神様は人間ではありませんし、人間は神様ではありません。人間の中には神のような人はいるかもしれませんが、それでも神様と人間との間には絶対的な差異があります。しかし、その神様と絶対的に差異がある「わたしたち」人間とが神様とは一つになる事が出来ます。少なくとも聖書はそう言います。
いえ、「わたしたち」人間は、もともと神と一つに結ばれた存在として神様から創造されているのです。この神と人とが一つに結ばれていることをヘブライ語では「インマヌエル」と言います。日本語では「神われらと共にいます」と訳されます。神様と人間との間には決して超えることができない溝があります。しかし、その深い溝を乗り越えて、神様の方が人間に歩み寄ってくださっり、人間と共にいて下ることが、「インマヌエル」ということなのです。
そのように、「わたしたち」は元々神様を信じ、神様と共に生きる者として造られているのです。J.L.バレットというアメリカの学者が書いた『なぜ子どもは神を信じるのか?』という本に、大変興味深いことが書いてありました。このJ.L.バレットという人は、宗教認知科学や主教心理学と言った分野の研究者ですが、最近の研究では、「人間は生まれた後、教え込まれたり布教されることで神を信じるようになるのではなく、もともと生まれたときに神を信じる心の構造あるいは、神を信じる能力といったものをもって生まれてくるのだ」ということが明らかになっているというのです。
このことは、別段、驚くことではありません。というのも、このことと類比されることが、言語学という学問の世界では、ずいぶん言われていることだからです。そしてチョムスキーという学者によってもたらされた「生成文法」という考え方です。チョムスキーは、一般的に子供は、生まれて3~4歳になると、母国語を、教えられることなく、ほぼ完ぺきな形で話し出すことに着目します。それは日本語のような、非常に難しい言葉であっても同じです。そこでチョムスキーは、人間は生まれながらして、自分自身の中に文法を形成するもととなるものあるいは能力を持っており、それによって母国語の文法を自分自身の中に生成していくのだと考えたのです。そしてそれは、今日の言語学ではほぼ常識のこととなっています。
それと同じように、人間は、神を信じる者として、神を信じる能力をもってこの世界に生まれてくると認知学上は言えるのだというのです。そしてそれは、人が神と共に生きる「インマヌエル」ということなのです。ところが、人間は、だんだんと成長していくとその神から離れ、神とと共に生きるのではなく、自分自身の力で、自分一人で生きようとするのです。
しかし、実際は、それは自分自身の力で一人で生きているのではないのです。神様と共に生きるのではなく、神様から離れて、むしろ神様に背を向けて罪と悪にそまった「この世」という世界と共に生きているのです。
そのような世界に神様は、神の独り子であるイエス・キリスト様を人として、人の肉体を持つ者としてお生まれになられたのです。ですから、イエス・キリスト様がお生まれになったことを、神学用語では受肉というのです。この受肉なさったイエス・キリスト様を、神様は「インマヌエル」と呼ばれました。まさにイエス・キリスト様という存在の中に、完全な神と完全な人とが一つに結び合わされているからです。まさにイエス・キリスト様という存在の内に、またそのご人格の中に「インマヌエル」ということが現れ出ており、イエス・キリスト様のご生涯の歩みが、神様と共にいきる「わたしたち」人間のあるべき姿があるのです。
最も原初の教会にあって、後の時代のキリスト教、特にカトリック教会やプロテスタントの諸教会に大きく影響を与えた人物の一人のパウロという人は、しばしば、「エン キリストゥー」という言葉を用います。この言葉は日本語では、「キリストにあって」とか「キリストの内に」と訳されていますが、この言葉の真意は、私たちがイエス・キリスト様と一つに結ばれるということです。私たちはイエス・キリスト様と一つに結ばれることで、神様の救いの業に与ることができ、私たちはイエス・キリスト様と一つに結ばれることによって、神の業を行うことができるのです。
この神の業を行うということは、イエス・キリスト様のように奇跡を行ったり、不思議な業を行うといったことでもなければ、イエス・キリスト様のように病気を治すといったことではありません。神の業とは、私たちが、私たちの周りにいる人を愛し、慈しみ、たがいに赦しあうことです。神様から離れ、神に背を向けて生きて行くとき、「わたしたち」は自分自身が好きな人、自分自身が尊敬できる人を愛するということはあっても、自分自身が嫌いな人や、自分自身に敵対するような人は、憎んだり蔑んだり、嫉妬したりします。それが、神様と共に生きることから離れ、この世という世界と一体になって生きる「わたしたち」の現実の姿です。
そんな「わたしたち」に、神様は問いかけておられます。「あなた」はそのような現実の姿のままで良いのですか?「あなた」はそんな現実の姿から、変わりたくありませんか?と。
先ほどのパウロという人は、二千前のローマ帝国下の支配にある地中海世界の中に生きる教会の人々に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と呼びかけています。それは、イエス・キリスト様が、私たちに対してお示しになったお姿であり、神様が私たちにお示しくださったお姿です。神様は、「わたしたち」と共に歩んでくださるお方です。「わたしたち」が喜ぶ時「わたしたち」と共に喜び、「わたしたち」がなくときに共にないてくださるお方です。だからこそ、パウロが呼びかける「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という生き方、その根底には、私たちの周りにいる人々、それは敵味方、好き嫌い、尊敬できる出来ないに関わらず、愛し慈しみ、互いにゆるしあうという精神があるのですが、そのような精神に生きる生き方は、神の業なのです。
パウロが二千前にの教会に呼び掛けた生き方は、2千年たった今の教会にも呼びかけられている言葉です。そして、その言葉は、今日のキリスト教会の目標でもあります。キリストにある(エン クリスト―)の教会はそのような教会を目指して歩んでいます。まだまだ府観戦ではありますが、イエス・キリスト様と共に、そしてイエス・キリスト様のように生きようとする人々の共同体が教会というところなのです。
「神われらと共にいます」というインマヌエルであるイエス・キリスト様が受肉なさったこと記念するのがクリスマスです。そのクリスマスの時に、よろしければ、是非、教会をお訪ねなさることをお勧めします。
この神様が私たちと一つになり、私たちが神様と一つになるということを、別の角度から捕らえて語った三分弱の短いメッセージがあります。それは、私の友人の岩本遠億牧師の「一つになる祈り」というメッセージです。岩本牧師からご許可をいただいて、そのメッセージが聴くことができるページのアドレス下記に記しておきます。そのアドレスをクリックし、岩本遠億牧師の『366日元気の出る聖書の言葉』の頁に行き、「一つになる祈り」というタイトルのところにある▶マークをクリックしてしてください。そうすればそのメッセージを聴くことができます。
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