXpah7ikEae4L2zX3RRYb8ANZq4kVgVTDNahuYLmcrrd4&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXBWwuCMBQA4F%2BUo5SKIGKQkSE%2BLBPt7exiGzM97YLlr%2B%2F7dAjoD4R4nILpfzAKPbnVrHgCiMlgRksU4WpNwyJv35yfei4GI4%2FFTFl6LS73WG99fAC2CHpnbA4qKzdLmzLW8T2tnp%2FMNq%2BmPlegY1e%2BhXMy%2BwMq1QIkdQAAAA%3D%3D

2023年11月7日火曜日

礼拝説教「神は共感する」

 23年11月第一主日召天者記念礼拝説教「神は共感する」    202311.5

旧約書:申命記4章23節24節
福音書:ヨハネによる福音書11章28節から37節
使徒書:ローマ人への手紙12章9節から15節

 今日は、召天者記念礼拝です。一年に一度、こうして教会員の方で亡くなられた方、また教会員のご家族の方で亡くなられた方のお写真を飾り、亡くなられたことを偲びつつ礼拝の時を持っています。

 もちろん、故人を偲ぶということと神を礼拝するということは直接的に結びつくものではありません。しかし、亡くなられた方々のことを偲び、亡くなられた方々のことを思うつつ、残された私たちが今を生きるということは、信仰者としての歩みとしてはとても大切な事なのです。なぜならば、聖書は、先ほどお読みした使徒書の中のローマ人への手紙12章15節に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあるからです。もちろん、この言葉はローマにある教会の信徒の方に向かって語られた言葉であり、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉は、生きてそのローマの教会に集っている人々の交わりを意識してものです。

 しかし、その根底には、喜びや悲しみに共感する心というものが見据えられている。つまり、神を信じる者は、人に対して共感する心を持つことが大切なのだと言うのです。神様は、私たちに共感する心を求めておられる。その意味で、亡くなられた方を偲ぶということは、亡くなられた方を思い、その生前の思いの心を馳せるということだと言えます。それは、亡くなられた方の生前の思いの共感すると言うことでもあるのです。だからこそ、この礼拝という場で、個人のことに思いを馳せ、その心に共感するという心をもって、神の前にでて、神を信じ神を礼拝するということにふさわしいと思うのです。

 そこで共感ということですが、共感とは、共に同じ思いを感じるということです。相手の思いに自分の思いを重ねるということが共感と呼ばれる者であろうと思います。まさに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉が、そのことを表している。ところが、実際は、本当に相手の思い感じているものと同じように感じているか、あるいは感じられるかというと、まったく同じように感じることなどいうことは、できない者です。

 例えば、深く悩み・苦しんでいる人に「その苦しみはよくわかるよ」などと声をかけますと、「本当に私の痛みや苦しみなどわかるものか」と反発を感じられることがあります。その反発はもっともなことです。私たちは、本当にその人の痛みや苦しみをおなじようにかんじることなどできないのです。
 しかしそれでも、聖書は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と言うのです。共感しなさいと言うのです。それは、あなたが経験した痛みや苦しみ、悩みや悲しみの経験、その経験をもって、あなたの前にいる悩み苦しむ人、悲しみ心痛めている人の思いを推し量り、その苦しみや悲しみにあなたの心を共鳴させなさいということです。

 それは、相手の方の中に、かつてのあなたの悩み苦しんだ姿を見なさい。かつてあなたが痛み悲しんだ姿を、相手の方の姿の中に見いだしなさい。そして、そこに見いだしたかつてのあなたの悩み苦しんだ姿を通して、相手に方の姿をあなたの心の中に見いだしなさいと言うことなのです。

 相手の中に自分姿を見、自分の中に相手の姿を見るとき、そのとき、「わたし」と「あなた」との関係は、決して切り離すことのできない一つに結ばれているのです。そして私たちが、ここにお写真を飾られている方のことを思い、その方の中に、「あなた」の姿を見いだし、また「あなた」の中にその方のお姿を見ることができるならば、そこには「あなた」とお写真の方とは一つに結ばれており、その方と「あなた」は共感しているのです。聖書の言う共感とは、そのようなものです。

 なぜならば、神は共感する神だからです。旧約聖書において、神はご自分を妬む神であると言われることがあります。全部で7回、出エジプト記で2回、先ほどお読みした申命記4章24節を含んで申命記で3回、ヨシュア記が1回とナホム書が1回です。

 この妬む神という表現は、神の民の心が神から離れ、偶像礼拝という過ちに陥ったことを想定して語られています。つまり、イスラエルの心が神から離れていくとすれば、神は妬む、妬むほどに神は人間を愛する神なのです。だから、神は人間が虐げられ苦しめられていると黙ってはいられない。苦しんでいる人の苦しみに共感し、悲しんでいる人の悲しみを共感し、はらわたがよじれるほどに神は痛まれるのです。

 さきほど、ヨハネによる福音書の11章28節以降をお読みしましたが、この箇所はイエス・キリスト様と親しくしていたマルタとマリヤの姉妹の兄弟ラザロが亡くなった出来事が記されている箇所です。この箇所で、ラザロの死を嘆き悲しむマリヤを見て、イエス・キリスト様が激しく感動し(他訳・憤り)心を騒がせてたとあります。神が苦しんでいる人とともに共感して苦しみ、悲しんでいる人と共に共感して悲しむように神の御子であるイエス・キリスト様もまた、マリヤと共に悲しむのです。

 この神の共感は、神のご性質です。そして私たちはその神の御性質を神の像(かたち)をとし受け継ぐものとして神から創造されているのです。そのような私たちだからこそ、私たちは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」となるようにと求められているのです。そして私たちはそのために必要な共感する能力が与えられている。
 その共感という能力をもちいて、私たちも私たちの身近にいる人々と共感できるものになっていきましょう。そして、今日、今ここでは、ここにお写真が飾られている方々のことを思い、偲び、心を共感させましょう。それは、私たちと、ここにお写真が飾られている方々との絆を、より深く結びつけてくれるのです。

 今、しばらく静まりの時を持ち、私たちに共感する能力を与えてくださった神を見上げつつ、ここにお写真が飾られている方々のことを思いましょう。静かに目を閉じ静まりの時を持ちます。


弱さを誇ろう

 この世界の中をぐるっとみわたしても、完璧な人間、完全な人間などいません。私たち人間は、どこかに弱さというものを持っている者です。神の御子であるイエス・キリスト様でさえ、弟子たちと一緒に、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で有名な最後の晩餐の時を終えられ、十字架に架けられて死なれるであろうと思われる状況が来たときには、「私は死ぬほど苦しい」といって、苦しみ悩みながら「父よ、できることならばこの杯を私から取ってください」と祈っているのです(新約聖書・マタイによる福音書)。それは、人となられた神であるとしても、人となられた以上、人間が負う弱さを共に負ってくださったからです。
 私たちは弱さを嫌います。ところがパウロと言う人はギリシャにあるコリントと言う町にできた教会の信徒宛に書いた手紙(新約聖書・コリントの信徒への手紙2)で「私は弱さを誇る」と言っているのです。
 それは、神様と言うお方は、私たちの弱いところに目を注がれるからです。そして弱さを持ち、その弱さの上に悩み苦しむ人を憐み、その心に溢れるほどの愛を注ぎ、弱さに中にあっても、その弱さの中で生きて行く力を与えてくださるからです。
 先ほどの最後の晩餐の後に、死ぬほど苦しいと言って、弱さの中にある自分をさらけ出したあとには、敢然と立ちあがり、十字架に死に向かって歩み始められたのです。それは、弱さの中にあって神から力が与えられたからです。
 神様は、弱さの中にある人に目を注いでおられます。弱さの中にある者、虐げられている者を決して忘れてはいないのです。むしろ、そのような人々を顧み、絶えずその人々のことを思い、その人たちが弱さの中にあっても、生きて行くことができるように、その心に力を注ごうとしておられるのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が「神の重大関心事」という3分程度の短いメッセージで、そのことを語っています。岩本牧師のメッセージは、下記のアドレスをクリックし、『366日元気の出る聖書の言葉』のホームページに行き、「神の代々の関心事」と言うところにある▶マークをクリックすると聞くことができます。これは、岩本牧師の同名の著書の中にある文書を岩本自身が音声化したもので、岩本牧師のご承認をいただいて、ここに掲載しています。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bin31?fbclid=IwAR3p5Qp9xlPLUevOXdz_LwYZeZkN1Dpk7lzmflXaqVU2w4Y-ZrP4FJQCkiE