2023年10月1日日曜日

存在の意味を問う

 私たちは、自分自身の存在をどのようにして理解し、受け止めているでしょうか。

 この「わたし」という存在の気付きはとても大切です。それは、「わたし自身」への気付きです。
 しかし、この「わたし自身」への気付きということは、思いのほか難しいのです。
 「わたし」は「わたし」であるという意識を自己認識と言います。しかし、往々にして、私たちは「わたし自身」によって「わたし」を認識するのではなく、何か私以外のもので、自分という存在を規定し認識しているのです。
たとえば、「わたし」は「スポーツが好き」とか「音楽が好き」という場合、趣味や嗜好によって「わたし」という存在を理解します。しかし、趣味や嗜好は、絶対的なものではありません。それは、ときに変化することもあるのです。だとすれば、そのように変化する趣味や嗜好によって「わたし」という存在を理解しているとするならば、趣味や嗜好が変われば私という存在は変わるのでしょうか。
 また、「わたし」という存在を、国籍や人種で理解するようなことがありかもしれません。しかし、仮に「日本人」という国籍で自分を理解していたとして、国籍が「アメリカ」に変わったら、「わたし自身」は変わるのでしょうか。そうではないですよね。たとえ国籍が変わろうと趣味が変わろうと「わたし」は「わたし」です。
 そのように、私たちは、「わたし」という存在を、私たちが身に着けている何かの属性によって理解し認識します。けれども、それは「わたし」が持っている属性の認識であって「わたし自身」の属性ではないのです。この属性の認識で最も厄介なものが、「わたし」がもっている能力による認識です。この能力による認識が厄介なのは、能力には「できる」「できない」ということの程度の差異によって評価が伴うからです。この能力という属性で「わたし」という存在を理解しうけとめていると、その能力に対する評価によって「わたし」という存在の意義が問われた時に「わたし」という存在は、容易に存在する意味を失うのです。しかし、それは能力の持つ意義であって、いわば「わたし」のできること(doing)の意義あって、「わたし自身」の存在「(being)意義ではありません。だとすれば、「わたし」が持っているすべての属性をそぎ落とした裸の「わたし自身」の存在の意義はどこにあるのでしょうか。
 私たちが存在する意義、それは私たちが生きて存在するそれ自体の中にあります。存在の意義は、存在することそれ自体の中にあるのです。
なぜならば、「あなた」が生きて、そこに存在しているということ自体を、神様は喜んでおられるからです。だからこそ、「あなた」が「あなた自身」の存在の意義を見いだせるのは、「あなたが」生きて、そこに存在していることを喜んでおられる神を発見することから始まるのです。ですから「あなた」が、「あなた」の存在を喜んでおられる神と出会いうならば、その時、あなたの存在は神の前で意味ある者となります。
 その存在の意味を、私の友人の岩本遠億牧師は、3分程度の短いメッセージの中で語ります。そのメッセージを下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a0akg?fbclid=IwAR3PL6Na60OXzzwqswPp3_TZ-R3ObJn927R3-tbOpaNImML_cYYb7TgxIl0

この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。

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