2023年11月7日火曜日

礼拝説教「神は共感する」

 23年11月第一主日召天者記念礼拝説教「神は共感する」    202311.5

旧約書:申命記4章23節24節
福音書:ヨハネによる福音書11章28節から37節
使徒書:ローマ人への手紙12章9節から15節

 今日は、召天者記念礼拝です。一年に一度、こうして教会員の方で亡くなられた方、また教会員のご家族の方で亡くなられた方のお写真を飾り、亡くなられたことを偲びつつ礼拝の時を持っています。

 もちろん、故人を偲ぶということと神を礼拝するということは直接的に結びつくものではありません。しかし、亡くなられた方々のことを偲び、亡くなられた方々のことを思うつつ、残された私たちが今を生きるということは、信仰者としての歩みとしてはとても大切な事なのです。なぜならば、聖書は、先ほどお読みした使徒書の中のローマ人への手紙12章15節に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とあるからです。もちろん、この言葉はローマにある教会の信徒の方に向かって語られた言葉であり、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉は、生きてそのローマの教会に集っている人々の交わりを意識してものです。

 しかし、その根底には、喜びや悲しみに共感する心というものが見据えられている。つまり、神を信じる者は、人に対して共感する心を持つことが大切なのだと言うのです。神様は、私たちに共感する心を求めておられる。その意味で、亡くなられた方を偲ぶということは、亡くなられた方を思い、その生前の思いの心を馳せるということだと言えます。それは、亡くなられた方の生前の思いの共感すると言うことでもあるのです。だからこそ、この礼拝という場で、個人のことに思いを馳せ、その心に共感するという心をもって、神の前にでて、神を信じ神を礼拝するということにふさわしいと思うのです。

 そこで共感ということですが、共感とは、共に同じ思いを感じるということです。相手の思いに自分の思いを重ねるということが共感と呼ばれる者であろうと思います。まさに、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉が、そのことを表している。ところが、実際は、本当に相手の思い感じているものと同じように感じているか、あるいは感じられるかというと、まったく同じように感じることなどいうことは、できない者です。

 例えば、深く悩み・苦しんでいる人に「その苦しみはよくわかるよ」などと声をかけますと、「本当に私の痛みや苦しみなどわかるものか」と反発を感じられることがあります。その反発はもっともなことです。私たちは、本当にその人の痛みや苦しみをおなじようにかんじることなどできないのです。
 しかしそれでも、聖書は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と言うのです。共感しなさいと言うのです。それは、あなたが経験した痛みや苦しみ、悩みや悲しみの経験、その経験をもって、あなたの前にいる悩み苦しむ人、悲しみ心痛めている人の思いを推し量り、その苦しみや悲しみにあなたの心を共鳴させなさいということです。

 それは、相手の方の中に、かつてのあなたの悩み苦しんだ姿を見なさい。かつてあなたが痛み悲しんだ姿を、相手の方の姿の中に見いだしなさい。そして、そこに見いだしたかつてのあなたの悩み苦しんだ姿を通して、相手に方の姿をあなたの心の中に見いだしなさいと言うことなのです。

 相手の中に自分姿を見、自分の中に相手の姿を見るとき、そのとき、「わたし」と「あなた」との関係は、決して切り離すことのできない一つに結ばれているのです。そして私たちが、ここにお写真を飾られている方のことを思い、その方の中に、「あなた」の姿を見いだし、また「あなた」の中にその方のお姿を見ることができるならば、そこには「あなた」とお写真の方とは一つに結ばれており、その方と「あなた」は共感しているのです。聖書の言う共感とは、そのようなものです。

 なぜならば、神は共感する神だからです。旧約聖書において、神はご自分を妬む神であると言われることがあります。全部で7回、出エジプト記で2回、先ほどお読みした申命記4章24節を含んで申命記で3回、ヨシュア記が1回とナホム書が1回です。

 この妬む神という表現は、神の民の心が神から離れ、偶像礼拝という過ちに陥ったことを想定して語られています。つまり、イスラエルの心が神から離れていくとすれば、神は妬む、妬むほどに神は人間を愛する神なのです。だから、神は人間が虐げられ苦しめられていると黙ってはいられない。苦しんでいる人の苦しみに共感し、悲しんでいる人の悲しみを共感し、はらわたがよじれるほどに神は痛まれるのです。

 さきほど、ヨハネによる福音書の11章28節以降をお読みしましたが、この箇所はイエス・キリスト様と親しくしていたマルタとマリヤの姉妹の兄弟ラザロが亡くなった出来事が記されている箇所です。この箇所で、ラザロの死を嘆き悲しむマリヤを見て、イエス・キリスト様が激しく感動し(他訳・憤り)心を騒がせてたとあります。神が苦しんでいる人とともに共感して苦しみ、悲しんでいる人と共に共感して悲しむように神の御子であるイエス・キリスト様もまた、マリヤと共に悲しむのです。

 この神の共感は、神のご性質です。そして私たちはその神の御性質を神の像(かたち)をとし受け継ぐものとして神から創造されているのです。そのような私たちだからこそ、私たちは「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」となるようにと求められているのです。そして私たちはそのために必要な共感する能力が与えられている。
 その共感という能力をもちいて、私たちも私たちの身近にいる人々と共感できるものになっていきましょう。そして、今日、今ここでは、ここにお写真が飾られている方々のことを思い、偲び、心を共感させましょう。それは、私たちと、ここにお写真が飾られている方々との絆を、より深く結びつけてくれるのです。

 今、しばらく静まりの時を持ち、私たちに共感する能力を与えてくださった神を見上げつつ、ここにお写真が飾られている方々のことを思いましょう。静かに目を閉じ静まりの時を持ちます。


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