2024年3月21日木曜日

神さまなぜ?

 

テサロニケの信徒への手紙一5章14-18節

14:きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。15:誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。16:いつも喜んでいなさい。17:絶えず祈りなさい。18:どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて 神があなたがたに望んでおられることです。

ペトロの手紙一1章13-16節

13:それゆえ、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14:従順な子として、かつて無知であった頃のさまざまな欲望に従わず、15:あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。16:「聖なる者となりなさい。私が聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 私たちは、「神様なぜですか」と問わざるを得ないような悲しい出来事や、辛く苦しいできごとに出会うことがあります。そして、誰もがそのような思いを経験することがあるのです。
 新約聖書の中にあるテサロニケの第一の手紙5章14節から18節やペテロ第一の手紙1章13節から16節をお読みしました。この二つの手紙は、書かれた時期も、手紙を書いた人も違っていますが、しかし共通することがあります。それは、この二つの手紙が書かれた背景には、最も原初の教会が経験した迫害という出来事があったということです。おおよそ2千年前、ユダヤ教からキリスト教が湧かれ出て、キリスト教会が産声を上げました。

教会は、その当時の地中海世界に、瞬く間に広がっていったのですが、同時にあちらこちらで迫害が起こって来た。神を信じ、イエス・キリスト様を救い主と信じ、その信仰に忠実に生きる者に、なぜこのような迫害という苦しみが訪れるのか。
 この「神様、なぜですか」という問いは、キリスト教界の歴史に刻み込まれた問いなのかもしれません。そのような歴史的な問いの中あるテサロニケの教会にパウロという人物から手紙が届いた。それが、テサロニケ人への第一の手紙だったのです。
 パウロは、その手紙の締めくくりの部分で、迫害の下にある人々に、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」と言います。迫害の苦しみの中で、喜ぶことなどできない。祈ろうにも先ほどの「なぜ、神を信じる者にこのような苦しみが訪れるのかという問いが湧き上がり祈ることなどできない。ましてや、感謝するなんてとんでもない。そんな状況の中にあるテサロニケの教会の人々にパウロは、それでもなお、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」というのです。

 いえ、「神様なぜですか」というような、魂の奥底から出てくるような問いをもたらす苦しみに対する答えは、いつも神を信じる者となったことを喜び、神の祈りつつ、小さなことでもいい感謝できること見つけ出して、感謝しながら生きて行く」ことこそが、その「神さまなぜ」という問いに対するパウロの答えだったのです。

 私たちの「神様なぜですか?」という問いに対して、新約聖書のローマ人への手紙8章28節には「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と言っています。 なるほど、「神はすべてのことをあい働かせて益としてくださる」ということが、たしかに、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」という生き方を生み出していくのかもしれない。いえ、確かにそうなのでしょう。

 私たちは、「神様なぜですか」と問わざるを得ないような悲しい出来事や、辛く苦しいできごとに出会う私たちの人生に、益をもたらしてくださる神を信じ生きることが、、「いつも喜び。絶えず祈り、すべてのことを感謝しなさい」という生き方をする者に、私たちを変えて行ってくださるのです。

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