2024年3月23日土曜日

和合する生き方

 昔、14世紀の枢機卿にニコラス・クザーヌスという人がいました。このクザーヌスはさまざまな礼拝の形式が違う諸宗教が礼拝形式を持ち、それぞれがそれぞれの神認識を持ち、神礼拝を行っていても、それが一つになることができると、かなり強い確信をもって考えていたようです。それは、様々な複数のものが存在するのは、その前提に一つという存在があるからです。複数は一つから成り立つ、一つがなければ複数は成り立たないのです。だから、複数の様々な宗教があっても、それらの諸宗教は一つに向かうことができるはずだとクザーヌスは言うのです。

 この世界は神によって創造されたものです。そして私たち人間も神の創造の業なのです。ですから、一つの神から創造された私たち人類が、一つに向かって歩めないわけがない。ではどうやって一つになることができるのでしょうか。それは、神の御子でありイエス・キリスト様のご生涯を見つめ、この御方に倣って生きることです。この方に倣って生きるとき私たちは一つになれるのです。

 そこで、私たちが目指すべき主イエス・キリスト様の生き様でありますが、そのイエス・キリストのご生涯が描かれているのが福音書です。その福音書の中で、イエス・キリスト様がどのようにしてこの地上での公生涯を過ごされたのかということが、もっとも短い端的に集約して記されている箇所が、先ほどお読みいただいたマルコによる福音書の10章45節です。そこにはこう書かれている。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。

 みなさん。イエス・キリスト様は、人から仕えられるためではなく、人に仕えるためにこの世にお生まれになってくださったのだというのです。人に仕える、それは奉仕するということです。しかも「多くの人の贖いとしてして、自分の命を与えるため」であったとも言われる。これは、イエス・キリスト様の十字架の死を指しているということは、間違いがないでしょう。そしてそれは、私たちを救い、私たちに永遠の命を与えるための、イエス・キリスト様の私たちに対する最大の奉仕の業なのです。そうやってイエス・キリスト様は、多くの人に、そして私たちに仕える者となってくださったのです。

 そのような、イエス・キリスト様の生き様が土台としてあって、その上で、イエス・キリスト様は、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」と言われるのです。

 このイエス・キリスト様の言葉の背景には、イエス・キリスト様の弟子であるゼベタイの子ヤコブとヨハネが、イエス・キリスト様に」あなたが「この世」の王となって「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」と願い出たということがあります。
 イエス・キリスト様が生きていた時代のイスラエルの民の民族的な願いは、イスラエルの王国が再興されるということです。ですから、ヤコブとヨハネが「栄光をおうけになるとき」というとき、それはイエス・キリスト様がイスラエルの民の民族的な願いであるイスラエルの民の王国が再興され、イエス・キリスト様が、その再興された王国の王となられるときということです。そして、その王となられたとき、私たちをその王の右と左に座らせ、その国を支配する権力者の中に加えて欲しいと願っているのです。
 

 それは、きわめて個人的な、自分のための願いです。考えてみれば、イスラエルの民の民族的な願いである、イスラエルの王国の再興という民訴苦的願いも、イスラエルの民一人一人が、その再興された国の民として生きるという自分のため願いが束ね合わされたものです。
 そのように、自分のための願いを語るヤコブとヨハネの言葉に対して、イエス・キリスト様は、彼らの願いとは全く逆のことを言われる。それは、「仕えられるものになるのではなく、仕える者になるのだ」ということです。言葉を変えて言うならば、「自分のために生きる者になるのではなく、他者のために生きる者となるのだ」ということです。

 確かに、イエス・キリスト様は神の王国の王となられ、神の国を納めるお方です。しかし、その神の国の民は、自分のため生きるのではなく、他者のために生きるのです。なぜならば、王であるイエス・キリスト様ご自身が、ご自分の命を与えるほどに、人々のために仕え、奉仕をなさるお方だからです。

 このイエス・キリスト様の奉仕の業は、具体的にはマタイによる福音書4章23節にある「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国は福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」ということに現れていると言えるでしょう。

 ここの三つのことがある。ひとつは教えるということ、二つ目は御国の福音を伝えるということ、三つめは癒しをなさるということです。そして、この三つは、新約聖書にあるエペソ人への手紙の記述と対応しています。エペソ人への手紙4章においては、教会をたて上げるためには、使徒や預言者、そして伝道者という福音を宣べ伝える働きをする人と、牧師や教師といった教えを伝える人と、聖徒と呼ばれるキリストを信じる信徒一人一人の奉仕という三つの業が挙げられています。

 ここでは、イエス・キリスト様のなされた三つの業の内、癒しの業が奉仕の業に置き換えられている。それは癒しという業は単に病を癒すということではなく、回復する、修復するということを含むものだからです。つまり、肉体の癒しだけではなく、壊れてしまった神と人との関係、人と人との関係を回復するものなのです。そのような関係の回復をするためには奉仕の業によらなければならない。

 ただ自分のために、ただ自分の願いを実現することを求めていたならば、関係は壊れることはあっても回復することはありません。相手のことを思い、相手のために生きるとき、はじめて関係が回復していく。だから奉仕は癒しの業なのです。教会が、教会の中で相手のことを思い互いに仕えあって生きて行くならば、教会は癒しの場になっていくのです。

 みなさん、残念なことですが現実の教会は多くの教派に分かれてしまっています。それは、それぞれの教会が語る教えと福音理解の中に微妙な違いがあるからです。そしてその違いがそれぞれの教派・教会の伝統を生み出している。もちろん、大同小異で、そのような違いがあっても私たちはキリスト者として互いを受け入れることができますし、そのような違いがあるからこそ、良い広く福音が伝えら得ていくという良い面もあります。

 ですから、か鳴らす死もそのような違いを否定的に捉える必要はない。そして、教派の違いや教会の違いを積極的に受け止めて行って良いうのです。しかしそれでもなお、そのような違いを持ちつつも、それぞれの教会が「教会の一致」を生み出していくとするならば、それは、互いに仕えあい、教会の中で、また「この世」に向かってなされる奉仕の業によってなのです。

 みなさん、詩篇133篇には「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」という言葉があります。この詩篇133篇は、都のぼりの歌という範疇に収められている歌ですが、イスラエルの民が、祭りの際にエルサレムを目指して一緒に旅する時に歌われた歌だと言われます。

 当時の旅は、今とは違って決して楽なものではなく、様々な危険が伴うものでした。そのような旅を、ともに道行き旅する者たちが、互いに支え合い助け合いながらエルサレムを目指して旅して歩く中で「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」と歌うのです。
 それだけではない。その歌は、「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」と歌った後、「それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ」と続きます。

 アロンとは、モーセの兄でイスラエルの民の中で最初に大祭司となった人物です。そのアロンの頭に油が注がれるというのは、まさにアロンが大祭司としての務めに任職された場面を表している。祭司の務めは、神と人との間のとりなしをすることであり、和解と回復の務めです。ですから、私たちが、互いの仕えあい、互いに相和合して生きるとき、そこには神と人とを執成すキリストの奉仕の業が表され、そのキリストの業を指し示す私たちの奉仕の業が表されて行くのです。

 みなさん、祈りは、個人的な願いを願う場でもありますが、それ以上に、私たちを取りまく世界やそこに住む人々のことを思い、その人々のために祈るとりなしの業であり、奉仕の業です。そして、私たちは一つになってその奉仕の場に私たち招かれ、呼び集められています。和合し、平和を産み出すために、私たちは召されているのです

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