2023年11月10日金曜日

差別と区別

 「差別と区別」

 最近、私の周辺では差別と区別という言葉をよく聞きくようになりました。それは人種差別の問題であったり、性的少数者の人たちへの差別問題であったりと様々です。そのような中で、これ「差別ではなく区別だ」と言う言葉を耳にすることがあります。それは、差別の問題には、ほとんどすべてと言っていいほど「差別する者と差別される者」という構造があるからです。
 そのような中で「差別する者」といわれると、極めて聞こえがよろしくありません。それは誰もが差別は良くないことだと思っているからです。
だから、「差別をしている」と言われたくないので「差別ではなく区別をしているのだ」と言うのでしょう。しかしそれは、一種の詭弁のようなものですが、ある種、差別と言う問題の本質をついている言葉でもあります。というのも、差別という事が起こるその根底には、人を肌の色や、国籍、性別や性的指向性、あるいは能力によって分類して区別するという事がありからです。そしてその区別にレッテルを張ることで差別が起こるのです。
 人を分類して区別すると言うのは、一見すると妥当性があるかのように思えますが、極めて乱暴で大雑把な行為です。なぜならば、私たち人間は、ある特徴や能力によってひとくくりにすることが難しいほど多様性に富んでいるからです。それこそ、ひとり一人が名前を持ち、みんな違っているのです。そのような個性を持ち、特徴を持ち、持っている能力も一人一人違う「わたしたち」を、ある一つの特性をもってひとくくりに分類し区別するという事自体、極めて乱暴なことであると言えます。
 昔聴いた話ですが、ある保育園では、毎月一回、その月に誕生日を迎える子どもたちのためにお誕生会を行っていたそうです。ところがある時、ひとりの子供の親御さんから、「確かにその月に生まれたのだけれど、生まれた日は違う。子供が生まれた人と違う日にお誕生会をするのはおかしい。生まれた日にお祝いをして欲しい」という申し出があったそうです。
 私は、その話を聞いた時に、そんなことしたら保育園の先生の負担が大きくなってします。ただですら保育の現場は大変なのにもっと大変になってしまうと、そう思いました。ところがその申し出を受けた保育園では、色々と考えて、その親御さんの申し出を受け入れて、園児一人一人が生まれた日に、その子のお誕生会をするようにしたそうです。もちろん、そうすれば保育園の先生方の負担は増えます。しかし、園児のことを考えて、大変にはなるけれど、それでも、園児一人一人が、自分が生まれてきたことが喜ばれているのだという事感じることができるようにと、ひとり一人のお祝いをしてあげることにしたと言うのです。
 私は、その話を聞いてた時に、その保育園の先生方は、本当に園児一人一人のことを大切にして愛しているのだなと思いました。けっして、その円に集う子どもたちを、何かの括りでまとめて分類し、区別するのではなく、ひとり一人の名を呼んで愛し慈しんでいる。そして、それは神様が私たちに注いでいる眼差しに通じるものです。
 神様は、私たちの何かで、それこそ性別やは肌の色といった身体的特徴で私たちを分類した区別したり、何ができて何ができないかと言う能力によっても私たちを分類し区別しないのです。当然、分類や区別しない以上差別などおこりません。神様は、わたしたちひとり一人の個性や特性を大切に思い、ひとり一人を愛し慈しんでくださっているのです。もちろん「あなた」もです。神様は、「あなた」を愛し、「あなた」を慈しみ。「あなた」の名を呼んでおられるのです。
 そのことを、私の友人の岩本遠億牧師が、「愛は分類しない」という五分弱の短いメッセージで語ります。下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というホームページに行き、「愛は分類しない」の▶マークをクリックしてください。なおこのメッセージのアドレスは、岩本牧師の御許可をいただいて掲載しています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bms0b?fbclid=IwAR1rJ0fQTwa6j4Se3SPOcI20kgW1w91f_gaMUxma_usreXb1NhZTNKcgZQQ

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