2023年10月6日金曜日

神はすでに選んでいてくださった。


キリスト教の神学の中に予定説と呼ばれるものがあります。
この予定論を平たく言うと、人間は、罪びとであって、自分の罪に対して下される神の裁きから救われる自分自身を救うことが出来ない。ただ神の憐みによってのみ救われるのだ。そしてその「神の救い」に与る人は、神によってあらかじめ選ばれ予定されておられるのだというものです。
 神があらかじめ「神の救い」に与る人をあらかじめ予定されているとすれば、予定されていない人は「神の救い」に与ることができないということになってしまいます。しかも、誰が予定され、予定されていないかは、神によって選ばれているとするならば、もはや私たちにはどうしようもないことです。
 ですから、この予定論をもって、「神は差別的だ」、「キリスト教は差別的だ」という人たちがいます。確かに、神が一方的に誰が選ばれ、誰が選ばれないかを決めているのであるならば、そのような批判があっても叱るべきですし、そのような批判に、キリスト教会は返す言葉はないだろうと思います。
 しかし、すべての教会が予定論という神学的立場を取っているわけではありません。東方教会と呼ばれる正教会(ロシア正教会など)や西方教会と呼ばれるカトリック教会は予定説を否定しています。予定説という立場を取っているのは、プロテスタント教会の中の一部の教派で、私たちの教会や、私たちが属する教団も予定説という立場を取っていません。
 しかし、聖書には確かに「選び」ということが書かれています。では、聖書に書かれているこの「神の選び」ということをどう考えればよいのでしょうか。
 私たちの教会、また教団(日本ホーリネス教団)は、ウェスレアン・アルミニアンと呼ばれる立場に立っています。これは、オランダのヤコブ・アルミニウスとイギリスのジョン・ウェスレーという二人の人の神学的立場を継承しているということです。そして、「神の選び」ということについては、アルミニウスの立場を取っています。
 それは、神の選びというのは、神は誰彼という個人を選んでいるのではなく、人をお救いになる使命と職務に、神の御子であるイエス・キリスト様をというお方を選び、このお方に人をお救いになる使命と職務を与えたのだという神学的な立場です。そして、その使命と職務を、イエス・キリスト様は十字架に張り付けられることで全うされたのだというのです。ですから、すべての人はイエス・キリスト様にあって救われるのです。
 聖書の言う選びとは、使命と職務に対する選びです。そして人を救うという使命と職務に対しては、神は人にその使命と職務を負わせられるのではなく、ご自身の独り子、神の御子であるイエス・キリスト様をお選びになられたのです。
 だからこそ、「神の救い」は、すべての人に開かれている「神の恵み」なのです。そして、すべての人は、この「神の恵み」に与ることができるのです。言葉を代えて言えば、すべての人はイエス・キリストにあってすでに救いに与ることができる者として選ばれているのです
 神の与える使命や職務というのは、何も人を救うために十字架について死ぬというものだけに限られるものではありません。牧師という職もあれば、人にキリスト教を伝えるという使命など、様々な役割があります。しのような使命や職務に、私たち個人が神から選ばれ、その職務をゆだねられています。パウロという人もその一人でした。
 そのパウロを通して「選び」ということについて、私の友人である岩本遠億牧師が3分程度のショート・メッセージを語っています。そのショートメッセージは下記のアドレスから聞くことができます。アドレスをクリックし、▶をクリックしてください。(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。)

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a6pps?fbclid=IwAR14NeVyqvxlAwvxq8bIUzOLPDpDhPyzFfXmq9WtdAbfHi35LvxZoxi_X-M 

2023年10月5日木曜日

愛する主体として

 「愛」は名詞ですが、実体として存在する物ではありません。ですから「愛」という名詞だけでは語ることができません。「愛する」とか「愛される」といった動詞として語ってこと、初めて「愛」というものが意味ものとして語られるのです。
 動詞としての「愛」を語る時、私たちが求めるのは「愛される」ということです。私たちが誰かを「愛する」とき、必然的に「愛される」ことを願っています。つまり、「愛」ということは「愛する」ということと「愛される」ということ一対となったの概念なのです。
 しかし、私たちはしばしば、「愛する」ということを忘れて「愛される」ということばかりを求めてしまします。けれども、「愛される」ということは、自分ではどうしようもないことです。相手が、わたしを愛してくれてこそ「愛される」という事態が起こるからです。つまり、「愛される」とは、受け身のことなのです。
 わたしが「愛されたい」と願っても、「愛する」主体は、私にはないのです。「愛」ということにおいて、私が主体となる事ができるのは、私が「愛する」時だけなのです。
 私たちは「愛」のない人であるよりも「愛」に溢れた人になりたいと思います。だとすれえば、私たちが誰かを「愛する」時に、「愛される」ものとして、私たちが「愛する」ことを受け入れてくれる人が必要です。そして、「愛する」ということが受け入れられて初めて私たちは「愛される」者となるのです。先ほども申しましたように「愛」は「愛する」ことと「愛され」ことが一対になって、はじめて成立するものだからです。
 とわ言え、私たちが誰かを「愛する」とき、必ずしも、その「愛する」ということが受け入れられるわけではありません。「愛する」ことが拒絶されるのです。どんなに私たちが主体的に「愛する」者になろうとしても、私たちが主体的に「愛する」愛を受け入れて「愛される」ものとなり、私たちを「愛される」者としてくれない限り、そこに「愛」はないのです。ですから「愛される」という応答がない限り、私たちは「愛」において主体となる事が出来ないのです。だから、私たちは、誰かを愛するとき、「愛する」者に対して、私たちから「愛される」者となることを求めるのです。そしてそれは、相手に自分を「愛する」ことを押し付け求めることなのです。
 しかし、ただひとり、私たちが「愛する」とき、その「愛する」ことを決して拒絶することなく受け入れ、私たちに「愛される」ものとなってくれ、それによって私たちを「愛される」者にしてくれる存在があります。それは神というお方です。
 私たちが主体的に神を「愛する」時、神は必ず、それに応答し、私たちを「愛される」者としてくださるのです。
 私たちを「愛する」者とする神について岩本遠億牧師語る3分程度の短いメッセージがあります。下記のアドレスをクリックし、▶のボタンをクリックすることで、そのメッセージを聞くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a5s39?fbclid=IwAR0kTT8AsrC229DBorTknEcCW-F3wzj1SsayImkl3ZPjDmoW_CZW2BLu7yM

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。

2023年10月4日水曜日

神様は背負ってくださっている。

 小さい子供のころ、親に背負われた経験を持つ人は少なくないのではないのでしょうか。
親に背負われているような年齢のとき、私たちは大人になって感じるような、不安や悩みというものはほとんどありませんでした。
 子供が子どもでいるとき、私たちは、私たちのほとんどすべてのことを親に頼り、親の助けを受けて生きていたのです。だから、私たちが感じ、担わなければ、すべてのことは、親が背負ってくれていたのです。
 しかし、私たちが大人になるにつれて、自分の担わなければならないことを自分で担うようになります。親に頼ることを止めて、自分で物事をするようになるのです。そしてそれと共に、だんだんと私たちは不安を感じるようになり、悩みも多くなっていくのです。
 聖書は、私たちが神を信じ、イエス・キリスト様を信じるなら、私たちは神の子となると言います。子どもになるのです。子どもになるというのは、あの小さかったころ、親に背負われて歩いたようになるということなのです。私たちが担い、感じなければならない不安や、恐れ、悩みといったものを、全部丸ごと含めて、神に背負われて歩く。そして、すべてのことを神に頼り、神に助けられながら生きる。
 神の子とされたのですから、自分が子どもであることを忘れず、子供らしく神を信じ、神を信頼し、神に背負われて生きる、そんな生き方に神は私たちを招いておられるのです。
そのことを、私の友人岩本遠億牧師は、3分半のショートメッセージで語っています。そのメッセージをしたのアドレスをクリックし、更に開かれたぺーじで▶すると聞くことができます。是非お聞きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a4aod?fbclid=IwAR1-uPe4qr9heSEr7II-GMPvcQ2L1BHdDLo9ENsZaYf7rWzNc4jAj4aFfLg&%24web_only=true&_branch_match_id=943951679210878550&utm_source=web&utm_campaign=web-share&utm_medium=sharing&_branch_referrer=H4sIAAAAAAAAAwXB0Q6CIAAAwC9CZmNztrWm05RFzuqB6g0QAnNCQFl9fXc6RhfWEAZno1FfNgttPVgkT5hzyWTmB5SwvVDaoP2nrPhWcTGZYYOX4pSCVy%2FR0%2BdanmufYQyaQ%2F8WxxVJy3aoiM3rLtzYVWWe%2FjqBxmJEbKfI%2FQ8EmFP5dQAAAA%3D%3D

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています

2023年10月3日火曜日

いま!

 私たちは、「今、ここで」生きています。

しかし、とき私たちは、「過去」の中で生きています。「過去」の悲しみに縛られて「今、ここで」においても過去の悲しみの中で生きていることがありのです。「過去」それは「かつて、あの場所で」です。たしかに、「かつて、あの場所で」の出来事と、そこでの感情は私たちの記憶に深く刻まれ、それが思い起こされ「今、ここで」の私たちを苦しめているのかもしれません。しかし、「かつて、あの場所で」は記憶の中の出来事で、「今、ここで」の出来事ではないのです。
 また、私たちは、「かつて、あの場所で」の栄光の記憶に捕らわれて、「今、ここで」の現実を受け止めれないことがあります。現実を受け止められないからこそ、「今、ここで」の現実の状況に向き合うことができないのです。
 記憶にきざまれた「過去」をなかなか忘れることはできません。それがつらい過去であるならなおさらです。また、現実の「今、ここで」の状況がつらく苦しいものであったならば、「栄光」の過去に縋りつ きたい気持ちにすがりたい気持ちを捨て去ることは難しいと思います。
 しかし、それでもなお、私は「あなた」に「今、ここで」を、ありのままで生きて欲しいと思います。「今、ここで」をありのままで生きる。それにはエネルギーが必要です。そして、そのエネルギーを、私たちと、今ここでを共に生きてくださる神様、そして神の御子イエス・キリスト様が、「あなた」の心に注ぎ込んでくださろうとしてくださっているのです。「あなた」が「今、ここでを」を生きることができるように、神様は、イエス・キリスト様は、あなたに愛をという力を注ぎこんでくださっています。。その神の愛、イエス・キリスト様の愛を、ぜひあなたにも受け取っていただきたいと思います。
 その、「今、ここで」を生きる大切さを、私の友人の岩本遠億牧師が3分程度の短いメッセージの中で語ります。岩本牧師のメッセージは下記のアドレスで聴くことができます。
下記のアドレスをクリックし▶マークをクリックしてください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a277k?fbclid=IwAR0JDL37BqtmngxEHhvuNzqCHvI_lyZXKIR0edrcPjtF20c3GjaAj3scmXo


この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています



2023年10月2日月曜日

23年10月第一主日礼拝説教「人間を探し求める神」

 23年10月第一主日礼拝説教「人間を探し求める神」

旧約書:創世記3章1節から10節
福音書:ヨハネによる福音書9章34節から41節
使徒書:ローマ人への手紙7章14節から25節


 今日の礼拝説教の中心となります聖書箇所のヨハネによる福音書9章34節から41節はです。この箇所は、9章1節から始まる物語の総括ともうしますか、まとめに当たる部分です。その9章1節から始まる物語というのは、イエス・キリスト様が安息日に生まれつき目の見えなかった人を安息日にお癒しになったという出来事から始まる物語です。そしてこの癒しの物語は、ユダヤ人が、イエス・キリスト様の排除しようとする物語へと発展していきます。

しかし、そのイエス・キリスト様を排除しようとするユダヤ人たちの思惑は、なかなか思うように進まず、結局、彼ら試みは失敗に終わるのですが、この一連の物語は、このヨハネによる福音書の冒頭の第一章9節から12節の言葉の具体的な事例だと言えます。すなわちそこには、

9:すべての人を照すまことの光があって、世にきた。10:彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。11:彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。12:しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。

とあるのです。つまり、この生まれつき目の見えなかった人の目が見えるようにされたことによって紡がれる一連の物語は、すべてを照らす光として「この世」に来られたイエス・キリスト様を、ユダヤの民が受け入れなかった物語であり、また、イエス・キリスト様を信じて、神の子となった人の物語でもあるのです。
 ところが、その神の子とされた人、つまりは生まれつき目の見えなかった人は、最終的に、ユダヤ人たちによって外に追い出されるのです。イエス・キリスト様を「預言者だと思う」「神のもとから来られた方だと思う」と証言し、証しする人が、外に追い出される。

 みなさん、私はこの「外に追い出した」という言葉が、妙に気になるのです。外とは、即物的に言うならば、それはユダヤ人たちが尋問をしていた場所、おそらくそれはユダヤ人の会堂だっただろうと思います。
 しかし同時に、それはパリサイ派やサドカイ派の人々をリーダーとする当時のユダヤ人の社会、コミュニティーでもあろうと思うのです。つまり、パリサイ派の人々は、この生れ突き目の見えなかった人をユダヤ人社会からに追い出したのです。実際、ヨハネによる福音書の9章22節には、「イエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていた」と言っている。しかし、その外に追い出された人をイエス・キリスト様は探し出すのです。

 みなさん。私がよくご紹介するアブラハム・ヘシェルというユダヤ人哲学者は、『人間を探し求める神』という本を著しました。その本でヘシェルは、「アダムとエヴァが、神食べてはならないと命じた「善悪を知る木」の実を食べ、神がに背を向けため、神の前に身を隠し、また神の支配する世界である楽園に住むことができなくなり、楽園の外に出て行かざるを得なくなったのです。それはまさに、神と人との関係が断れてしまったことであり、それゆえに、人間は神を失い、神もまた人間を失ってしまった。その失われた人間を神は探し求めておられるのだ」と言うのです。
 私にこのヘシェルを紹介し、このヘシェルの『人間を探し求める神』を読むように勧めてくださったのは、私の恩師で東京聖書学院院長だった小林和夫先生です。小林先生は、このヘシェルの『人間を探し求める神』をうけて、そのように「神は失われた人間を地の果てまで探し求め、探しに探してついに人間の姿にまでなられた。それがイエス・キリスト様だ」と言われのですが、実に印象深い言葉でした。

 そして、まさにそのように、イエス・キリスト様は、この外に追い出された人を捜し求め、その人を見つけ出し、声をかけ、「あなたは人の子を信じるか」と語りかけるのです。そこには、失われた人間を探し求め、見つけ出し「汝、誰々よ」と名前を呼んでくださる神のお姿がそこにある。真の神の御子であるイエス・キリスト様のお姿がある。

 みなさん、このイエス・キリスト様の「あなたは人の子を信じるか?」という言葉は、「神は、あなたを探し求めてきたことを信じるか?」という言葉であり、「私こそがあなたを探し求めてきた神であることを信じるか?」という問いかけの言葉なのです。

 そして今日(こんにち)も、神は私たちに、そしてあなたに「あなたは人の子を信じるか?」。「神が、あなたを探し求めてきたことを信じるか?」、そして「私こそがあなたを探し求めてきたその神である信じるか?」と語りかけておられるのです。そのイエス・キリスト様の語りかけに、この生まれつき目の見えなかった人は「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した」とあります。9章38節です。

 この拝するという言葉は、一般的には東洋人が膝まづくいて。額を地面につけ深い敬意と畏敬の念を表す姿をあらわすπροσκυνέω(プロスキュネオー)という言葉です。この言葉を、ユダヤ人は、大祭司や神に向かって示す行為に用い、新約聖書においてはキリストに対する態度に用います。ですのでこのπροσκυνέω(プロスキュネオー)は礼拝を意味すると言われたりします。それで新改訳2017では、この9章38節を、「イエスを礼拝した」と訳している。

 いずれにせよ、このこの生まれつき目の見えなかった人は、イエス・キリスト様を信じ、受け入れ、神を礼拝する神の民となったのです。その人にイエス・キリスト様は、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言われる。この「見えるようになるため」というのは、何も物理的に見えるようになるということではありません。むしろ、私たちを愛し、私たちを探し求め、私たちを神の子とする神の愛を、イエス・キリスト様というお方の中に見ることができるようになるということだと言えるでしょう。そのためには、自分は神から離れてしまっている者であるということを知り、神が私たちを探し求めてくださったように、私たちもまた神を求めることが大切なのです。

 この生まれつき目の見えない人を、外に追い出したユダヤ人たちは、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」といって、この人を外に追い出しています。それは、彼らが自分は見えている、自分は知っていると思っているからです。だから、イエス・キリスト様が「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」という言葉を聞いて、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」と聞くのです。

 それは、決して純粋で素直な気持ちで聴いているのではない、むしろ、「なに言ってやがるんだ。俺たちは盲目なわけないじゃないか」という反発心から聞いている。だからこそ、イエス・キリスト様は「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言って、手厳しく彼らを戒めるのです。

 この目が見えると言っている人は、この生まれつき目の見えなかった人を外に追い出した人たちです。すなわち「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」と言っている人です。この人たちは「私たちはお前のような罪びとではなく、聖書、すなわち当時の旧約聖書について熟知しており、お前のような無学なものではない」と誇っている人です。イエス・キリスト様は、そのような人々を「あなた方は『見える』と言っているのすぎず、本当は何も見えていないのだ」というのです。

 みなさん、私は西方教会の伝統、すなわちプロテスタントやカトリック教会に深く根差している「人間は生まれつき原罪をもって生まれた罪びとだ」という原罪論には疑問を持っています。しかし、だからと言って人間が罪や過ちを犯さないということはできません。確かにわたしたち人間は罪や過ちを犯しつつ生きているのです。
 そして、私たち人間が、聖書のことがわかりきるのかというと、2000年にわたって、聖書が研究され続け、今もそこに様々な理解や解釈が生まれ続けている現実がある以上、おそらく私たちは聖書を熟知しきることはできないと思います。

ですから、イエス・キリスト様に真理があるということはわかっても、その真理が何かについてはおぼろげにわかっているだけで、その深みまではわかっていないのです。神学を学び、聖書を学べば学ぶほど、そのことが実感され、神の前に、聖書の前に、そして人も前に『私は見えないのです』と謙虚にその現実を受け入れざるを得ないのです。ですから私は、ただ牧師として、ほんの少しおぼろげに見えたことをみなさんにお伝えしているの過ぎない。でも、私はそのことを恥じてはいません。ただイエス・キリスト様は、そのような謙虚に『自分は見えていない』と自覚して、ただ神により頼んで生きる人を捜し求めておられる。そのことに望みを置いて、学びえた限りを語っているのです。

みなさん、最も原初の教会における貢献者に一人であるパウロは、コリント人への第二の手紙12章9節で「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と言っています。

 この弱さというのは7節で「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた」といっていますので、肉体的な事でしょう。しかしその「弱さ」は、肉体の弱さだけではありません。先ほどお読みしたローマ人7章14節以降にある、肉体の内にある罪に抗えない心の弱さをも含んでの「弱さ」なのです。その「弱さ」を知り、それを自覚するときに、私は自分の弱さを誇ろうと言うことができる。なぜならば、その自覚する弱さのゆえに、イエス・キリスト様が私たちを探し求め、そして探しだしてくださり、神の愛と恵みと救いに与らせてくださるからです。

 みなさん、私たちは自分の弱さを自覚し、それを認めるものでありたいと思います。決っして「見える」と言い張る傲慢なものとならないようにしましょう。私たちが、私たちの弱さを自覚する時、私たちは、私たちを探し求めている神様を、またイエス・キリ使徒様を見いだすことができます。神様は、またイエス・キリスト様は、私たちがどんなに弱さの中にあり、無知の中にあろうとも、私たちを探し出し、私たちの名を呼んで憐み、恵み、その弱さの中から掬いあげてくださるお方だからです。

 その憐みの神、恵みの神、そして私たちの存在を掬い取ってくださるイエス・キリスト様のことを、静かに思い廻らしましょう。静まりの時を持ちます。


どんなことでもできる

 教会は「キリスト教はご利益宗教ではありません」と言います。しかし、この言葉は正確ではありません。なぜなら、キリスト教の信仰は、神の恵みがもたらされることを語るからです。神の恵みほど、私たちを力づけ、慰め、喜びを与えるありがたいご利益はないのです。

しかし、それでもなお教会派「キリスト教はご利益宗教ではありませんん」と語り続けます。それは、キリスト教は、私たちが願い求める「物」や「状態」目的とし、それを手に入れるための手段ではないという意味において「ご利益宗教ではない」からです。ですから、キリスト教を信じれば、願うものが何でも手に入るということではありませんし、キリスト教を信じれば何でもできるということではありません。

 ただ、それが神のみこころにかなうことであるならば、それはどんなことであっても、私たちが祈り求める者は、神から私たちに与えらます。神のみこころにかなうものであるならば、どんな状況の中にあっても、私たちは「どんなことでもできる」のです。

 神のみこころ、それは私たちの心の中に、平安と喜びとがあふれることです。しかもその平安と喜びとが、神以外の何ものにより頼むことなくもたらされる平安と喜びなのです。

 多くの富や財産によってもたらされる経済的な喜びや安心は、平安ではありません。それは経済的な危機を迎えると、容易に崩れ去り私たちを不安と恐れに陥れ、悲しみの中に落としいれます。人間関係が安定している状況がもたらす平安や喜びは、相手の人間に依存している喜びや平安です。しかし、人間の心は変わりやすいのです。つまり、私たちは、富や財産、あるいは誰かに私たちの喜びや平安というものが依存している限り、私たちは、富や財産、あるいは人間関係は、私たちを拘束し、私たちはそれらに絡み取られ縛られているのです。

 しかし、神のもたらす恵みは、私たちを縛り付けている者から私たちを自由にし、神以外の何ものにも依存しない、心の平安を与え、心に喜びをもたらし、心の中に希望を満たすのです。

 そのことについて、私の友人岩本遠億牧師が短く語っています。岩本牧師のメッセージは4分弱の短いものですので、是非お聴きください。そのメッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a0s5n?fbclid=IwAR2YUWe09P3uJpdOyqI9-Ep_mwvGStXmkvPxhY9CCHCU7pxUAfuS7oRBpuk


この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。

2023年10月1日日曜日

存在の意味を問う

 私たちは、自分自身の存在をどのようにして理解し、受け止めているでしょうか。

 この「わたし」という存在の気付きはとても大切です。それは、「わたし自身」への気付きです。
 しかし、この「わたし自身」への気付きということは、思いのほか難しいのです。
 「わたし」は「わたし」であるという意識を自己認識と言います。しかし、往々にして、私たちは「わたし自身」によって「わたし」を認識するのではなく、何か私以外のもので、自分という存在を規定し認識しているのです。
たとえば、「わたし」は「スポーツが好き」とか「音楽が好き」という場合、趣味や嗜好によって「わたし」という存在を理解します。しかし、趣味や嗜好は、絶対的なものではありません。それは、ときに変化することもあるのです。だとすれば、そのように変化する趣味や嗜好によって「わたし」という存在を理解しているとするならば、趣味や嗜好が変われば私という存在は変わるのでしょうか。
 また、「わたし」という存在を、国籍や人種で理解するようなことがありかもしれません。しかし、仮に「日本人」という国籍で自分を理解していたとして、国籍が「アメリカ」に変わったら、「わたし自身」は変わるのでしょうか。そうではないですよね。たとえ国籍が変わろうと趣味が変わろうと「わたし」は「わたし」です。
 そのように、私たちは、「わたし」という存在を、私たちが身に着けている何かの属性によって理解し認識します。けれども、それは「わたし」が持っている属性の認識であって「わたし自身」の属性ではないのです。この属性の認識で最も厄介なものが、「わたし」がもっている能力による認識です。この能力による認識が厄介なのは、能力には「できる」「できない」ということの程度の差異によって評価が伴うからです。この能力という属性で「わたし」という存在を理解しうけとめていると、その能力に対する評価によって「わたし」という存在の意義が問われた時に「わたし」という存在は、容易に存在する意味を失うのです。しかし、それは能力の持つ意義であって、いわば「わたし」のできること(doing)の意義あって、「わたし自身」の存在「(being)意義ではありません。だとすれば、「わたし」が持っているすべての属性をそぎ落とした裸の「わたし自身」の存在の意義はどこにあるのでしょうか。
 私たちが存在する意義、それは私たちが生きて存在するそれ自体の中にあります。存在の意義は、存在することそれ自体の中にあるのです。
なぜならば、「あなた」が生きて、そこに存在しているということ自体を、神様は喜んでおられるからです。だからこそ、「あなた」が「あなた自身」の存在の意義を見いだせるのは、「あなたが」生きて、そこに存在していることを喜んでおられる神を発見することから始まるのです。ですから「あなた」が、「あなた」の存在を喜んでおられる神と出会いうならば、その時、あなたの存在は神の前で意味ある者となります。
 その存在の意味を、私の友人の岩本遠億牧師は、3分程度の短いメッセージの中で語ります。そのメッセージを下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a0akg?fbclid=IwAR3PL6Na60OXzzwqswPp3_TZ-R3ObJn927R3-tbOpaNImML_cYYb7TgxIl0

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。