私は、牧師になって以来、長く中世のキリスト者であったエラスムスという人物の研究をしてきました。そのエラスムスの書いた書物の中に『知遇神礼賛』という本があります。日本語にも訳され岩波文庫や中公文庫などから出版されています。
この『知遇神礼賛』は、知遇の神モリスが、自分自身を礼賛するという一人語りで語られているものですが、当時のヨーロッパ社会を見事に風刺した作品として、ヨーロッパ中を笑いに包んだと言われています。知遇というのは、愚かな人のことを言います。エラスムスは、この作品を通して、手、本当にまじめで、知恵ある人が用いられることなく、愚かで傲慢な人間が人の上に立ち威張っている世界を風刺して見せたのです。それを知遇神モリスが、世の中こぞって愚かさのなかにいる。そしてその愚かさをもってわたしを礼賛していると自画自賛しているのです。だからこそ、ヨーロッパ中が、その姿に笑い転げたのです。それは、その当時の現実を見事に、そしてコミカルに描き切ったからです。
エラスムスが描こうとした世界は倒錯です。それは本来ある姿が逆転してしまっている世界です。エラスムスの目には中世の世界は、まさに倒錯した世界に映っていたのです。
しかし、そのような倒錯した世界は、なにも中世だけのことではありません。現代の社会もまた倒錯した社会なのかもしれません。すくなくとも聖書が伝えるイエス・キリスト様が思い描く神の王国の世界から見れば、倒錯した世界であるということができるでしょう。
例えば、お金は、私たちが物を売り買いすることを仲介するため手段として用いられるものです。ですから、本来ならば、物を買うときの買うものに価値があるのであって、お金そのものに価値があるわけではありません。しかし、現実の私たちの世界では、お金に価値があるかのようになってしまい、お金そのものを手に入れようとしているような倒錯が起こっています。そして、お金を持っている人に価値があるかのようになってしまっています。本来、お金は人間と人間の社会に仕えるものであるのにもかかわらず、人間と社会がお金に仕えるような世界になってしまっているのではないかと思うのです。
神の王国は、私たちが見ている世界とは正反対の世界です。この世界では強い者弱いものを支配するという構造が多く見られますが、神の王国では強いものが弱いものに仕えると世界です。聖書がしばしば「先の者が後になり後のものが先になる」という表現がありますが、それは、まずもって弱い者、力のないものが、小さいものが優先されるべきであるということなのです。
神の目から見たとき、私たち人間の世界は神の王国とは正反対の倒錯した世界です。そして倒錯した世界には、憎しみや争いがあり、それが苦しみや悲しみや痛みを産み出します。けれども、その正反対にある神の王国には、憎しみの正反対の愛があり、争いの反対の支え合いがあるのです。もちろん、そういったものが今の現実の私たちの世界に全くないというような暴論を言うつもりはありません。そういったものを私たちの世界の中に見ることができます。それは、私たち人間の心の中に、神に似た「神のかたち」があるからです。
その神に似た「神のかたち」が発動するところに「神の王国」がこの世界の中に細々と顕れています。けれども、神さまは、細々と顕れることで良しとはされていません。それが全世界を覆うほどに広がっていくことを望んでおられるのです。そのために、神さまは、神様を信じ、神さまと一緒に神の王国をこの世界に広げていく人たちを求めておられるのです。「あなた」も、私と一緒に、愛に満ち、互いに支え合いながら弱い者、小さい者、力のないものが優先され、大切にされる世界を築いてくれないかと、神さまは「あなた」に呼び掛けておられるのです。
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