「愛」は名詞ですが、実体として存在する物ではありません。ですから「愛」という名詞だけでは語ることができません。「愛する」とか「愛される」といった動詞として語ってこと、初めて「愛」というものが意味ものとして語られるのです。
動詞としての「愛」を語る時、私たちが求めるのは「愛される」ということです。私たちが誰かを「愛する」とき、必然的に「愛される」ことを願っています。つまり、「愛」ということは「愛する」ということと「愛される」ということ一対となったの概念なのです。
しかし、私たちはしばしば、「愛する」ということを忘れて「愛される」ということばかりを求めてしまします。けれども、「愛される」ということは、自分ではどうしようもないことです。相手が、わたしを愛してくれてこそ「愛される」という事態が起こるからです。つまり、「愛される」とは、受け身のことなのです。
わたしが「愛されたい」と願っても、「愛する」主体は、私にはないのです。「愛」ということにおいて、私が主体となる事ができるのは、私が「愛する」時だけなのです。
私たちは「愛」のない人であるよりも「愛」に溢れた人になりたいと思います。だとすれえば、私たちが誰かを「愛する」時に、「愛される」ものとして、私たちが「愛する」ことを受け入れてくれる人が必要です。そして、「愛する」ということが受け入れられて初めて私たちは「愛される」者となるのです。先ほども申しましたように「愛」は「愛する」ことと「愛され」ことが一対になって、はじめて成立するものだからです。
とわ言え、私たちが誰かを「愛する」とき、必ずしも、その「愛する」ということが受け入れられるわけではありません。「愛する」ことが拒絶されるのです。どんなに私たちが主体的に「愛する」者になろうとしても、私たちが主体的に「愛する」愛を受け入れて「愛される」ものとなり、私たちを「愛される」者としてくれない限り、そこに「愛」はないのです。ですから「愛される」という応答がない限り、私たちは「愛」において主体となる事が出来ないのです。だから、私たちは、誰かを愛するとき、「愛する」者に対して、私たちから「愛される」者となることを求めるのです。そしてそれは、相手に自分を「愛する」ことを押し付け求めることなのです。
しかし、ただひとり、私たちが「愛する」とき、その「愛する」ことを決して拒絶することなく受け入れ、私たちに「愛される」ものとなってくれ、それによって私たちを「愛される」者にしてくれる存在があります。それは神というお方です。
私たちが主体的に神を「愛する」時、神は必ず、それに応答し、私たちを「愛される」者としてくださるのです。
私たちを「愛する」者とする神について岩本遠億牧師語る3分程度の短いメッセージがあります。下記のアドレスをクリックし、▶のボタンをクリックすることで、そのメッセージを聞くことができます。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2a5s39?fbclid=IwAR0kTT8AsrC229DBorTknEcCW-F3wzj1SsayImkl3ZPjDmoW_CZW2BLu7yM
この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。
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