新約聖書ルカによる福音書十五章八節から十節に、キリストが語られた例え話があります。その話は、おおよそこういった内容です。
ある時、キリストの話を聴こうとして、多くの人が集まっていました。その中に、人々から、律法と呼ばれる宗教上の様々な規則が守れないで、あれはダメな人間だと思われていた人たちがいました。あるいは、自分たちを支配している支配者の手先となって働くな人々から憎まれ、嫌らわれるような仕事をしている人たちもいたのです。
そう言った人を、周囲は罪人と呼んでいました。でも、イエス・キリスト様は、そのような人でも快く受け入れていました。そんなイエス・キリスト様の姿を見て、一部の人は、皮肉を込めて「どうして、イエスという男は、人々が嫌う罪人たちも、快く受け入れるのだろうか」などと批判していました。
そのような人たちに、イエス・キリスト様はこう言われたのです。「ある人が、銀貨十枚を持っていて、その中の一枚をなくしたら、あかりをつけ、それこそ家をほうきではいてでも、念入りに捜すんじゃないだろうか。そして見つけたら、本当に心から喜ぶだろうと思う。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれるんだよ」と。
「一人の罪人が悔い改めるならば」とイエス・キリスト様は言われますが、この罪人というのは、人々から、ダメな人間だとか、嫌な奴だと言った評価を受けていた人たちです。そして、その罪人が悔い改めるというのは、神さまを信じて生きる生き方に立ち返るということを意味しています。ですから、「一人の罪人が悔い改めるならば、神さまは心から喜ばれる」ということは、人の評価がどのようなものであっても、神さまを信じて生きる者を、神は、喜んで迎え入れて下さるということです
私たちが、それこそ、家をほうきで掃いてでも捜すものは、役に立つものであるとか、得になるものである場合が多いですよね。それこそ、同じお金でも、一万円札なら、一生懸命捜しますが、一円玉ならきっと捜さないだろと思います。お金としての価値が違うからです。
けれども、神さまは、自分に役に立つ存在であるかどうか、得な存在であるかどうかは問題ではないのです。それこそ、人からはダメな奴だとか、悪い嫌な奴だと思われ、人からは見放されているような人でも、神は決して見捨てないのです。人からは価値がないと言われている罪人の一人でも、決してあきらめられない高価な銀貨のように価値ある存在だというのです。
それは、神さまが一人一人の存在を、好き嫌いや損得勘定を抜きにして大切に思っているからです。神さまが人を愛するってそう言うことです。神はすべての人を愛しているのです。愛して大切に思っているからこそ、探し求めているのです。
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