クリスマスにとってプレゼントは欠かせないアイテムの一つになっています。私たちも、毎年子どもたちにどんなプレゼントをするか頭を痛めたものです。子育てが終わって、子供へのプレゼントは考えなくてよくなったのですが、今度は孫へのプレゼントで悩んでしまっています。でも、どうせプレゼントをするなら、本当に喜んでもらえるもの、本当に欲しいと思っている者を挙げたいと思います。そんなプレゼントに関する話が聖書の中にあります。それは、新約聖書の使徒言行録3三章1節から11節書かれている話しです。
ある時、イエス・キリストの12人の弟子の中のペテロとヨハネという人に、生まれつき足が悪くて歩けない男が、物乞いをして来ました。二人は、その様子をじっとながめていましたが、やがて「金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい。」と言って、その男の手を取って立たせたのです。
すると、その足が悪くて歩けなかった男が立ち上がり、歩き回ったり、飛び跳ねたりすることができるようになったのです。もちろん、その男の喜びは言うまでもありません。それで神を賛美しながら、ペテロとヨハネについていったというのです。この男は物乞いをしていたのですから、欲しかった者は、お金ではありません。なのに、「金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい」というペテロとヨハネの言葉は、この男の願いとは違う的外れのように、思われます。しかし、そうではなかったのです。この男が、物乞いをして金品を求めたのは、足が悪くて歩けなくて、それで生きていくために仕方なく物乞いをするしかなかったからです。そして、ペテロとヨハネは、この物乞いをしている男の様子をじっと見つめ、この男が本当に求めているものは何であり、本当に必要なものは何なのかに気が付いたのです。
しかしこの話は、単に信仰を持つと病気が良くなるというようなことを言おうとしているのでありません。「いやいやそんなことはないだろう、この男は、ペテロとヨハネに『金銀は私にはないが、あるものをあげよう。キリストの名によって歩きなさい。』と言われ、足が癒され立上がり、喜んで踊り題したじゃないか。だとしたら、この男が本当に求めていたものは、足が歩けることだったのではないか」と反論されるかもしれませんが、必ずしもそうではないのです。
聖書の時代のユダヤでは、足が悪くて歩けないとか、手が悪くて動かないということは、罪を犯した結果、神の裁きでそうなったのだと考えられていました。もちろん、それは全くの迷信で、そんなことはないのですが、当時は、そう思っていたのです。ですから、この男の、何か罪を犯したから神の罰を受けて歩けなくなったのだと軽蔑され、卑しい者だと見られていたのです。
ペテロとヨハネは、物乞いをする男の様子に、そのように人に蔑まれながら生きている人の悲しみやみじめさを感じ取ったのだろうと思うのです。だからこそ、もう誰からも蔑まれなくて言いように、歩くことが出来るようにしてあげたのです。そうやって、人から蔑まれながら生きている悲しさやみじめさから解放し、人としての尊厳を回復したのです。
この話は、私自身の姿にも重なります。私には、音痴という大きなコンプレックスがありました。私が歌を唱うと、「へたくそ」と軽蔑されるように思えてしかたがありませんでした。ですから、音楽の歌のテストは、恥ずかしいやらみじめやらで、結局最後まで唱わずに通したこともあったんですよ。人にダメなやつと、軽蔑されるのが恐かったんですね。
それは、あの足の悪い男と比べると、些細なことですが、でも私にとっては、大きなコンプレックスとなって、私の心を縛り付けていたのです。けれども、キリストを信じてからは、そんなコンプレックスから解放されました。歌がうまかろうとへただろうと、そんなことは神様の前では関係ありません。神様は、私を一人の人間として尊び、大切に思ってくださっているのです。ですから今では教会では大きな声で賛美歌を歌います。同じように、神の御子であるイエス・キリスト様も決して私を蔑むことをなさいません。むしろ、私を高価で尊い価値ある者として、愛し受け入れて下さっています。
そして、その神様と神の御子であるイエス・キリスト様は、「あなた」も価値ある大切な人として、愛し受け止めて下さっているのです。ですから、あなたにも、是非この神様を信じ、イエス・キリストを信じ、心に受け入れてしいと思います。
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