2024年2月25日日曜日

24年2月第四主日礼拝説教「神の歴史に参与する人々」

 24年2月第四主日礼拝説教「神の歴史に参与する人々」     2024年2月25日

旧約書:ゼカリヤ書9章9節、10節
福音書:ヨハネによる福音書12章1節から20節
使徒書:ピリピ人への手紙2章1節から11節

今朝の聖書箇所は、先週の礼拝説教と同じヨハネによる福音書12章1 節から20節までですが、先週はラザロの姉妹であるマリアという女性が、イエス・キリスト様の足に高価な香油を塗り、自分の髪の毛でそれをぬぐい取ったという出来事の意味と意義に目を止めて、お話をさせていただきました。
 そこでお話しさせていただいたことは、このヨハネによる福音書を記した聖書記者は、しばしば、取りあげたエピソードや言葉に二重の意味を持たせて福音書を書いてており、このマリアという女性が、イエス・キリスト様の足に香油を注いだという行為にも、二つの意味があるということでした。
 一つは、ご自身の死を予感なさっていたイエス・キリスト様が言われたように、イエス・キリスト様の葬りのために油注ぎだということです。そしてもう一つの隠された意味が、神の王国の王に就任するための油注ぎの儀式です。そしてその王に就任する油注ぎの儀式は、イエス・キリスト様のエルサレム入城の出来事と密接に関わっているのです。すなわち、イエス・キリスト様は、油注がれた王(この油注がれた王ということを、ヘブル語ではメシア、ギリシャ語ではキリストという)として、神の都に入城なさったのです。

 そのエルサレム入城の様子が、今日の聖書箇所の後半部分に記されている部分です。そして今日の礼拝説教は、そのエルサレム入城という出来事に焦点をあてたいと思っています。そこでエルサレム入城ですが。イエス・キリスト様はエルサレムに子ロバにのって、人々が「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に。」と歓喜の声をもって出迎える中、木の枝が敷き詰められた道を通って、エルサレムに入城します。
 この「ホサナ」という言葉は、ヘブル語で「おお救い給え」という意味であると言われます。ですから、この「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」という言葉から、人々は、イエス・キリスト様に、自分たちを支配しているローマ帝国から解放し、救い出し、ローマ帝国に代わって世界を支配しるイスラエルの王国の王としてダビデの王家を復興することを期待し、迎え入れていることがわかります。
 しかし、実際のイエス・キリスト様は子ロバに載ってやってくるのです。しかも、イスラエルという民族だけの王としてではなく、世界の王として来られたのです。しかし、世界の王が、なぜ子ロバなのでしょうか。

 それについては、多くの注解者や説教者によって語られるように、イエス・キリスト様は平和の王としてこの世界に来られたからだと言えるでしょう。けっして、武力や力で神の王国を打ち立て、権威と力で神の王国を支配するためではないのです。そのことをあらわすために、イエス・キリスト様は子ロバに乗ってエルサレムに入城なさったと言えます。
 子ロバは、力の弱い、無力な存在です。イエス・キリスト様はそのような無力で力ないものとしてエルサレムに入城なさる。そしてそれこそが、平和をもたらす王の姿なのです。

 みなさん、先日私は、クリスチャン新聞から、韓国の李信健という神学者が書いた『こどもの神学―神を「こども」として語る』という本の書評を書いてくれないかという依頼を受け、早速、その『こどもの神学』を読み、先日,800字ほどの短い書評を書いて、その原稿を送りました。
 この本の優れたところは、古代から現代にいたるまで社会の構造は父権主義に基づく男性社会における力と権力によって支配されている世界であることを明確に指摘している点にあります。そして、もし神さまが、神さまの全知・全能の力を発揮して、力でこの世界を支配する支配者を打ち破り、力と神の権力によってこの世界を支配するならば、人間は、相変わらず力と権力を求めて生きていく。だからこそ、神さまは、弱く力もなく、権力を持たず、子ロバに乗ってエルサレムに入城し、十字架の上で殺されていくイエス・キリスト様を通して、ご自身を弱く、権力のなく、無知な子どもの顔としてご自身を表すのだというのです。それこそ、先ほどお読みしました新約聖書へブル人への手紙2章の言葉に

6:キリストは,神の形でありながら,神と等しくあることに固執しようとは思わず7:かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を、お与えになりました。

とありますように、神の御子が、神であられることに固辞するのではなく、へりくだって人となり、十字架の死を経験することで、私たちの経験する試練や苦しみを負ってくださったのです。

 そのキリストは「自分を無とせられた」と在ります。それは「キリストの謙卑(けんぴ)」とも「無化」ともいわれますが、要は、力もなく、無能力で、無知な存在とされたというのです。そうやって、自らを「無化」されることで、権力によらず、力によらず、ただ神により頼む小さ  き弱い存在である王がゆえに、自分自身で勝ち得た自分の栄光ではなく、神から与えられた神の栄光を担うものとなるという、「力と権力とが横行するこの世」という世界とは真逆の神の王国の世界をお示しになられたのです。

みなさん、イエス・キリスト様は、ご自身を強く、力のある権威ある権力者になることを望まれませんでした。いつも、弱く、貧しく、権力なき支配者として、弱く虐げられた人々と共に生きられたのです。だからこそ、イエス・キリスト様は、「この世」で最も弱く小さな「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われるのです。そしてそのようなお方であるがゆえに、イスラエルの国を律法の権威で宗教的支配をしてた指導者層のパリサイ派の人々や祭司長によって構成されたサンヘドリンの最高法院から嫌われ、命を狙われるのです。

 そのような背景の中で、イエス・キリスト様は子ロバに乗って平和の王としてエルサレムに入城するのです。この時点で、イエス・キリスト様と人々の思いの間に食い違いがあることがわかります。武力で神の王国を建てあげ、神の力と権力によって神の民である自分たちが支配者となり世界を願う群衆と、平和をもたらし、そのような武力や権力ではなく、愛と恵みで支配する神の王国を築こうとする神や、その神さまの思いを実現しようとするイエス・キリスト様の間には、ボタンの掛け違いとなる食い違いが生まれているのです。
 このボタンの掛け違いが、最後に群衆の最後にイエス・キリスト様を十字架にかけることを求める声になるのですが、イエス・キリスト様の弟子も、このときにはそのことがわからなかったようです。

 けれども、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を経験した後に、振り返ってみたときに、初めて、このエルサレム入城の出来事が、ゼカリヤ書9章9節の

シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあ なたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。

という言葉に結び付いて、「ああ、あのイエス・キリスト様がエルサレムに入城なさった出来事は、旧約聖書のゼカリヤ書が伝えていた出来事であり、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事は、罪と死に対する勝利の出来事だったのだ」と理解したと考えられるのです。だからこそ、(16節で)

弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した。

というのです。この聖書記者の証言は、「人々はそのとおりイエスにしたのだということを思い出した」というのです。

 みなさん、イエス・キリスト様の弟子たちですら、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事を経験したのちに、振り返ってみて初めて、あのゼカリヤ書の記事とイエス・キリスト様の出来事のつながりということに気が付いたのです。ましてや、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるようにイスラエルの王に」といって、イエス・キリスト様を迎えた人々は、自分たちがゼカリヤ書にある神の言葉を実現しているなどと考えてはいなかったでしょう。
 彼らは、気づいてはいなかったでしょうし、知りもしなければ自覚もしなかったと思います。しかし、彼らが自覚していなくても、彼らも確かに神の救いの業に参与し、神の救いの歴史を作り上げる働きを担っているのです。

 たとえばそれは、12章17節18節にあるイエス・キリスト様がラザロをよみがえらせたといううわさを聞いて、イエス・キリスト様を見ようとして集まって来た人々に、そのときのことを語り聞かせたイエス・キリスト様がラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆もそうです。そうやって、イエス・キリスト様のことを語り聞かせることで、多くの人がイエス・キリスト様を信じるものとなっていくという神の救いの歴史を担っているのです。
 そして、その神の救いの歴史は、確かに私たちひとり一人を巻き込みながら、そして得わたしたちひとり一人をその神の救いの歴史に参与させながら、歴史を前へ前へと推し進めているのです。だからこそパリサイ派の人々は、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」というのです。この箇所を聖書協会共同訳は「見ろ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男に付いて行ったではないか」と訳していますが、確かにギリシャ語言語には「見よ」と訳すべき言葉が入っている。

 そして「見よ」という言葉は、とても大切です。それは、神の救いの業が推し進められているその様を目の当たりに見ることができると言っているからです。そして、その神の救いの業は、弱く、虐げられた者が癒され、慰められ、大切にされていく世界です。もちろん、そうはいっても、現実の世界は未だ、弱い人たちが虐げられ、抑圧され、搾取される世界が、私たちの目の前にあり、私たちはそれを目の当たりにしています。ウクライナの情勢といい、ガザ地区の情勢といい、また子どもたちが虐待されている状況叱りです。

 けれども、そのような状況に中にあっても、私たちは目素見開いて、神の救いの歴史が確かに私たちを巻き込みながら進んでいることを見なければなりません。イエス・キリスト様は、それを見よと言っておられるのです。そして、その事実を見、神の歴史の中に巻き込まれている私たちキリスト者は、イエス・キリスト様が、自ら弱く、無力で無能力なものとなられることで、そのような弱く虐げられ抑圧された人々と共歩まれたように、そのイエス・キリスト様の体なる教会に集う者として、互いの弱さを支え合い、励まし合いながら生きることで、神の救いの歴史を担っていくのです。

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