2023年12月23日土曜日

下向する神

私たちの国、日本では何か優れた人、特別な能力を持つ人を神として崇めるという感覚がどこかにあるようです。たとえば天満宮は菅原道真を神として祭っている神社ですし、日光東照宮は徳川家康を神として祭っています。現代において、何かカリスマ的な存在の人を神と呼んだりするのも、それに近い感覚があるのかもしれません。
 人は努力し頑張ることで、より高い能力や実力を身に着けることができます。その意味で努力は私たちを裏切りません。そして、私たちはより高い高みを目指して頑張るのです。しかし、聖書の神は、全く逆の方向性を示しています。それは高みから夜低い所を目指す神の姿です。神が神であられるのに、人となるという下向する神の姿です。
 イエス・キリスト様は神のひとり子であられたのに、あえて人となってこの地上にお生まれ下さいました。しかも、初めから大人の人間の姿をして顕われたので絵はなく、処女マリヤを母として、赤ん坊として生まれ、子供の時期を生き、そして成長して大人になるという人間の成長の過程を一つ一つ経験為されたのです。それは、「わたしたち」人間が経験する様々な苦悩や悲しみ、そして心の痛みを「わたしたち」と同じように経験をなさるためです。
 その最初がクリスマスの出来事です。クリスマスの出来事は、飼い葉おけの中で始まります。神であられたお方の人としての人生の出発が飼い葉桶から始まる。なんともみじめな始まりなのかと思います。そして、その人生の最後は、イエス・キリスト様が苦楽を共にした弟子の一人であった者の裏切りにより、処刑されるような罪など何もないのに、ムチで皮膚が引き裂かれるほどに打たれ、茨の冠をかぶせられ十字架刑という当時もっとも残酷で苦しんで死んで行かなければならないような処刑方法によって死ななければならなかったのです。
 神の御子が、そのような悲惨な人生を生きられたのは、「この世」という世界の中で、苦しみ、苦悩し、心を痛め、悲しんでいる人の苦しみや悲しみを神の御子自身が経験し、その苦しみや、悲しみや痛みというものを身をもって知るためです。知らなければ、人々の苦悩や、悲しみ、そして心の痛みに寄り添えないからです。神様は、天という高みから、私たちを見下ろし、憐れんでやろうというのではなく、神であるのに天から下向し、人として共に苦しみ、共に悲しみ、共に深い心の痛みを感じながら、共に生き、私たちと共に神の国という高みを目指し、そして共に歩んで下さるのです。そうやって神様は、そして神のひとり子である御子イエス・キリスト様は私たちの存在を掬い(すくい)取ってくださるのです。
 クリスマスは、その神の掬いの業が始まる第一歩が踏み出されたことを私たちに伝える日です。飼い葉おけに寝かされた神の御子を指し示す日です。そして、「あなた」の心の中にある、深い悲しみや痛み、そして悲しみを飼い葉桶として、神の御子イエス・キリスト様があなたの心の中にお生まれ下さったことを、「わたしたち」に告げ知らせる日なのです。
 その日組に降って下さった神について、私の友人の岩本遠億牧師が、ご自身のホームページ『366日元気の出る聖書の言葉』で「低められたひとりとして」という短いメッセージを述べています。3分にも満たない短いメッセージですが、同名の自分の著書『366日元気の出る聖書の言葉』の中にある者を、岩本牧師自身が音声で語ったものです。岩本牧師のご許可をいただいてそのホームページのアドレスを下記に掲載します。そのアドレスをクリックして下さり、新しく開かれたページにある「低められたひとりとして」というタイトルのところにある▶をクリックして下されば、そのメッセージをきくことができますので、ぜひ合わせてお聞きください。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2dj3ck?fbclid=IwAR0l3U0b4B0ZC3VtPRQEs8s7hNIEL66th1555shNQfn6Su8seQo46DRzJ6w 

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