2024年3月7日木曜日

言葉や口先ではない愛を


新約聖書のヨハネ第一の手紙3章18節に

子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。

という言葉があります。この言葉は、愛すると言うことが主題です。しかも、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言うのですから、具体的に愛すると言うことが形となって現れてくると言うことです。

 ある方のお宅を訪ねて時のことです。その方は、車いすでの生活を余儀なくされておりますが、ほとんど毎日、福祉ボランティアの方が身の回りのお手伝いをしてくださっています。
 私は、そのボランティアの方の働いている姿を見ながら、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛する」ということは、「ああこういうことなんだな」とそう思いつつ、その方のなさることを這う件しながら、私はそのように、お世話をしてあげる力の源は何だろうかと考えてみましたが、結局、その力は、私たちの内に在る愛から湧き出てくるのだとしか考えられないのです。相手の方を想い、相手の方の気持ちになって、その方が喜んでくれることをしようとする。それは、私たち人間の内に与えられた愛というものからしか出てこない思いであり、行動なのです。

 このお世話をしてくださっている方は、それこそ、言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実をもって、愛すると言うことを実践しているのです。それは、私たち人間は、すべからく、心の中に愛というものが与えられているからです。聖書は、私たち人間は、神の像に造られたと言います。それはまさに、私たち人間が愛する者として造らいるということだと言ってもいいだろうと思います。
 なぜなら神の像というのは、互いに愛し合う心なのです。考えてみますと、聖書は愛すると言う主題が一貫してつらぬかれている書物だと言えます。例えばマルコによる福音書12章28節から34節では、イエス・キリストは、聖書が言っている内容を要約して言うと

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

となると言っています。

興味深いことですが、旧約聖書には、雅歌と呼ばれるものが含まれています。この雅歌は、男女の赤裸々な愛の告白が綴られている書物です。それはまさに、男と女が愛し合うような愛の関係の中に神の像が顕さてくるからです。その雅歌の2章16節には「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉が記されています。
 この「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」と言う言葉は、この言葉祖通りに受け止めるとするならば、互いが互いに与え合うところの麗しい愛し合う者の姿を現しています。つまり、愛とは、自分の持てる者を与える行為であると言うことです。時間を与え、労力を与え、自分の持てる者のすべてを相手に与える。そのような愛で愛し合う姿がそこにある。

 人間とは、そのような愛で愛し合うものだ。そのような愛で愛し合うものとして神が人間をお造りになって下さっている。だからこそ、先ほどお話しをした車いすの方をお世話くださっている方のお姿に、愛が顕れ出ていると感じるのです。それは、人間の本性に神が神の像として与えてくださった愛があるからです。
 しかし、同時に、神はイエス・キリスト様と言うお方のご生涯を通して、その私たち人間に与えられてるより深い可能性を私たちに見せてくださっている。そしてそれは、敵をも愛し、迫害する者のために祈る、そんな愛です。マタイによる福音書5章43せつ44節には次のようなイエス・キリスト様の言葉があります。

43:『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44:しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

 本来なら、敵は憎むべき相手です。そして迫害し危害を与える相手は、愛するどころか顔も見たくない存在です。呪うことはあったとしても、その人のために祈るということなど考えられないことです。けれども、イエス・キリスト様は、そのような敵や、迫害する者でも愛しなさいと言われる。そして言われるだけではない。それこそ、ご自分を十字架に架けて張り付けた人々に対して、「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです」といって、執成しの祈りをささげる。ルカによる福音書23章34節に記されている出来事です。
 そこには、まさに「言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実とをもって愛そうではなうか」と言われる愛を生きるイエス・キリスト様のお姿がある。そのお姿を、弟子たちは後の時代の人に語り伝え、そして書き記していったのです。

 この聖書の言葉を書き記しているのは、イエス・キリスト様弟子であるヨハネです。ヨハネは、本当に行いと真実をもって敵を、そして迫害し、危害を加え、ご自分の命を奪おうとする者までをも愛されたイエス・キリスト様のお姿を、すぐそばで見ていた人です。そのヨハネが、彼の周りにいた人々に「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と言うのです。
 このヨハネという人は、かつてはボアネルゲ、すなわち雷の子と言われるぐらい怒りやすい人でした。それこそイエス・キリスト様を受け入れない人たちを、天から火を呼び寄せて焼き払ってしまいましょう(ルカ9:54)なんてことを平気で言うような人でした。
 そのヨハネが、行いと真実をもって敵をも愛し抜かれたイエス・キリスト様のご生涯を、すぐそばで見ていく中で「愛の使徒」と呼ばれるように変わっていた。そして、こんどはヨハネ自身が、自分の弟子たちに「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と教え諭すものとなっていったのです。

 伝説では、ヨハネはイエス・キリスト様を信じる者たちの集まりに顔を出した時に、最初に口を開く言葉は「兄弟たちよ、互いに愛し合いましょう」と言う言葉であったと言われます。それは、互いに愛し合うところに神の愛が顕われ出てくるからであり、イエス・キリスト様のお姿が顕われ出るからなのです。そして私たちも、ヨハネにように変わることができます。神を信じ、イエス・キリスト様の生き方に倣って生きるならば、わたしたちも愛の使徒になれるのです。

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