2023年12月17日日曜日

神の言の到来

 待降節第三主日礼拝説教

旧約書:箴言16章1節から3節
福音書:ヨハネによる福音書1章1節から18節
使徒書:ペテロ第一の手紙5章8節

 

 待降節第三週になり、来週はいよいよクリスマス礼拝になります。その待降節第三週の礼拝説教の中心となります聖書箇所はヨハネによる福音書1章1節から18節です。
 この箇所は、神の言(ことば)であるイエス・キリスト様が人となってお生まれくださったということを示しています。この「言(ことば)」はいわゆる言葉ではなくギリシャ語のλόγος(ロゴス)で、論理とか論証といったニュアンスを持つ言葉です。つまりλόγος(ロゴス)とは、物事を秩序正しく論理立て明らかにしていく言(ことば)がのです。
 そのλόγος(ロゴス)という言葉を用いながら、イエス・キリスト様が神のλόγος(ロゴス)であるというのは、それまで預言者たちを通して物語られていた旧約聖書の物語が、単に絵空事のおとぎ話や空想話でも神話でもなく、まぎれもなく神様が物語られた真実の神の救いの物語なのだということ、イエス・キリスト様のご生涯によって明らかにされたのだということなのです。

 では、その神の救いの物語とは何かというと、暗闇に光がもたらされ闇の包まれた世界に照らされるということなのです。だから、クリスマスには蝋燭の光が灯される。キリスマスは暗闇の中にあるこの世界に、イエス・キリスト様という光がお見えになったのだ。そのことを象徴的に表すために、蝋燭の明かりを用いるのです。
 それは、イスラエルの民にとっては、過去において、エジプトやアッシリア、バビロンといった外国の強大な力によって支配されて奴隷として過ごした暗闇のような世界に生きたイスラエルの民を、神がその支配からの解放してくださったという救いの物語が、単に伝説や神話の中の物語ではなく、たしかに神の救いの物語として事実であったということを明らかに論証する出来事なのだというのです。、今まさに、暗闇に支配されている人々を解放する光である救い主キリストの到来の出来事なのだというのです。
 それだけではない、その神の救いの物語は、今、まさにこの暗闇に覆われた世界に起こっている。確かに暗闇に光がもたらされ、この世界の闇が払われ、この世界に救いがもたらされ、神の恵みと愛が支配する神の王国が到来したのだ。この福音のメッセージがイエス・キリスト様のご生涯の物語によって論証されると、このヨハネによる福音書の著者は、この福音書を読む読者に、そう語るのです。
 では、その読者とはいったい誰なのでしょうか。もちろん、私たちもその読者のひとりなのですが、このヨハネの福音書の著者が思い描いていた読者は、この福音書が書かれた時代の人たちです。
 ヨハネによる福音書が書かれた年代というのは、定かではありませんが、紀元50年事から90年頃ではないかと言われます。1世紀前半のアンテオケのイグナティウスという人の書いた手紙にはヨハネによる福音書の繁栄が見れますので、その当時には、この福音書が存在していたこと間違いはありません。ですから、この福音書の著者が想定した読者は、1世紀後半の人々です。ですから、イエス・キリスト様を直接は知らない人々です。
 しかも、あえてλόγος(ロゴス)というようなギリシャ哲学的な言葉遣いをして読者の関心を引き寄せようとしている。このギリシャ哲学的な言葉使いから、読者は異邦人ではないかとかんがえられたりもしますが。ヨハネによる福音書のメッセージは、支配されている人々がその支配から解放されるというものであり事を考えると、ギリシャ文化の中で生きているユダヤ人と言った感じかなと思いますし、近年の研究では、そのようなギリシャ的な素養を身に着けたユダヤ人がパレスティナ地方にも数多くいたことがわかっています。

 いずれにせよ、ヨハネによる福音書の著書は、ギリシャ的素養は身に付けてはいるけれども、ローマ帝国の支配のもとにあるユダヤ人のような人々に、「確かに暗闇に光がもたらされ、この世界の闇が払われ、この世界に救いがもたらされ、神の恵みと愛が支配する神の王国が到来したのだ。この神の救いの物語がイエス・キリスト様のご生涯の物語によって論証される」と語りかけるのは、現実には紀元50年から90年頃に社会情勢では、ローマ帝国の支配は続いており、その支配はまだまだ長く続き、終わることがないように思われるからです。

 しかしこのヨハネによる福音書の著者は、それでもなお、確かにイエス・キリスト様によって光はもたらされ、暗闇は取り去られるという神の救いの物語は明らかですというのです。では、どこにある暗闇が取り払われたというのでしょうか。依然、世界は闇に覆われているかのような状態なのです。

 それは、私たちの心の内にある闇です。間違えられてはいけませんの申しあげますが、イエス・キリスト様は、この世界を覆う闇をもたらす罪と死の支配に対しても、完全に勝利なさっています。確かに、依然としてこの世界に闇が覆われている状況があるのは、事実です。それは、依然、私たちの心の中に闇が残されているからです。
 ヨハネによる福音書10節,11節には

   彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
   彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。

とあります。
 口語訳聖書は「世は彼を知らずにいた」ですが、聖書協会共同訳では「世は言(ことば)を認めなかった」となっています。イエス・キリスト様が神のひとり子であることを認めず、救いの主であることが知られていないというのです。それだけでなく、拒絶する人さえいるというのです。

 しかし、今、私が申し上げた心の暗闇というのは、そのような人々の心の内にある暗闇というだけではなく、神を信じる者の中にもあるのです。そしてそれは、私たちの心の執着がもたらす闇だと言っても良い。私たちがギュっと握りしめているもの、もちろんそれはひとり一人違っているとは思いますが、その握りしめている思いが、私たちの心を暗闇に包ませてしまうのです。

 私は、先日まで入院していましたが、そこで学んだことは、諦めるということです。病気になると、どんなに頑張っても、自分で自分の体をどうすることもできません。それこそ、今まであったこともない、どんな人かもわからないけど、そこに医師がおられるというそのことを信頼して、自分の体を、自分自身の手から手放して医師に委ねなければならない。自分自身で何とかするということを諦めて、医師に委ねる。医師の力量や能力を信じて、自分自身をゆだねなければならないのです。

 このヨハネによる福音書には、「世は言(ことば)を認めなかった」とあります。人々がイエス・キリスト様が私を救う救いの主であるとは認めていない。いえ、救い主として認めていても委ね切れているかというとゆだねきれないでいるのです。それは手放すことができないからです。

 私たちは、小さい時から何かを獲得することで喜びを手にしてきました。また何かができることで、人にも喜ばれ、賞賛を得てきました。ハイハイができるようになり、立ち上がり歩けるようになり、言葉が話せるようになる。そうやって、何かができること、何かを得ることに喜びを見いだし、何かを手に入れることを大切にしてきたのです。

 そしてテストや競争で良い成績を収めることを目標にしてきた。でも、自分のちからでではもうどうしようもない壁にぶつかる時がある。どのときに、その思いを握りしめて手放すことが出来なければ、そこには絶望の闇しかないのです。そして、その闇を振り払うためには、誤った方法で、その願い求める者を手に入れるしかなくなるのです。
 それがどんなに大切な思いや願いであっても、それを握りしめていた手を開き、それを手放し、自分自身を救い主である神の御子イエス・キリスト様に委ねる。このお方こそ、神の御子であり、救い主であると信頼し、このお方に自分自身の身をゆだねる。それが人々にできなかったとこのヨハネによる福音書の記者は、言うのです。

だから、人々の心の、そして「あなた」の心にはまだ暗い闇が覆っている。また世界のまだ暗闇に覆われている。欲しいものが手に入らない悲しみで心がやむにおおわれている。でも、イエス・キリスト様はその闇に既に勝利しているのだから、この方を神の御子であり救い主とて信頼しきって、あなたの人生を、このお方にゆだねようよ。神の救いの物語は、間違いなく、イエス・キリスト様によって明らかに論証されているのだからと、このヨハネによる福音書の記者は、読者たちに語りかけているのだと言えるでしょう。

 実際、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。この言(ことば)は、初めに神と共にあった」と言われた、またイエス・キリスト様は、「言(ことば)の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった.光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」と言われた、イエス・キリスト様のご生涯において、このお方に関わった人たちに何が起こったのかを書き記しています。そこには病からの解放があり、社会的な抑圧や偏見からの買う方があり、支配者に対する明らかにな否が突きつけられ、その支配者たちがイエス・キリスト様に対して下した十字架に死に対して、死からの復活ということを通して、支配に対する勝利と解放を示しているのです。だから、イエス・キリスト様を信頼して、あなたの人生をすべてイエス・キリスト様に委ねてごらん。このお方を、救い主とてあなたの心に迎え入れようよと、この福音書の著者は呼び掛けているのだといっても良いでしょう。

 みなさん、私たち先ほど旧約聖書の箴言16章1節から3節のお言葉に耳を傾けました。そこには、

心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

「舌の答は主から出る」とは、神が私たちに心に思い描く計画や願いがあり、それを実現しようとしてあれこれ口に出してその計画を話したとしても、それが実現するか否かは、神様の手の中にあるのだということを意味するでしょう。だから、「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」というのです。

 この箴言は、父が子に、幸せに生きるためにはどうしたらいいのかということを、教訓をもって教え諭すものです。その父の教えとして「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」というのです。その箴言の言葉に呼応するように、あなたの人生を、このお方にゆだねようよ。神の救いの物語は、間違いなく、イエス・キリスト様によって明らかに論証されているのだからと、このヨハネによる福音書の記者は、私たちに語りかけるのです。
 それはヨハネによる福音書の著者だけはありません。ペテロ第一に手紙の著者も、「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」というのです。

 みなさん、「思い煩い」は、私たちの執着する心が生まれるものです。その執着する心は、神を信頼し、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を信じ、信頼し、そのお方に自分自身をゆだねることなのです。そして、神様は、そしてイエス・キリスト様というお方は、私たちの思いと願い、そして私たちの人生を負委ねするに十分に信頼できるお方なのです。

 来週は、そのイエス・キリスト様がお生まれくださったクリスマスです。そのことを覚えつつ、しばらく心を静め、自分の心を見つめ、私たちは何に執着しているのか、静かに自分自身を見つめたいと思います。静まりの時を持ちます。

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