2022年5月29日日曜日

礼拝説教「謙遜な心の物語」

 礼拝説教「謙遜な心の物語」                       2022.5.29

旧約書:詩篇8篇
福音書:ヨハネによる福音書3章22節から36節
使徒書:使徒行伝の20章17節から20節

 今日の礼拝の説教の箇所はヨハネによる福音書3章22節から30節です。この個所は、22節から30節です。この個所に記されている物語は、イエス・キリスト様とその弟子たちがユダヤの地で洗礼を授けていた時のことを伝えています。

 バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス・キリスト様とその弟子たちが洗礼をしているのを知って、自分たちの師匠のところにやって来て、そのことを報告します。

 「先生、あなたが洗礼を授けた、あのナザレのイエスが、先生に断りもなくヨルダン川の向こう側で、勝手に自分たちで洗礼を施しています。しもですよ、しかも。こともあろうか、あっちの方に送の人が行ってしまっているんです。これって、おかしく思いませんか。ねえ先生、そう思いませんか。」

 バプテスマのヨハネの弟子たちは、悔しかったんでしょうね。こと洗礼に関しては、自分たちの先生の方が本家本元なのです。それが、気が付いたら、そのバプテスマのヨハネから洗礼を受けたナザレのイエスという男が、自分たちで勝手に洗礼を施すようになり、しかも自分たちよりも多くの人たちを集めている。

 だから本家本元の弟子としては、悔しくて仕方がないと思ってもやむを得ないことなのかもしれません。折しも、そのような時に、そのバプテスマの弟子たちとユダヤ人の間に、清めのことで論争があった。

 この論争で主題となったのは清めのことです。この清めというのは、私たち日本ホーリネス教団が言う聖めというものとは、言葉は同じですが、内容は少し違います、

 私たちの教団が言う聖めというのは、いわゆる聖化というもので、私たちの内に聖なる神の聖なる御性質あずかり、それよって神に似た者となっていくということで、ギリシャ語ではハギアスモス(άγιασμος)という言葉で表される聖めです。それに対して、今日の聖書の箇所の清めは、ギリシャ語ではカサリスモス(καθαρισμος)という言葉で、罪に汚れたその人間の罪や汚れを洗い流しきれいにするという意味での清めということです。

 その罪と汚れを洗いきよめるカサリスモス(καθαρισμος)としての「清め」に関して、ユダヤ人とバプテスマのヨハネの弟子たちの間に論争があったというのです。

 ユダヤ人:おい、お前さんバプテスマのヨハネ弟子だってな。知ってるか。あのナザレのイエスって男が、最近、お前さんたちみたいに清めの洗礼を施しているらしいがが、あちらさんは、たいそう人が集まっているみたいだぜ」

 バプテスマのヨハネの弟子:そうみたいですね。でも、あのナザレのイエスも、うちの先生から洗礼を受けたんですよ。ですからあのナザレのイエスよりも、うちの先生の方が偉いにきまってます。

 ユダヤ人;確かに順番から言えば、そうだろうが、しかし、あれだけナザレのイエスの方に人が集まっているんだ。だとしたら、ナザレのイエスは、お前の先生を超えてしまったんじゃないか。だからナザレのイエスの施す洗礼の方が霊験あらたかで、ナザレのイエスの方で洗礼を受けた方が、神様の前にしっかりと罪が洗い流されるじゃないのかい。バプテスマのヨハネの洗礼は、ナザレのイエスほど、効果が見られない。だからみんななされのイエスの方にいってしまうんじゃないかね

バプテスマのヨハネの弟子。なんてこと言うんですが。洗礼運動はもともとといえば、うちの先生が始めたことです。うちが本家本元なんだ。うちの先生の洗礼に罪を洗い清める力がナザレのイエスにおよばないなんて、そんなことはありっこない。

ユダヤ人:そんなこといったって、数はあっちの方が多いんだ。民衆ってものは正直なもんだよ。

きっと、こんな会話がされていたのではないかと思います。だからこそ、バプテスマのヨハネの弟子たちは、「先生、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼(バプテスマ)を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」とバプテスマのヨハネにご注進するのです。そしてその言葉の背後には、「先生、この際ですから、先生からあのナザレのイエスに、ガツンと一言いってやってください」という思いがある、

私はなんだかそんな思いで、この場面が目の前に浮かんでくるのです。そしてその弟子たちの言葉を聞いたバプテスマのヨハネは

 「お前たちよく聞きなさい。神の業というのは、神の権威を神から与えられた者がするものだ。私はそのような権威を神から与えられているわけでない。だから私は、神が羅油注がれた王でもなければ祭司でない。また預言者でもない。私はメシアではないのだ。

ただ私は、自分自身の姿を見、人々の姿を見て、私たちがどんなに神様から離れて生きている罪深い汚れた者であるかということだけはわかる。そうだろう、私たちがこの世でしていることを見ていたら、おまえたちだってそう思わざるを得ないだろう。だから、その私たちの罪や汚れを洗い流してくださいと願いながら、人々に洗礼を授けているのだ。


 だが、私が、洗礼を授けたあのナザレのイエスというお方は違う。あの方は、この世の罪を取り除くお方だ。あの人のなさっていることを見てごらん。あの方は神がつかわされたお方だ。神の権威で洗礼を授けている。
 だから、私が人間の思いや願いから洗礼を授けているのとはわけが違う。神の権威で洗礼をさずけているのだ。私の洗礼は、罪を洗い流すために水で洗いの清め(καθαρισμος)るためのものが、あの方は、私たちを聖なる神の聖なるご性質に与らせ、私たちを聖なる神の命を与えるために聖霊によって洗礼を授けているのだ。 

 私は花嫁が花婿を待つように、あのナザレのイエスというお方が来るのを待ち望んでいたのだ。その方が来られ、神の業を行っていることを、どうして喜ばないでいられようか。
 お前たちは、あのお方のもとに人々が多く集まっているのを見て、悔しがり、心配しているのだろう。だが、それでいいのだ。大切なのは、人々があのお方のもとに集まり、神の命をいただき、神の命を生きる真の神の民になることだろう。だから、私は滅び、あの方が栄えるということが大切なことなのだ」。

 まさに、バプテスマのヨハネの

27:人は、天から与えられなければ、何も受けることはできない。28:『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』と私が言ったことを、まさにあなたがたが証ししてくれる。29:花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は立って耳を傾け、花婿の声を聞いて大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。30:あの方は必ず栄え、私は衰える。

という言葉には、そのようのバプテスマのヨハネの思いが込められているように、私には思えるのです。そう思えて仕方がないのです。そしてそこに、バプテスマのヨハネの謙虚な姿を見るような思いがします。

 バプテスマのヨハネという人は、本当に面白い人で、聖書のある個所を読むととても変人だというイメージがあがり、ある個所ではとても激しい気性の人であるイメージがあったり、また別の箇所では、頑固で生真面目な一本気の男のイメージがあったりと、様々な印象を与えてくれる人です。そしてここでは、謙虚な人だなというイメージがわいてくる。

 バプテスマのヨハネは、イエス・キリスト様が世に出てくる以前は、ユダヤの民の中で洗礼運動をおこし、それなりに知られた人物であり、バプテスマのヨハネのところに多くの人がやって来て、洗礼を受けていました。ですから、それなりに隆盛を極めたと思われます。それがイエス・キリスト様に取って代わられそうになっているのですから、バプテスマの弟子たちの悔しい気持ちはわからないわけではありません。

 しかし、バプテスマのヨハネ自身は、「あの方は必ず栄え、私は衰える」といって、その事実を受け止めているのです。それは、彼自身がちゃんと自分自身の役割を知り、自分が何者であるかを知っているからです。

 ふつうは、自分が有名になり、成功をおさめ、周りから賞賛の言葉を浴びせられるようになりますと、なんだか自分が偉くなったような気持になるものです。もちろんそうでない方もいらっしゃるだろうと思いますが、しかし、多くの場合、高慢になり、傲慢な振る舞いをするようになってくる傾向の方が多いのです。

 しかし、バプテスマのヨハネは、ちゃんと自分は『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』という自覚を持ち、それを忘れないでいるのです。私が主役ではなく、主役はイエス・キリスト様で、私は露払いに過ぎない者にすぎないのだということがちゃんとわかっている。

 自分自身を知るということは、私たちが謙遜になることのためには、とても大切なことです。それは、人と比べて自分を見ることによっては本当の自分自身の姿を見ることはできません。比べる相手によって、自分はだめなものだとか、自分はなかなか大したもんだとか、自己評価は変わってきます。

 しかし、神の前に自分を言う存在を置き、イエス・キリスト様というお方を仰ぎ見ながら生きるとき、どんなに成功をおさめ、名声を得、財産を築いた者であっても、謙虚になり、謙遜なものにならざるを得ないのではないかと思います。しかし、それでもなお、神は私たちを愛してくださっています。いやむしろ、そのような謙虚な人を神は喜んでくださっている。だからこそ神は、バプテスマのヨハネを、イエス・キリスト様を証する者としてお選びになったのです。

 先ほどお読みしました旧約聖書の詩篇8篇では、まさに神の創造した自然の中に立つとき、大空をも創造された神の前では、いかにちっぽけな存在であるかという、自己に対する築きがあります。その気づきは、同時に神がいかにその小さな者に、神がその大自然を治めるという大きな働きを与えてくださっているかに気づくのです。

それは、謙遜なものだからこそ気付く気づきです。それは、神の独り子であるイエス・キリスト様の前に立ったバプテスマのヨハネの『私はメシアではなく、あの方の前に遣わされた者だ』という気付きでもあるのです。そして、その気づきがあるからこそ、「あの方は必ず栄え、私は衰える」ということを、心から喜ぶことができる

そして、そのような思いは、パウロが使徒行伝の20章17節から20節で、ミレトスにエペソの強化の長老と立を呼び寄せた際に、長老たちに語った「「アジア州に足を踏み入れた最初の日以来、いつも私があなたがたとどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。19:すなわち、謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」という言葉の中にも読み取れるものです。 

みなさん、私たちは、神の前に、また神の独り子なるイエス・キリスト様の前には、どんなに優れた能力のある人でも、力のある人でも、ただの小さな人間にすぎません。しかし、そのことを知って、心から神に仕えていく者を、神は尊び、喜んでくださり、用いてくださるのです。 

それは、神が、私たちを愛してくださっているからなのです。その神の愛を覚え、しばらくの間静まりの時を持ちます。静まりましょう。

2022年5月18日水曜日

おお、神対応!!

               「おお、神対応!!」

 最近、若い人の会話のなかで「神」という言葉をよく聞きます。どうやら、とてもすごい能力を持つ人や、とても素晴らしいことをしたときに、「~って神だよね」とか「神対応」というような言い方をするようです。
 このような言葉の使い方は、ある意味スラング(俗語)であって、本来の神と言葉が指し示す意味とは違っています。しかし、全く間違っていると言って否定することもないかなと思います。いやむしろ、なかなかセンスある使い方ではないかとさえ思います。
なぜならば、私たち人間は、神に似た者となるために、神の像(かたち)を持つ者として造られているからです。

 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つから成り立っています。旧約聖書はキリスト教会で神の独り子と信じられているイエス・キリスト様が誕生する以前のユダヤ人の歴史を通して表された神の物語が記されています。それに対して新約聖書はイエス・キリスト様の誕生以後の教会の歴史を通して表された神の物語が書かれているのです。
 その旧約聖書の一番最初の項目、つまり聖書の一番最初の項目は、創世記と呼ばれるものです。その創世記の1章には、神様が人間をお造りになったという物語が書かれています。そこには、「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう」と書かれています。つまり、人間は神に似た者になるようにと造られているというのです。

 もちろん、私たち一人一人が神の像(像)であるといわれても、とても私たち一人一人が神を表す者となっているかというと、必ずしもそうだとは言えません。むしろ、私自身を振り返ってみると神の名を汚すようなことを行ってしまっている現実がそこにあります。そのような現実をみると、私たちは罪びとだといわれても仕方がないような気持になってきます。それでも、聖書はあなた方には神の像(かたち)が与えられている言うのです。

 古代ギリシャの哲学者の一人であるアリストテレスという人は、存在する物の全てのものの中には可能態と呼ばれるものがあると言います。可能態というのは種のようなものです。種は小さな粒にすぎませんが、その種を土に植え、水をやり育てていくと、小さな種が大きな木に育っていきます。小さな種の中に大きな木に育て行く基となるものがあるのだというのです。

 このアリストテレスの言葉を借りるならば、今、とても神に似た者とは言えないような私たちであっても、神に似た者となる可能態をもっている。それは神の像(かたち)だ。その神の像(かたち)が、土に植えられ、栄養を与えられ、水を与えられるならば、神に似た姿の大きな大樹のごとき存在へと育っていくということなのでしょう。


 キリスト教会には、神のかたちをあらわした木像や銅像や絵画というものはありません。たしかに、カトリック教会や正教会といった教会に行くと、イエス・キリスト様の像(ぞう)やマリヤ様の像(ぞう)があります。しかし、それらは、人となられた神の独り子の像ぞう)であって、父なる神の姿かたちを表す(像)ではありません。イエス・キリスト様の像(ぞう)は、あくまでも人間の姿となって現れたお姿であって、神そのものの姿は、人間の姿の背後に隠されています。
 このようにキリスト教会で、神の姿かたちを像(ぞう)や絵画用いて表さないのは、旧約聖書の中に記された十戒という十の戒めの中に、「あなたは自分のために(神の)あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない」と書かれているからです。

あるとき、アブラハム。ヘッシェルという人が、ヘッシェルは聖書を学ぶための学校の教授でしたが、そこで聖書を学ぶ学生に、「なぜ神は、神の彫像を造ってはならない」と言われたのかと尋ねました。
 学生は「目に見えない神は、目に見えるもので表すことができないからです」と答えます。この答えは、一般的な理解として受け入れらていた答えでした。ところがヘッシェルは「それは違う」というのです。そして、「神の像は、既に私たちの中に刻まれ、私たち自身が、つまり、あなたが神の像としてあるのだ。だから、人の手で偶像として神の像を造る必要などないのだ」と答えたというのです。

 神様は私たち人間が神に似た者になるようにと神の像(かたち)を私たちにお与えになってくださっています。この神の像(かたち)という種がちゃんと大きな木に育っていくためには、土に埋められ、水や栄養を与えられる必要があります。そのために、教会という土があり、聖書という栄養があり、礼拝という水があるのです。

 「~って神だよね」とか「神対応」と言われるときの「神」は、普通の人にはできないとおもえるほどにすごいという形容詞的な意味です。しかし、その「神」に私たちはなれるのです。その「神」になる種が私たちの内にあるからです。あとは、その種がちゃんと育っていくように、その種を良い土壌にまき、水と栄養を与えてやればよいのです。






2022年4月25日月曜日

22年イースター(復活際)礼拝説教「私たちは、今、立ち上がる」

22年イースター(復活際)礼拝説教「私たちは、今、立ち上がる」   2022年4月17日

旧約書:イザヤ書40章28節から31節」

福音書:ヨハネによる福音書2章13節から22節

使徒書:ペテロ第一の手紙5章9節から10節

 

 今日は、イースター(復活祭)です。このイースターの朝に、私はみなさんと共に神を礼拝することを心から喜び、神に感謝したいと思います。

 この2022年のいーすた記念礼拝に当たり、今お読みしました旧約聖書イザヤ書40章31節で言われています「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」という言葉を中心にイースター記念礼拝の説教をお取次ぎしたいと思います。

みなさん、このイザヤ書と言うのは、イスラエルの国がバビロン帝国に滅ぼされ、イスラエルの民が奴隷としてバビロン帝国に捕らえ連れていかれるといういわゆるバビロン捕囚と呼ばれる出来事を中心に描かれています。 

具体的には、1章から39章までがイスラエルの国がバビロン帝国によって滅ぼされ、イスラエルの民がバビロンに捕囚されるという言葉が告げられ、40章以降66章までが、そのバビロン捕囚から解放され、イスラエルの民は故郷に帰り、イスラエルの国が回復されるという神の言葉が記されてます。

国が滅び、外国に奴隷として連れていかれるということは、大変な出来事です。そこには嘆きや、痛みや、悲しみ、苦しみがある。当然、その痛みや悲しみや苦しみをイスラエルの民はその身に負ったのです。 

しかし神は、そのイスラエルの民を決して見捨てず、見放すようなことはなさらない。彼らを、その苦しみや悲しみ、そして痛みと嘆きの中から救い出されるのです。そして、再び立ち上がらせる。 

もちろん国が亡びるということは、そこにそこに荒廃が起こり、神殿は壊され、もはや人の目には回復され復興される望みもないような状況が起こります。それはまさに、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」と言った状況なのです。しかし、そのような状態の中にあっても、神はこう言われるのです。

 

28:あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。29:弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。

 

と。そして、このように「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」神だからこそ、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」ということができるのです。

 このイザヤ書に記された神の言葉をまさに奴隷としてバビロンに連れていかれたいイスラエルの人々がこの言葉を聞いたならば、どんなに慰めを得、心が癒されたであろうかと思わされます。そして、この現実の歴史もイザヤ書の言葉通りに、イスラエルの人々はバビロン捕囚と言う苦難の経験の後、バビロニア帝国から解放され、国にかえり、粉々に壊されていた神殿を立て直し、神の都であるエルサレムを再建するのです。そこには、神の癒しと回復の物語がある。

 

 まさに神は、私たちが、いかに弱り疲れ果て、倒れてしまっても、その倒れてしまったところから、神を待ち望み、神を見上げるならば、力を与え、新たなものとし、そこから立ち上がらせてくださる癒しの神であり、回復の神なのです。

 

 その神の回復と癒しの物語は、さらにイエス・キリスト様の十字架の死と復活の物語となって歴史の中に刻まれて行きます。

 先ほどお読みしましたヨハネによる福音書2章13節から22節は、イエス・キリスト様のご生涯の中でなされた業の中で宮清めと呼ばれる出来事です。実は、この宮清めの出来事は、歴史学的には問題を含んだ箇所で、聖書の中にある四つの福音書の内、マタイやマルコ、そしてルカによる福音書では、イエス・キリスト様のご生涯の最後の一週間のうちに起こった出来事として記されています。

  ところが、ヨハネによる福音書では、イエス・キリスト様がキリストとしての公生涯を歩み始めたれた最初の一週間の出来事として記されている。つまり、聖書に記されたイエス・キリスト様のご生涯の歴史に違いが生じているのです。 

これは、聖書が誤っているとか、聖書が真実を伝えていない、聖書には誤りがあるということではありません。むしろ神は、誤りなく神の御心を私たちに伝えるために、聖書を記した人にある程度の自由を与え、その聖書を記した人の持つ神学的な視点を用いて、神の御心を私たちに伝えているのです。ですから、例えばマタイによる福音書を記したマタイならマタイの視点と神学でイエス・キリスト様のご生涯を捉え、それによってイエス・キリスト様のご生涯の意味と目的を伝えようとする。当然、そこにはマタイが語り聞かせたいと考えている人々、つまり、マタイが想定しているマタイによる福音書の読者層がある。

同じように、ヨハネによる福音書を記したヨハネも、彼が記した福音書を読むであろうと想定した読者層がいる。そして、伝えたい内容がある。それにそってイエス・キリスト様のご生涯の物語りを語っていくのです。ですから、マタイやマルコ、そしてルカによる福音書とヨハネによる福音書の記述に違いがあるから、聖書が間違っているとか、その違いを何とか調整しようとして様々な解釈を加える必要などないのです。ヨハネによる福音書はヨハネによる福音書の視点でイエス・キリスト様のご生涯を語っている。それをそのまま受け取ればよいのです

 

 では、ヨハネによる福音書が想定している読者層はだれかというと、その当時のギリシャ・ローマ文化の中にいる人々、つまり、ギリシャ人やローマ人といった人々や、それらの国に離散して暮らしているヘレスタイと呼ばれるユダヤ人であったろうと思われます。なぜそんなことがわかるのか。それは、ヨハネによる福音書の一章にあるギリシャ語の言葉遣いの中に顕著に現れている。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言い回しは、極めてギリシャ・ローマ的な言葉遣いなのです。

 そのうえで、ヨハネによる福音書においては、この宮清めの出来事をどう捉え、何を伝えたかったのか。それは死と再生の物語です。

 宮清めと言う出来事は、神殿で神に捧げるための動物を売っていた商売人や、その動物を売り買いするために用いられていた特別な通貨を手に入れるため両替をしていた両替商などを、イエス・キリスト様がご覧になり、怒りを覚え「私の父の家を商売の家とするな」といって、その商売人や両替商を神殿から追い出したという出来事です。

 この神殿で、神に捧げるための動物を売り買いしていたということは、実は客観的にまた合理的に考えるならば、決して悪いことではない。むしろ良いことであったと言える行為です。 

みなさん、神殿はエルサレムにある。その神殿で神に動物を捧げるとして、それを遠い地方にいる人がわざわざ連れてくるのは大変です。おまけに神に捧げる動物には、傷のない完全なものでなければならないと言ったルールもありましたので、それに適した動物を神殿で買った方が、遠くから来る人にとっては便利でありがたい。おそらく、そのような理由で神殿の庭で、神殿に捧げる動物の売り買いが始まったのだろうと思います。そのように、遠くから神殿に来る人達への配慮と思いやりから始まった動物の売り買いが、配慮思いやりと言う目的よりも、むしろ商売が目的になってきた。

 さらには、その動物の売り買いをするために、神殿で使う特別な通貨を使わなければならないとすることで両替商が両替をする。そこにも利潤が生じてくる。そしておそらく、そこで得られた利益から、当時の祭司たちに還元されるといったこともあったのでしょう。

 そのような中で、イエス・キリスト様は「私の父の家を商売の家とするな」と言って宮清めをなさった。いうなれば、宮清めと言う出来事は、金儲けのために汚れてしまったイスラエルの民の宗教と信仰心の浄化し、純粋な信仰へと立て直しを図った行為であるといえます。

もちろん、神殿での商売で利潤を得ていたであろう人々は、そのようなイエス・キリスト様の行為に腹を立てる。そして「祭司でもないおまえに、このようなことをする権威や権限があるのだ。あるのならそのしるしを見せろ」と詰め寄る。その時、イエス・キリスト様は「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とそういわれるのです。そして、このヨハネによる福音書を記したヨハネは、それは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事であり、イエス・キリスト様と言うお方は、「この世」と言う闇の中に置かれて、「この世」によって神の前に死んだようになっている私たちを再生し、新しい命にお息吹を与えてくださるお方なのだと理解した。

 つまり、あの宮清めの出来事は、まさにイスラエルの民にとっては、彼らの神を信じる信仰の死と再生の物語だということなのです。そしてその死と再生の物語は、単にイスラエルの民の問題だけではなく、イエス・キリスト様が十字架にかかって死なれ、よみがえることで物語によって、すべての人の死と再生の物語となるのです。

みなさん、私たち人間は、すべからく神の創造の業により、神に似た者となるために神の像を与えられた存在です。だから、すべての人は尊い尊厳性を持った存在です。しかし、その私たちは「この世」と言う世界の中置かれている。その「この世」が与える価値観やものの見方によって、神の像を与えられ、神に似た者となるようにされている私たち人間の現実は、決して本来あるべき姿からは遠く離れてしまっている。

そのような中で、神によって尽きられた私たち人間が、いやあなたが、神の創造の業にある本来あるべき人間の姿に立ち帰るための死と再生の物語なのだということをヨハネは、ヨハネによる福音書を読むであろう人々に伝えたかったのです。そして、その死と再生の物語は、繰り返し教会の歴史の中で起こっている。いや、教会と、その教会に繋がる私たち一人一人は、この死と再生の物語の中を生きているのです。

 先ほどお読みしましたペテロ第一の手紙5章6節から11節は、迫害が迫っている小アジア半島(現在のトルコ)にある教会の人々に書かれた手紙の一節です。そこでは、それこそ、悪魔が教会とそれにつながるクリスチャンを激しき迫害し打ち壊そうとしていると言われています。それはまさに1世紀の教会の姿です。

 そのような中にあって、苦難と苦しみ、痛みと悲しみの中に置かれるであろう人々に、ペテロ第一の手紙の著者は、迫害が迫っているけれど、神を信じる信仰をもってしっかり生きなさい。教会は、そして教会に繋がるあなた方は試練の中で苦しみ、痛み、悲しむことがあるだろうでも、神様はあなたたちを癒し、強め、力づけてくださり、そこから再び立ち上がらせてくださる。仮に教会が打ち壊されてしまったと思うようなことがあっても、私たちが弱りはて、倒れてしまうようなことがあっても大丈夫だ。

 あなた方はイエス・キリスト様の死と再生の物語に与り、イエス・キリスト様の死と再生の物語を生きるものなのだ。だから大丈夫だと、このペテロ第一の手紙は励ましているのです。そしてみなさん、私たちは、また私たちの教会は、この死と再生の物語を生きている。

 だから私たちは、そして私たちの教会は、たとえ困難や試練の中に倒れそうになっても、また倒れてしまっても、必ず再び立ち上がっていくことができるのです。

そのことを、今日、このイースターの朝に、心にしっかりと刻みたいと思います。

2022年4月16日土曜日

2022年4月16受難週の土曜日の黙想のために

 

         2022年4月16受難週の土曜日の黙想のために

 十字架に架けられたイエス・キリスト様が、この世界に残されたものは教会です。教会は日曜の朝毎に、礼拝をおこないます。その礼拝の朝を迎える前、最も原初の教会は、ユダヤ教の会堂で、聖書の言葉を聞き、礼拝をした後の夜に、みんなで食事を共にしました。
 共に食事をする。それは単なる共にする食事ではなく、イエス・キリスト様と共にした食事を記念するものでした。それが、聖餐を中心にしたキリスト教会の礼拝になっていきました。私たちは、礼拝ごとにキリストの祝宴に招かれているのです。そのことを覚えつつ、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に耳を傾けつつ、神を思いましょう。

共に食事をしよう

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。

  いつも心の扉をたたいていてくださることを感謝します。あなたは私を捨てず、諦めず、あなたを追い出してしまったような私ですが、再び私の人生に入ろうと扉をたたいていてくださいます。

この受難週がチャンスです。忙しいかもしれません。ほかにやることがたくさんあるかもしれません。しかし、まずはあなたを心に迎えて、あなたと食事をするかのように、みことばに耳を傾け、あなたと食事をする温かみを体験する事ができますように、お願いします。

2022年4月15日金曜日

2022年4月15日受難週の金曜日の黙想のために

        2022年4月15日受難週の金曜日の黙想のために

 今日は受苦日です。主イエス・キリスト様が十字架に架けられて死なれた日です。イエス・キリスト様は、まったく罪とは無関係で純粋で無垢なお方でした。しかし、私たちは、決してイエスキリスト様のように罪もかがれもないということはできないものです。しかし、神は、そのような私たちであっても、神の子としてくださると言うのです。その神の恵みを、、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれつつ思い廻らしましょう。

              白い衣を着て主と共に歩む

「しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである」(黙示録3:4)。

イエスさま、私はここに出てくる「少数」の者の中に入っているのでしょうか?いや、その自信はまったくありません。しかし、それを目指すことができますように魂の渇きを与え、聖霊の助けを求めることができますように。

十字架の贖いの血潮によって洗われ、復活のいのちを大切にし、あなたと共に歩むこと。白い衣をいただいているのです。ですから、白い衣を洋服掛けの奥にしまってしまわないで、いつでもそれを着る自分でありますように。祈るとき、悩むとき、だれかを助けるとき、しんどいとき、白い衣によって私を守ってください。

2022年4月14日木曜日

2022年4月14日受難週 木曜日の黙想のために

 

         2022年4月14日受難週 木曜日の黙想のために

 受難週の木曜日です。私たちはいろいろな心配や思い煩いに囲まれています。やらなければならないことについての心配や、物事がうまくいかない心配、人間関係の中にある様々な思い煩い。そういったものが、私たちの心に、重荷に感じられるようなときがあります。そのような様々な心配や思い煩いとなっていることを思いながら、イムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれつつ、私たちにとって本当に大切なことは何かについて思い廻らしましょう。

             ほかの重荷を負わせない

「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい」(黙示2:24-26)。

イエスさま、私は山ほどたくさんの重荷が日々のしかかってきていると考えていました。しかし、あなたがほんとうに重荷として担ってほしいと願っておられるのは、あなたとくびきを一つにして、あなたから学ぶことなんですね。ほかの重荷はすべてあなたのもとで下ろすことができるのでしょう。

ああ、私の人生の状況はなんとあなたの願いからほど遠いことでしょう。どうか、気がつかせてください。あなたから学ぶことこそが、私たち背負わなければならないことだと。しかも、その重荷は軽いと、おっしゃってくださいました。あなたの恵み、神の愛、聖霊の交わりをいつも大切にすることができますように力を与えてください。

2022年4月13日水曜日

2022年4月13日受難週 水曜日の黙想のために

          2022年4月13日受難週 水曜日の黙想のために

 

 受難週の水曜日、今日もイムマヌエル教高津キリスト教会の藤本満牧師の黙想の言葉に導かれながら、神の前に謙遜なものでであることの大切さを思いましょう。なぜならば、私たちは、自分の信仰さえも、自分の誇りとしてしまう高慢さや傲慢さを持っているからです。
 傲慢な思いから出る誇りと、謙虚からでる誇りとは、全く違ったものです。そして、検挙から出る誇りは、自分自身を振り返り、その至らなさを向き合うことから始まります。

              けれども責めるべきこと

「わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。けれども、あなたには責めるべきことがある。」(黙示2:19)

イエスさま、あなたが私の愛も信仰も奉仕も忍耐も知っておられることを感謝いたします。だれも私のような者の信仰の労苦を理解してくれなくても、あなたが知っていてくださるのなら、私は満足です。なぜなら、あなたの報いは人の報いの百倍あるからです。すべてを支配しておられるあなたが私の小さな行いを知っていてくださること、これほど大きな励ましはありません。

しかし、もし責めるべきことがあるとしたら、それはなんでしょうか。いや、それはあまりにも多くてあなたは、伝えようにも伝えきれないとおっしゃるのでしょう。

でしたらせめて一つ教えてください。その一つを正す力と勇気を授けてください。素直になれますように、謙虚に責めるべきことを受け止め、正すことができますように助けてください。