新型コロナの感染拡大で、ここ数年はあまり見られなくなりましたが、以前はmクリスマスの頃に、夜、繁華街を歩いていると、ほろ酔いかげんの方や酔っぱらってしまっている方と出会うことがよくありました。そんなとき、私は自分自身の昔の姿をを思い出していました。それは、私が高校生の頃のことです。
その当時、私はクリスチャンではありませんでした。ですから、クリスマスがやってきても、クリスマスの意味なんか考えずに、とにかく、クリスマスは楽しく騒いで過ごすもの程度にしか思っていませんでした。そんな中で。高校3年のクリスマスに、仲間と集まってクリスマスパーティーを行ないました。その時のパーティは、まさに私にとっては「どんちゃん騒ぎのクリスマス」でした。
高校3年生ですから、当然、お酒など飲んではならないのですが、そのころは若い頃の勢いで、仲間が集まるとそこでお酒を飲むということが時々ありました。しかし、私は、もともといわゆる下戸でお酒は体が全く受け付けません。お酒を美味しいと感じることはなく、むしろまずいとさえ思っていましたので、お酒を口にするということは、ほとんどありませんでした。
しかし、クリスマスパーティーで、私もはじめて、ぐでんぐでんになるまで酔っぱらってしまいました。あんまり酔っぱらいすぎて、腰が抜けてしまって歩けなくなってしまって、友達にオブられて家に帰らなければならないほどでした。当然のことですが、翌日は二日酔いで頭が痛いやら、気持ち悪いやら、もう最低の気分でした。それも今にしてみれば、実に苦い思い出です。もちろん、クリスマスは楽しい喜び日です。でも、その喜び楽しさが、ただのどんちゃんで終わってしまったら、ちょっと寂しいですよね。
ほら、「祭りの後の寂しさ」って言葉があるじゃないですか。祭りをただ楽しく過ごしただけなら、楽しかっただけに、後には寂しさが残る。ましてや二日酔いが残ったら、寂しさに気持ち悪さが加わるわけですから、もうどうしようもありません。
意外なことですが、キリスト教があまり盛んでは日本では、クリスマスがキリスト教の三大祝祭の一つであるということを知らない人が多くいます。けれども、クリスマスは、教会が神と信じ崇めるキリストが、人となってこの世にお生まれになったことを祝う日です。なぜ、神であるキリストが、人となってこの世に生まれたのか。聖書は、その理由を、神が、この世界の中で苦しみ生きる私たち人間の救うためであったと教えています。それほどまでに、神は私たちを愛して下さったのです。
私たちが「この世」と言う世界で苦しんでいるといっても、世界の中では、比較的物資に恵まれ、経済的には裕福な国とされる日本では、なかなかぴんと来ないかもしれません。しかし、現実には、人間関係や家族問題、また病気や差別などの様々な苦しみや悲しみが私たちの周りには溢れています。国としては経済的に恵まれているとしても、実際には格差が大きく、経済的な苦しみを経験している人も多くいるのです。
そのような苦しみや悲しみから、神は「わたしたち」を救うために、神の独り子であるイエス・キリスト様をこの世界に送り出し、人として生まれさせたことを記念して祝うのがクリスマスなのです。しかし、だからといって、この世界から病気がなくなり、貧困がなくなり、戦争や争いがなくなったかと言うと、そんなことはないことは火を見るより明らかです。人間関係や家族問題だっていつの時代にもある。そのいみでは、イエス・キリスト様が、この世界にお生まれになってから二千年以上たっていますが、この世界の中から苦しみは相変わらず、私たちの世界にはびこっているのです。
それは、この世界の中にある苦しみの多くは、「わたしたち」人間の過剰な欲望がもたらしているからです。欲望というのは、人間にとって必要なものです。欲望があるから人間は向上することができるからです。しかし、過剰な欲望は人の心から大切なものを奪い去っていきます。過剰な欲望が奪い去っていく「わたしたち」の心の中の大切なもの、それは愛です。人を思いやり、人の尊厳を重んじる愛です。そして、人の心から愛が奪われていくところに、自己中心な思いという罪が入り込むのです。
一口に人間の自己中心な思いと言う罪といっても、それは、様々な姿をとって現われます。時には、犯罪という法律を犯す形で現われたり、嘘や不道徳といった倫理的過ちの姿を採る時もあります。あるいは、嫉妬や妬みといった心の醜さとして現われたりと様々です。場合によっては正義感が行き過ぎて、過剰な報復行為といった形で現れることさえある。このように、罪というものを法律上の犯罪、倫理道徳上の過ち、そして、心に中の醜さや汚れ、更には過剰な正義感がもたらす報復と言ったところまで深めていきますと、私自身も罪とは無関係とは言えないなぁと思わされます。
私が、牧師となるために神学校と言うところで学んでいたときのことです。私が学んでいた神学校は、ごくまれに例外もありましたが、基本的には全寮制でした。家族を持っている人も家族寮に入り学ぶのです。その神学校で学ぶ神学生は、毎朝6時から、聖書を読み、そして聖書からの短いメッセージを聴き、そして祈りのときを持つという朝の祈りと時をもつのですが、クリスマスを控えたある朝に、いつものように朝の祈りの時間に、お祈りをしていました。
そのとき私は、お祈りしながら自分の様々な罪が心に思い出されてきました。それは、私の過剰な欲望がもたらした自己中心的な思いh式起した罪であり、加害者としての罪です。同時に、私の周りの人の過剰な欲望がもたらす罪で苦しんできた罪の被害者としての自分もいる。そのような私を神はそのまま受け止め、愛して下さり、私の心に慰めと愛とを注ぎ、生きる力と希望を与えてくださっているのだと思うと有り難いやら嬉しいやらで、涙が溢れて仕方ありませんでした。
私たちが救われるためには、お金が必要かもしれません。問題の解決も必要でしょう。しかし、根源的に必要なことは、愛されることであり、希望がもたらされることなのです。愛されるって、嬉しいことですよね。希望があるということは本当にありがたうことです。イエス・キリスト様が、この世界にお生まれくださったのは、「わたしたち」が苦しみ悩むときにも、寄り添い共に生きてくださる神の愛を示し、神様がわたしたちを愛しておられと言うことを告げ知らせるためです。そして、イエス・キリスト様が十字架の上で死に、復活なさることで、死と言う人間の最大の苦しみと悲しみですら乗り越えていくことができるという希望を綿日立に告げ知らせるためなのです。
クリスマスが、そのような神の愛で私が愛されていると言うことを知り、私たちには希望があるということを告げしらせるその愛と希望を記念する日として過ごせたら、クリスマスは、決して寂しさや気持ち悪さが残るような楽しさではなく、あなたの人生にいつまでもの楽しさが残る喜びの日になると思います。
多くの教会では、クリスマスには、クリスマス礼拝といって特別な礼拝を持ちます。クリスマスイブの深夜に礼拝を持つところもあります。ですから、あなたも教会のクリスマス礼拝で、神の愛にふれ、いつまでも残る喜びの日としてのクリスマスをお過ごしていただければと思います。
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