2024年2月28日水曜日

あたりまえが嬉しくて

  最初に新約聖書ペテロの手紙第Ⅰ・五章七節の言葉を記します。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。」

この、聖書の言葉は、神を信じ、神により頼んで生きることの大切さを私たちに教えています。それは、神が私たちの事を心にかけ、私たちのことを心配して下さっているからです。だからあんまり心配しなくていいよというのです。

ずいぶん昔の話ですが、ある方が、こんなこと言っていました。「今まで自分が当たり前のことのように思っていたことが、実は神様の大きな恵みであったと言うことに気が付きました。そう思うと、毎日の生活の中には、感謝することが一杯あるんですね。」
 その方は、当時まだ二十歳そこそこの、可愛らしいお嬢さんです。実は、彼女のお父さんが、不慮の事故に会い、生死の境目を通ったんですね。幸い一命は取り留めました。でも、助かったあとには、厳しい現実がまっていました。というのも、お父さんは、事故の影響で寝たきりになってしまい、障害が残り十分に言葉を交わすことが出来ない状況になってしまったのです。
 それこそ、一家の大黒柱が倒れたのです。生活の不安もあったでしょう。また、話しかけても反応も無い、意思の疎通もままならない中での看病が続いたのです。ですから、不安やあせりといった様々な思いで、心が思い煩うことのあっただろうと思うので¥

 でも、そんな厳しい看病を続けていく中でも、お父さんの少しの変化、すこし表情がでてきたとか、チョットだけ手を動かせるようになったといったことが、彼女にはとても嬉しかったそうです。そして、私たちが何気なくしている字を書くとか、話をするとか、呼吸をするといったことが、本当は素晴らしい事なんだって気づいたそうです。
 そしたら、普通に生きていることが、実は神の大きな恵みなんだと思ったって言うんですね。平凡な毎日の生活の中で、私たちと共にいて守り支えて下さっている神に気づいたんです。そのことを、話すお嬢さんの顔は、笑顔で本当に輝いていました。

もちろん、生活の中に不安や恐れ、思い煩いと言ったことが全くないというわけにはいかないでしょう。けれども、私たちが、一日一日を生きていると言うことの中にある神の恵みに気付いたならば、その神の恵みが、不安や恐れ、思い煩いを包み込んでくれます。その平凡な生活の中にある神の恵みに気付いたならば、私たちは、一日一日感謝をしながら生活できるだろうと思うんです。彼女の笑顔がそれを証明しています。

 一日一日を感謝して過ごせたら、すばらしいですよね。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです」と言われる聖書の神は、あなたを、そのような感謝しながら生きることの出来る人生に導いておられます。ですから、どうぞ、この神を、あなたにも信じていただきたいのです。

2024年2月27日火曜日

人を惜しむ神

 人を惜しむ神

旧約聖書にヨナ書というのがあります。このヨナ書には、ヨナという預言者が、ニネベの町に神の言葉を伝えた出来事が書かれています。ニネベはアッシリアと呼ばれる、紀元前の中近東にあったの首都だったのですが、このアッシリア帝国は、冷酷で暴虐な国で、周りの国々を侵略し、人々を虐げたり奴隷にしたりいました。ですから、周囲の国々からは恐れられていましたし、嫌われても居ました。まっ、悪の帝国って感じですかね。

 そんなわけで、神はこのアッシリア帝国の首都であるニネベを滅ぼそうとお考えになったのです。それで、ヨナに「ニネベの町にいって、神があなた方が犯した悪のために、四十日後に、この町を滅ぼされる」とそう伝えなさい。」とそうお命じなさったのです。
 ヨナはイスラエルの人です。イスラエルの国にとってアッシリアという国は大敵です。そんなわけで、ヨナは、如何に神の命令であっても、ニネベの町に行きたくありませんでした。そこですったもんだがあったのですが、結局、神に命令に従ってニネベの町に行くことになりました。このすったもんだの話も、実におもしろいものですので、是非、聖書を手にとってお読みただければと思いますが、とにかく、ヨナはニネベで「あなた方が犯した罪のために、神は、四十日後に、この町を滅ぼされる。」と告げ知らせました。

 ヨナは、ニネベの人たちに神の裁きを伝えた後、丘の上に座り込んで、神の裁きが下されるのを見ようと、じっと見守っていました。あんな冷酷で暴虐の限りを尽くしてきた国の人間なんてみんな滅んでしまえばいいって思っていたからです。ところが、いくら待ってもニネベの町に神の裁きは下されません。実は、ヨナが伝えた神の裁きの話を聴いて、ニネベの町の人たちは、自分の犯した罪を恥、悔い改めたのです。それで、神はニネベの町を滅ぼすのをおやめになったのです。憐れまれたんですね。

 でも、あんな冷酷で周りの国に迷惑をかけた連中なんて滅んでしまうべきだと思っているヨナの腹の虫は収まりません。それで、ヨナは神に食ってかかるんですね。「なんでアッシリアの人々のことを滅ぼさないのか。何であんな奴らに憐みを書けるのか」と言った感じだったでしょう。そんな、ヨナに、神は自分の心の内をお話しになります。神はどんなに悪人であっても、その一人一人を惜しんでおられるというのです。だから、ニネベの町にいる一人でも失いたくなくて、ヨナを送って、神の裁きを伝えさせたのです。そうやって、ニネベの人たちが、罪を悔い改め神に立ち返ることを期待なさったのです。

 惜しむ心、それは大切に思う心です。神は、ニネベの町の人たち大切に思っていたのでそのように、ニネベの人たちを大切に思い、惜しむ神の心には、ニネベの町にいる一人一人の顔が思い浮かんでいたんだろうと思います。この人を惜しむ神の心には、ニネベの町の人たち同じように、あなたの顔が思い浮かばれています。神は、あなたのことを大切に思っているのです。だから、決してあなたを失いたくないと思っておられるのです。

 私たちはニネベの人たちのように冷酷で悪い人ではないかも知れません。でも、何らかの形で周りの人たちに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせていることもあるだろうと思います。そんな私たちのことを、大切に思い、心に欠けていて下さっているのです。
 ニネベの人たちには、ヨナが遣わされました。ヨナを通して神の裁きの言葉が伝え、ニネベの人たちに罪を悔い改めさせ、神に立ち返らせようとしたのです。

同じように、今日の私たちには、教会が遣わされています。そして、聖書があります。聖書は、神の言葉です。神は、聖書を教会にお託しになり、私たちの大切に思い、私たちの罪を赦そうとする神の言葉を語らせておられるのです。ですから、ぜひ教会に行って、教会に託されたあなたを大切に思いっておられる神のメッセージに耳を傾けていただきたいと思います。もちろん、わたしたちの教会に来てくださるのであれば、大歓迎です。

2024年2月26日月曜日

崩れ落ちた神殿

 新約聖書のマタイによる福音書24章1節2節にこういう話が出ています。それは、イエス・キリスト様がエルサレムにある神殿に行かれた時の話です。イエス・キリスト様はその立派な神殿を見て、こう言われたのです。

「この神殿の石の一つでもくずされずに、そこに他の石の上にのこることもなくなるであろう」

 この言葉は、エルサレムの神殿が、全て破壊されるであろうという預言です。そして、その預言通り、紀元七十年にエルサレム神殿はローマ帝国によって、粉々に壊されてしまったのです。けれども、この言葉は、単に歴史的出来事をイエス・キリスト様が預言し、そしてそれが成就したと言ったことだけを私たちに教えるものではありません。もっと大切なことを教えてくれていると思うんですね。それは、目に見えるものに頼よるのではなく、神に頼らなければならないと言うことです。

 エルサレムの神殿は、ユダヤの人にとっては、自分たちが神の民であるということの証であり、誇りでもありました。また、当時のユダヤの人々はエルサレムに神殿がある限り、自分たちは大丈夫だと思っていたようです。そういった意味では、神殿が自分たちの民族がよって立つ、より頼むべき存在になっていたのです。
 けれども、そのより頼む神殿も、もともとは人の手で作られたものに過ぎません。人の手で作られた形あるものは、いつかは壊れてしまう儚いものです。ですからキリストは、神殿が破壊される預言を通して、「人が作り上げた目に見えるものに頼らず、目には見えないかも知れないけれど、神を信じ、神に頼らなければならないよ」と言うのです。

 現代の日本に生きる私たちは、エルサレムの神殿を頼って生きているわけではありません。けれども、もっと違った形で目に見えるものに頼っているのではないでしょうか。例えば、お金です。お金さえあれば大丈夫だといった、お金信仰みたいなものが、心のどこかにないだろうかって思うんですがどうでしょうか。
 けれども、そういったお金によりたのみ、お金を第一にする社会が、決して住みよい社会ではないということは、最近の世相をみれば、あきらかです。それじゃ、「誰か頼るべき人を見つけて、「といっても、人間の心だってあてにはなりません。それじゃ国といっても、その国はもっと頼りになりません。

 だからこそ、神を信頼し、神を頼りなさいというのです。神は永遠の存在です。そして真実なお方です。ですからいつでも、どんなときでも変わらない確かなお方なのです。この神が、あなたのことを顧みて下さっているのです。

 ですから、私は「あなた」に、ぜひこの神を信じ、この神を信頼して頂きたいと願います。このお方こそが、私たちが生きていくうえで揺るぎのない土台なのです。旧約聖書の中に次のような言葉があります。

 「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。」

旧約聖書イザヤ書41章10節にある、永遠に真実な神の約束の言葉です。

2024年2月25日日曜日

24年2月第四主日礼拝説教「神の歴史に参与する人々」

 24年2月第四主日礼拝説教「神の歴史に参与する人々」     2024年2月25日

旧約書:ゼカリヤ書9章9節、10節
福音書:ヨハネによる福音書12章1節から20節
使徒書:ピリピ人への手紙2章1節から11節

今朝の聖書箇所は、先週の礼拝説教と同じヨハネによる福音書12章1 節から20節までですが、先週はラザロの姉妹であるマリアという女性が、イエス・キリスト様の足に高価な香油を塗り、自分の髪の毛でそれをぬぐい取ったという出来事の意味と意義に目を止めて、お話をさせていただきました。
 そこでお話しさせていただいたことは、このヨハネによる福音書を記した聖書記者は、しばしば、取りあげたエピソードや言葉に二重の意味を持たせて福音書を書いてており、このマリアという女性が、イエス・キリスト様の足に香油を注いだという行為にも、二つの意味があるということでした。
 一つは、ご自身の死を予感なさっていたイエス・キリスト様が言われたように、イエス・キリスト様の葬りのために油注ぎだということです。そしてもう一つの隠された意味が、神の王国の王に就任するための油注ぎの儀式です。そしてその王に就任する油注ぎの儀式は、イエス・キリスト様のエルサレム入城の出来事と密接に関わっているのです。すなわち、イエス・キリスト様は、油注がれた王(この油注がれた王ということを、ヘブル語ではメシア、ギリシャ語ではキリストという)として、神の都に入城なさったのです。

 そのエルサレム入城の様子が、今日の聖書箇所の後半部分に記されている部分です。そして今日の礼拝説教は、そのエルサレム入城という出来事に焦点をあてたいと思っています。そこでエルサレム入城ですが。イエス・キリスト様はエルサレムに子ロバにのって、人々が「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に。」と歓喜の声をもって出迎える中、木の枝が敷き詰められた道を通って、エルサレムに入城します。
 この「ホサナ」という言葉は、ヘブル語で「おお救い給え」という意味であると言われます。ですから、この「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」という言葉から、人々は、イエス・キリスト様に、自分たちを支配しているローマ帝国から解放し、救い出し、ローマ帝国に代わって世界を支配しるイスラエルの王国の王としてダビデの王家を復興することを期待し、迎え入れていることがわかります。
 しかし、実際のイエス・キリスト様は子ロバに載ってやってくるのです。しかも、イスラエルという民族だけの王としてではなく、世界の王として来られたのです。しかし、世界の王が、なぜ子ロバなのでしょうか。

 それについては、多くの注解者や説教者によって語られるように、イエス・キリスト様は平和の王としてこの世界に来られたからだと言えるでしょう。けっして、武力や力で神の王国を打ち立て、権威と力で神の王国を支配するためではないのです。そのことをあらわすために、イエス・キリスト様は子ロバに乗ってエルサレムに入城なさったと言えます。
 子ロバは、力の弱い、無力な存在です。イエス・キリスト様はそのような無力で力ないものとしてエルサレムに入城なさる。そしてそれこそが、平和をもたらす王の姿なのです。

 みなさん、先日私は、クリスチャン新聞から、韓国の李信健という神学者が書いた『こどもの神学―神を「こども」として語る』という本の書評を書いてくれないかという依頼を受け、早速、その『こどもの神学』を読み、先日,800字ほどの短い書評を書いて、その原稿を送りました。
 この本の優れたところは、古代から現代にいたるまで社会の構造は父権主義に基づく男性社会における力と権力によって支配されている世界であることを明確に指摘している点にあります。そして、もし神さまが、神さまの全知・全能の力を発揮して、力でこの世界を支配する支配者を打ち破り、力と神の権力によってこの世界を支配するならば、人間は、相変わらず力と権力を求めて生きていく。だからこそ、神さまは、弱く力もなく、権力を持たず、子ロバに乗ってエルサレムに入城し、十字架の上で殺されていくイエス・キリスト様を通して、ご自身を弱く、権力のなく、無知な子どもの顔としてご自身を表すのだというのです。それこそ、先ほどお読みしました新約聖書へブル人への手紙2章の言葉に

6:キリストは,神の形でありながら,神と等しくあることに固執しようとは思わず7:かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を、お与えになりました。

とありますように、神の御子が、神であられることに固辞するのではなく、へりくだって人となり、十字架の死を経験することで、私たちの経験する試練や苦しみを負ってくださったのです。

 そのキリストは「自分を無とせられた」と在ります。それは「キリストの謙卑(けんぴ)」とも「無化」ともいわれますが、要は、力もなく、無能力で、無知な存在とされたというのです。そうやって、自らを「無化」されることで、権力によらず、力によらず、ただ神により頼む小さ  き弱い存在である王がゆえに、自分自身で勝ち得た自分の栄光ではなく、神から与えられた神の栄光を担うものとなるという、「力と権力とが横行するこの世」という世界とは真逆の神の王国の世界をお示しになられたのです。

みなさん、イエス・キリスト様は、ご自身を強く、力のある権威ある権力者になることを望まれませんでした。いつも、弱く、貧しく、権力なき支配者として、弱く虐げられた人々と共に生きられたのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、「この世」で最も弱く小さな「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われるのです。そしてそのようなお方であるがゆえに、イスラエルの国を律法の権威で宗教的支配をしてた指導者層のパリサイ派の人々や祭司長によって構成されたサンヘドリンの最高法院から嫌われ、命を狙われるのです。

 そのような背景の中で、イエス・キリスト様は子ロバに乗って平和の王としてエルサレムに入城するのです。この時点で、イエス・キリスト様と人々の思いの間に食い違いがあることがわかります。武力で神の王国を建てあげ、神の力と権力によって神の民である自分たちが支配者となり世界を願う群衆と、平和をもたらし、そのような武力や権力ではなく、愛と恵みで支配する神の王国を築こうとする神や、その神さまの思いを実現しようとするイエス・キリスト様の間には、ボタンの掛け違いとなる食い違いが生まれているのです。
 このボタンの掛け違いが、最後に群衆の最後にイエス・キリスト様を十字架にかけることを求める声になるのですが、イエス・キリスト様の弟子も、このときにはそのことがわからなかったようです。

 けれども、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を経験した後に、振り返ってみたときに、初めて、このエルサレム入城の出来事が、ゼカリヤ書9章9節の

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあ なたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。

という言葉に結び付いて、「ああ、あのイエス・キリスト様がエルサレムに入城なさった出来事は、旧約聖書のゼカリヤ書が伝えていた出来事であり、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事は、罪と死に対する勝利の出来事だったのだ」と理解したと考えられるのです。だからこそ、(16節で)

弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した。

というのです。この聖書記者の証言は、「人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した」というのです。

 みなさん、イエス・キリスト様の弟子たちですら、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を経験したのちに、振り返ってみて初めて、あのゼカリヤ書の記事とイエス・キリスト様の出来事のつながりということに気が付いたのです。ましてや、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」といって、イエス・キリスト様を迎えた人々は、自分たちがゼカリヤ書にある神の言葉を実現しているなどと考えてはいなかったでしょう。
 彼らは、気づいてはいなかったでしょうし、知りもしなければ自覚もしなかったと思います。しかし、彼らが自覚していなくても、彼らも確かに神の救いの業に参与し、神の救いの歴史を作り上げる働きを担っているのです。

 たとえばそれは、12章17節18節にあるイエス・キリスト様がラザロをよみがえらせたといううわさを聞いて、イエス・キリスト様を見ようとして集まって来た人々に、そのときのことを語り聞かせたイエス・キリスト様がラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆もそうです。そうやって、イエス・キリスト様のことを語り聞かせることで、多くの人がイエス・キリスト様を信じるものとなっていくという神の救いの歴史を担っているのです。
 そして、その神の救いの歴史は、確かに私たちひとり一人を巻き込みながら、そして得わたしたちひとり一人をその神の救いの歴史に参与させながら、歴史を前へ前へと推し進めているのです。だからこそパリサイ派の人々は、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」というのです。この箇所を聖書協会共同訳は「見ろ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男に付いて行ったではないか」と訳していますが、確かにギリシャ語言語には「見よ」と訳すべき言葉が入っている。

 そして「見よ」という言葉は、とても大切です。それは、神の救いの業が推し進められているその様を目の当たりに見ることができると言っているからです。そして、その神の救いの業は、弱く、虐げられた者が癒され、慰められ、大切にされていく世界です。もちろん、そうはいっても、現実の世界は未だ、弱い人たちが虐げられ、抑圧され、搾取される世界が、私たちの目の前にあり、私たちはそれを目の当たりにしています。ウクライナの情勢といい、ガザ地区の情勢といい、また子どもたちが虐待されている状況叱りです。

 けれども、そのような状況に中にあっても、私たちは目素見開いて、神の救いの歴史が確かに私たちを巻き込みながら進んでいることを見なければなりません。イエス・キリスト様は、それを見よと言っておられるのです。そして、その事実を見、神の歴史の中に巻き込まれている私たちキリスト者は、イエス・キリスト様が、自ら弱く、無力で無能力なものとなられることで、そのような弱く虐げられ抑圧された人々と共歩まれたように、そのイエス・キリスト様の体なる教会に集う者として、互いの弱さを支え合い、励まし合いながら生きることで、神の救いの歴史を担っていくのです。

2024年2月24日土曜日

捜し物は何ですか

 新約聖書ルカによる福音書十五章八節から十節に、キリストが語られた例え話があります。その話は、おおよそこういった内容です。

ある時、キリストの話を聴こうとして、多くの人が集まっていました。その中に、人々から、律法と呼ばれる宗教上の様々な規則が守れないで、あれはダメな人間だと思われていた人たちがいました。あるいは、自分たちを支配している支配者の手先となって働くな人々から憎まれ、嫌らわれるような仕事をしている人たちもいたのです。

そう言った人を、周囲は罪人と呼んでいました。でも、イエス・キリスト様は、そのような人でも快く受け入れていました。そんなイエス・キリスト様の姿を見て、一部の人は、皮肉を込めて「どうして、イエスという男は、人々が嫌う罪人たちも、快く受け入れるのだろうか」などと批判していました。
 そのような人たちに、イエス・キリスト様はこう言われたのです。「ある人が、銀貨十枚を持っていて、その中の一枚をなくしたら、あかりをつけ、それこそ家をほうきではいてでも、念入りに捜すんじゃないだろうか。そして見つけたら、本当に心から喜ぶだろうと思う。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれるんだよ」と。

「一人の罪人が悔い改めるならば」とイエス・キリスト様は言われますが、この罪人というのは、人々から、ダメな人間だとか、嫌な奴だと言った評価を受けていた人たちです。そして、その罪人が悔い改めるというのは、神さまを信じて生きる生き方に立ち返るということを意味しています。ですから、「一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれる」ということは、人の評価がどのようなものであっても、神さまを信じて生きる者を、神は、喜んで迎え入れて下さるということです

 私たちが、それこそ、家をほうきで掃いてでも捜すものは、役に立つものであるとか、得になるものである場合が多いですよね。それこそ、同じお金でも、一万円札なら、一生懸命捜しますが、一円玉ならきっと捜さないだろと思います。お金としての価値が違うからです。
 けれども、神さまは、自分に役に立つ存在であるかどうか、得な存在であるかどうかは問題ではないのです。それこそ、人からはダメな奴だとか、悪い嫌な奴だと思われ、人からは見放されているような人でも、神は決して見捨てないのです。人からは価値がないと言われている罪人の一人でも、決してあきらめられない高価な銀貨のように価値ある存在だというのです。

 それは、神さまが一人一人の存在を、好き嫌いや損得勘定を抜きにして大切に思っているからです。神さまが人を愛するってそう言うことです。神はすべての人を愛しているのです。愛して大切に思っているからこそ、探し求めているのです。

2024年2月22日木曜日

神の家族になる

 「神の家族になる」

新約聖書マルコによる福音書三章三十一節から三十五節にこんな話があります。ある時、多くの人に話をしていたイエス・キリスト様の所に、イエス・キリスト様のお母さんと兄弟たちが尋ねてきました。そこで、弟子たちは、「お母さんと、兄弟たちが、尋ねてきていますよ」と告げました。するとイエス・キリスト様はこう言ったんです。「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。」

 そして、イエス・キリストの語る言葉を聞こうとして、集まっている多くの人たちを指して、更にこう言われたのです。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 このとき、イエス・キリストは、決して家族のことをないがしろにしたわけではありません。むしろイエス・キリスト様は家族のことを大事に思い、心配なさるお方です。事実、ご自分が十字架にかけられ殺されようとするときに、イエス・キリスト様は、ご自分の弟子であるヨハネに、ご自分の母親のことをよろしく面倒を見てあげて欲しいと委ねているのです。そこには母を思う息子の気持ちが表れています。

 ですから、ここでイエス・キリスト様が「わたしの母とは、だれのことですか。わたしの兄弟とはだれのことですか。ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と言われた意図は、イエス・キリスト様の言葉に耳を傾け効いている人々に、私たちは神と家族になれるんだよと言うことを伝え、教えようというところのにあっのです。

私たちが、神のみこころを行う者となるならば、私たちはみんな神の家族になることが出来るのです。しかし、神のみこころを行う人と言いますが、それは、いったいどのような人のことを言うのでしょうか。ひとことで言うならば、神さまの言葉、イエス・キリストの言葉に耳を傾けて聴く人のことです。イエス・キリスト様の語る言葉、なされる業、その一つ一つが神さまの御心を表しているのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、御自分の話を聴きに集まっている人たちをさして、「ご覧なさい、わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と言われたのです。

 今の私たちは、直接キリストの語る言葉や神の言葉を自分の耳で聴く事はできません。けれども、聖書を通して、イエス・キリスト様というお方を知り、私たちの心に語りかける神の言葉を聴くことが出来ます。聖書は神の言葉だからです。その聖書を読んでいますと、わたしたちを愛して下さっている神のお心が分かってきます。新約聖書ヨハネによる福音書三章十六節にはこう書いてあります。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された、それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

 この言葉にある「世」とは、わたしたち人間社会のことであり、この世界です。もちろん、「あなた」も「わたし」もこの人間社会の中で生き、この世界の内に存在しています。ですから、「あなた」も「わたし」も含まれます。ですから、その「世」を深く愛しているということは、神が「あなた」を深く愛しておられるというのでもあるのです。そして、確かに神は「あなた」を深く愛しておられます。

 先程わたしは、神の家族になれると書きましたが、家族を深く結びつけているのは愛です。わたしの知り合いは、三人の子供を養子として迎え入れ家族として暮しています。彼らを家族として結びつけているのは、三人を我が子として迎え愛している、その愛です。それと同じように、いえ、それに優る大きな愛で、神は私たちを「神の家族として迎えよう」と、聖書を通して、私たちに語りかけておられるのです。この神の語りかける言葉に耳を傾けて聞き、あなたが神を信じ受け入れるならば、あなたは神の家族となることが出来るのです。

2024年2月21日水曜日

神さまが思い描く世

私は、牧師になって以来、長く中世のキリスト者であったエラスムスという人物の研究をしてきました。そのエラスムスの書いた書物の中に『知遇神礼賛』という本があります。日本語にも訳され岩波文庫や中公文庫などから出版されています。

この『知遇神礼賛』は、知遇の神モリスが、自分自身を礼賛するという一人語りで語られているものですが、当時のヨーロッパ社会を見事に風刺した作品として、ヨーロッパ中を笑いに包んだと言われています。知遇というのは、愚かな人のことを言います。エラスムスは、この作品を通して、手、本当にまじめで、知恵ある人が用いられることなく、愚かで傲慢な人間が人の上に立ち威張っている世界を風刺して見せたのです。それを知遇神モリスが、世の中こぞって愚かさのなかにいる。そしてその愚かさをもってわたしを礼賛していると自画自賛しているのです。だからこそ、ヨーロッパ中が、その姿に笑い転げたのです。それは、その当時の現実を見事に、そしてコミカルに描き切ったからです。

エラスムスが描こうとした世界は倒錯です。それは本来ある姿が逆転してしまっている世界です。エラスムスの目には中世の世界は、まさに倒錯した世界に映っていたのです。
しかし、そのような倒錯した世界は、なにも中世だけのことではありません。現代の社会もまた倒錯した社会なのかもしれません。すくなくとも聖書が伝えるイエス・キリスト様が思い描く神の王国の世界から見れば、倒錯した世界であるということができるでしょう。

 例えば、お金は、私たちが物を売り買いすることを仲介するため手段として用いられるものです。ですから、本来ならば、物を買うときの買うものに価値があるのであって、お金そのものに価値があるわけではありません。しかし、現実の私たちの世界では、お金に価値があるかのようになってしまい、お金そのものを手に入れようとしているような倒錯が起こっています。そして、お金を持っている人に価値があるかのようになってしまっています。本来、お金は人間と人間の社会に仕えるものであるのにもかかわらず、人間と社会がお金に仕えるような世界になってしまっているのではないかと思うのです。

 神の王国は、私たちが見ている世界とは正反対の世界です。この世界では強い者弱いものを支配するという構造が多く見られますが、神の王国では強いものが弱いものに仕えると世界です。聖書がしばしば「先の者が後になり後のものが先になる」という表現がありますが、それは、まずもって弱い者、力のないものが、小さいものが優先されるべきであるということなのです。

 神の目から見たとき、私たち人間の世界は神の王国とは正反対の倒錯した世界です。そして倒錯した世界には、憎しみや争いがあり、それが苦しみや悲しみや痛みを産み出します。けれども、その正反対にある神の王国には、憎しみの正反対の愛があり、争いの反対の支え合いがあるのです。もちろん、そういったものが今の現実の私たちの世界に全くないというような暴論を言うつもりはありません。そういったものを私たちの世界の中に見ることができます。それは、私たち人間の心の中に、神に似た「神のかたち」があるからです。

その神に似た「神のかたち」が発動するところに「神の王国」がこの世界の中に細々と顕れています。けれども、神さまは、細々と顕れることで良しとはされていません。それが全世界を覆うほどに広がっていくことを望んでおられるのです。そのために、神さまは、神様を信じ、神さまと一緒に神の王国をこの世界に広げていく人たちを求めておられるのです。「あなた」も、私と一緒に、愛に満ち、互いに支え合いながら弱い者、小さい者、力のないものが優先され、大切にされる世界を築いてくれないかと、神さまは「あなた」に呼び掛けておられるのです。