2024年1月30日火曜日

お母さんのお財布

  ある時のことです、教会のインターフォンがなりましたので、玄関に出てみますと、一人の男の子が、お母さんと一緒に立っていました。実は、その男の子がボールをけっていて、誤って教会のガラスを割ってしまったのです。私は、その時、ガラスが割れたことを知りませんでした。ましてやその男のがガラスを割ったことなど知りようがありませんでした。けれども、その男の子は、自分がガラスを割ってしまったことを正直にお母さんに話したのだろうと思います。それで、お詫びにきたのです。そして、その子も、そのお母さんも、心から「ごめんなさい」と謝ってくれました。

 あいにくと、割れたガラスは特殊なもので、安いものではありませんでした。でも、そのお母さんは、「子どもがしたことですから」と言って、新しいガラスを入れて下さったんですね。もちろん、その代金は、お母さんのお財布から支払われました。私は、わざとではないにしろ、高いガラスを割って、しょんぼりしている子供をかばい、一緒に謝って弁証をして下さったお母さんを、本当に優しい良い親御さんだなと思いました。そして、その二人の姿に人間と神との関係を見たような気がしたのです。

 キリスト教会では、神さまのことを、親のような存在として表現することが多くあります。つまり私たち人間にとって、神はまさに、親のような存在として描くのですが、その際に思い描いている親は、決して子供を虐待する親ではなく、このときの男の子と一緒に謝りに来てくださったお母さんのような親の姿なのです。
 神さまは、あの母さんのような存在であり、だからいつでも、どんなときでも神さまは「わたしたち」をかばい、守って下さるのです。そし私たちの過ちや失敗を補ってくれるのです。

 先程のお母さんは、割れたガラスの代償を、自分の財布の中からお金を支払って弁証しました。結構高価なガラスでしたので、お母さんのお財布的にはとても痛かったのではないかと思います。しかし、そのようなお母さんの姿を見て、あの男の子は、もう同じ過ちや失敗はしないだろうなと思います。どんなに失敗し、過ちを犯しても、その過ちや失敗に対して負うべき責任は全部負って、守ってくださる親のような神さまが「わたしたち」の神なのです。

 あの男の子は、ガラスを割ってしまったときに、知らん顔して逃げることもできたのだろうと思います。でも、割ってしまったことを正直にお母さんに話、お母さんはよその家のガラスを割ってしまったときにはどのようにしなければならないかを、ちゃんと子どもに示したのです。私は、このようなお母さんに育てられているあの男の子は、きっと立派に成長したのだろうと思います。
 そのことを思う時、わたしたちを見つめる神様のまなざしを思います。「わたしたち」は神さまと人との前に、様々な過ちを犯しながら生きています。けれども神は、私たちをあのお母さんのような親としての温かい心と愛で見つめ、やさしく包んでくださっています。だからこそ、神さまのお財布を痛めるようなことをしても、なお私たちが正しく歩み生きていくことができるようにと、どんな損出も惜しむことなく、私たちに愛を注いで気ださいます。その神様が、「わたしたち」が、神さまを信頼し、神さまを信じて生きていくことを心から願っておられるのです。
 新約聖書ヨハネによる福音書三章十六節、「神は、実にその一人子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が。一人も滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」これは、私たちを大きな親の愛で包む神の約束の言葉なのです。

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