2023年10月6日金曜日

神はすでに選んでいてくださった。


キリスト教の神学の中に予定説と呼ばれるものがあります。
この予定論を平たく言うと、人間は、罪びとであって、自分の罪に対して下される神の裁きから救われる自分自身を救うことが出来ない。ただ神の憐みによってのみ救われるのだ。そしてその「神の救い」に与る人は、神によってあらかじめ選ばれ予定されておられるのだというものです。
 神があらかじめ「神の救い」に与る人をあらかじめ予定されているとすれば、予定されていない人は「神の救い」に与ることができないということになってしまいます。しかも、誰が予定され、予定されていないかは、神によって選ばれているとするならば、もはや私たちにはどうしようもないことです。
 ですから、この予定論をもって、「神は差別的だ」、「キリスト教は差別的だ」という人たちがいます。確かに、神が一方的に誰が選ばれ、誰が選ばれないかを決めているのであるならば、そのような批判があっても叱るべきですし、そのような批判に、キリスト教会は返す言葉はないだろうと思います。
 しかし、すべての教会が予定論という神学的立場を取っているわけではありません。東方教会と呼ばれる正教会(ロシア正教会など)や西方教会と呼ばれるカトリック教会は予定説を否定しています。予定説という立場を取っているのは、プロテスタント教会の中の一部の教派で、私たちの教会や、私たちが属する教団も予定説という立場を取っていません。
 しかし、聖書には確かに「選び」ということが書かれています。では、聖書に書かれているこの「神の選び」ということをどう考えればよいのでしょうか。
 私たちの教会、また教団(日本ホーリネス教団)は、ウェスレアン・アルミニアンと呼ばれる立場に立っています。これは、オランダのヤコブ・アルミニウスとイギリスのジョン・ウェスレーという二人の人の神学的立場を継承しているということです。そして、「神の選び」ということについては、アルミニウスの立場を取っています。
 それは、神の選びというのは、神は誰彼という個人を選んでいるのではなく、人をお救いになる使命と職務に、神の御子であるイエス・キリスト様をというお方を選び、このお方に人をお救いになる使命と職務を与えたのだという神学的な立場です。そして、その使命と職務を、イエス・キリスト様は十字架に張り付けられることで全うされたのだというのです。ですから、すべての人はイエス・キリスト様にあって救われるのです。
 聖書の言う選びとは、使命と職務に対する選びです。そして人を救うという使命と職務に対しては、神は人にその使命と職務を負わせられるのではなく、ご自身の独り子、神の御子であるイエス・キリスト様をお選びになられたのです。
 だからこそ、「神の救い」は、すべての人に開かれている「神の恵み」なのです。そして、すべての人は、この「神の恵み」に与ることができるのです。言葉を代えて言えば、すべての人はイエス・キリストにあってすでに救いに与ることができる者として選ばれているのです
 神の与える使命や職務というのは、何も人を救うために十字架について死ぬというものだけに限られるものではありません。牧師という職もあれば、人にキリスト教を伝えるという使命など、様々な役割があります。しのような使命や職務に、私たち個人が神から選ばれ、その職務をゆだねられています。パウロという人もその一人でした。
 そのパウロを通して「選び」ということについて、私の友人である岩本遠億牧師が3分程度のショート・メッセージを語っています。そのショートメッセージは下記のアドレスから聞くことができます。アドレスをクリックし、▶をクリックしてください。(この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。)

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a6pps?fbclid=IwAR14NeVyqvxlAwvxq8bIUzOLPDpDhPyzFfXmq9WtdAbfHi35LvxZoxi_X-M 

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