先日、小学校六年生の子が、お母さんにこんな質問をしました。「お母さんは、自分を人生の成功者だと思う」。
なかなか答えにくい質問ですよね。そのお母さんも、どう答えて良いか分からなくて、答えられなかったっていっていました。そもそも何をもって人生の成功者と考えたらいいんでしょか。今の時代ですと、ひょっとしたら、お金や名声を得ることが成功、不成功を計る尺度になっているのかもしれませんね。
もちろん、それも一つの尺度かも知れません。そして、もし、本当に、たくさんお金を稼いだとか有名になったということが、成功の尺度なら、私の人生は成功だといえる人はそれほど多くはないだろうと思います。そして、私も、その人生の成功者の仲間には入ることはできません。ところが聖書は、こんな事を言うんですね新約聖書。ルカによる福音書六章二十節から二十一節にある言葉なのですが、このように言っています。
「貧しい人は、幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがて満ち足りるから。いな泣くものは幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」
貧しさとか飢えといったものは、おおよそ人生の成功者とは縁遠い者のように思われます。なのに聖書は、その成功とは縁遠いことが、幸いだというのです。それは、今、どんな悲しみや苦しみがあっても、神が確かな希望を与えてくれているからです。どんなに貧しくても、苦難の中を通っていても、神を信じて生きる人には、確かな神の国で苦しみや悲しみから解放してくださるというんですね。そんな神の国のようすを、聖書は、新約聖書黙示録七章十六節でこう言っています。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、正面の御座におられる小羊(この小羊とはキリストのことです「が、そのキリスト)が、彼らの牧者となり、命の泉に導いて下さるからです。また、神が彼らの目の涙をすっかりぬぐいとってくださるのです。」
私たちの人生に希望があるならば、その人の人生は希望に輝きます。そして希望に輝いている人生は、決して失敗した人生とは言えません。神は、神を信じて生きる者の人生に、神の国という希望を与えて下さるのです。では、その神の国はどこにあるのでしょうか。
聖書が言う神の国とは、ここにある、あそこにあるというような物理的場所を指すものではありません。それは、神様の愛と恵みが支配している領域です。しかし、あえて言うならば、神を信じる者たちが、肩を寄せ合って生きているところ、すなわち教会だということができるでしょう。それば、建物のとしての教会堂ではありません。教会堂は、神様の愛と恵みの中で生かされている人々の交わりの場であり、教会というこの世にあらわれた神の国を入れる器のようなものです、
教会には、私たちが生きる希望があります。どんなに苦しい思いの中で生きていても、神を信じ生きる希望がある。そして、その希望がある限り、「わたしたち」の人生は、そして「あなた」の人生は、輝くことができるのです。この希望に輝く人生は、「あなた」のためにも用意されています。神は、「あなたに、神が与える神の国がもたらす希望をもって、どんなに苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、しっかりと頑張って生きて欲しいとそう語っておられるのです。
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