23年12月第一主日待降節第主日礼拝「神は決して諦めない」
旧約書:マラキ書4章から5節
福音書:ルカによる福音書2章8節から20節
使徒書:へブル人への手紙13章1節から6節
12月に入り、今年のクリスマスの時を持ち望むアドベントに入りました。そのアドベントの第一主日の礼拝の説教の中心となります箇所は、旧約聖書のマラキ書第四章、聖書協会共同訳ですと3章になります箇所です。そして、その中心となりますのは口語訳聖書では2節、聖書協会共同訳では20節になります
しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。
というお言葉です。その中でも着目すべき言葉は「義の太陽がのぼり」という言葉です。
この言葉が記されているマラキ書というのは、一見してわかるように旧約聖書の最後の書です。そしてその旧約聖書最後の書であるマラキ書の最後の章が、口語訳聖書では4章、聖書協会共同訳聖書ですと3章なのです。
もっとも、旧約聖書のもともとの原語であるヘブライ語で聖書では、順番が、わたしたちが手にしている旧約聖書とは違っていて、歴代誌が最後の書となっています。というのは、ユダヤ教では旧約聖書を律法、預言書、諸書という順番で区分するからです。
ちなみに、余談になりますがユダヤ教では旧約聖書をタナハあるいはタナクと呼びます。それは、この律法(トーラー)、預言書(ネビーム)、諸書(ケスビーム)の頭文字をならべているからです。そのタナハにおいては、そしてマラキ書は預言書に属し、歴代誌は詩篇やダニエル書やネヘミヤ書などと一緒に諸書に属するのでマラキ書は諸書の前にある、歴代誌は諸書の最後の書として旧約聖書の最後に置かれているので。
にもかかわらず、私たちキリスト教徒が手にしている聖書はマラキ書が最後になっている。それは、私たちキリスト教徒が手にしている聖書の順番が70人訳聖書という旧約聖書をギリシャ語に訳した聖書の順番に基づいているからです。
70人訳聖書というのは紀元前3世紀にプトレマイオス朝エジプトの王プトレマイオス2世フィラデルフォスがパレスティナから72人のユダヤ人の長老を呼び寄せ72日間でヘブライ語をギリシャ語に訳させたという伝説を持つ聖書です。しかし、それはあくまでも伝説の話でして、実際には紀元前3世紀から1世紀にかけて編纂されていったものだと考えられています。
その70人訳聖書の各書の順番は、タナハの順番と異なっているのは、イスラエルの民の過去の歴史として創世記からエステル書までがあり、イスラエルの民の現在の苦悩の姿をヨブ記から雅歌までに読み取り、イザヤ書からマラキ書までで、その苦悩の中に置かれているイスラエルの民に救いがもたらされるという未来の希望が語られているという構造で、それぞれの書物が配列されていると考えられます。
つまり、イスラエルの民に対する神の壮大な救いの歴史が70人訳聖書には構想されている。そしてその最後の部分に、口語訳聖書ではマラキ書の4章、聖書協会共同訳では3章が置かれている。そのイスラエルの民の希望というのが
しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力 を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。
という事なのです。そして、この「義の太陽が昇る」という言葉が、クリスマスの原点にある。もう毎年のことになりますので、みなさん、またかと思われるかもしれませんが、イエス・キリスト様がお生まれになったのは、史実上は、いつであったかはわからない。ただ、12月ではことは確かです。12月に羊飼いが夜に羊の番をすることはないからです。
それが12月25日に祝われるようになったのは、キリスト教が古代ローマ帝国に広まっていく中で、当時ローマ帝国で行われていた冬至の祭りの日に、教会がイエス・キリスト様の誕生を祝うようになったからです。その背景には、この当時の祭りは、陽がだんだんと短くなっていく中で、冬至を境にまた日が長くなっていくという自然現象から、そこに死と再生の物語を見て、不滅の太陽神ミトラの復活を祝祭りを祝うという事がありました。
その当時の祭りの日に、キリスト者も真の義の太陽であるキリストの誕生を祝うようになったのです。それがクリスマスの由来であると言えます。つまり、この「義の太陽が昇る」という聖書の言葉によって旧約聖書と新約聖書が結び合わされるのです。
イスラエルの民が待ち望んだ救い主の到来という希望の出来事が、「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージと共に契機に始まったのです。それは、イスラエルの民の希望でもあり、また私たちキリスト者の希望でもあります。
先日、私の友人が、自分が語った説教を聴いてその内容について感想や批評をしてくれないかとご自分の説教の動画を送ってこられました。そこに流れている神学的な内容について意見を聴きたいという事でした。聴くと私などが批評するなんてことはとても恥ずかしく手出来ないと思えるような、とても良い説教でしたが、その友人が意見を聞きたいと言われた神学的なことがらというのは、神はイスラエルの民を今も見捨てておられないというものでした。
その友人の牧師は、「神はイスラエルの民を見捨てておられない」ということを丁寧に聖書を解き明かしながら話し説明しているのですが、その説明が神学的にはどうかという意見を私の求めてこられたというのは、それなりに理由がありました。
その理由とは、キリスト教界の中にある一つの神学的主張があるからです。それは、イエス・キリスト様の到来によって、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に移り変わり、旧約聖書を担っていたユダヤ人は古い肉のイスラエルとして神から見捨てられ、イエス・キリストを様を信じる教会が新しい霊のイスラエルが神の救いを担う新しい時代になったのだという主張です。
この主張は、教会が神の救いの歴史を担うものとなったという点においては間違っていません。しかし、神がユダヤ人たちを古き肉のイスラエルとして捨てられたのだという主張には問題があります。
確かに、聖書には古いと新しいの二つの要素の対立があり、肉と霊の対立構造があります。しかしそれは、イスラエルとキリスト者という対立構造というよりもむしろ、私たちの内にある肉の性質つまり、欲望と霊の性質、すなわち神に向かったより善いものになろうとする思いとの対立構造として言われているものです。
ですから、古いものをユダヤ人とし、新しいものをキリスト者あるいは教会とする者ではありません。むしろ、ユダヤ人とキリスト者は共に神の救いを担う者として、やがて完成する神の王国の完成という将来の希望を待ち望む者なのです。
私の友人の説教は、そのことを実に丁寧な聖書の読みと論理構成で指し示しつつ、最後に、神に信頼することの大切さに聴いている人々を導く言葉で締めくくられていました。それの背後には、あのイエス・キリスト様を十字架につけたイスラエルの民ですら、決して見捨てないお方である。だからこそ、私たちもまた、神に信頼することができる。何があっても、神様は私たちを見捨てないのだ。という説教者の神への絶大な信頼がうかがえました。
そうなのです、みなさん。神様は、私たちを決して見捨てることも見放すこともなさらないお方なのです。だからこそ、先ほどお読みしたヘブル人への手紙を書いた著者も、へブル書全体を通してイスラエルの民の歴史を語りつつ、その書の最後の章である13章5節で、旧約聖書のヨシュア記1章5節の言葉を引用し、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言い、さらには詩篇118篇8節の言葉を引用しつつ「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」とまで言うことができるのです。
ここには、決して見捨てない神に対する、絶対的な信頼があります。そしてその絶対的な信頼が、イエス・キリスト様というお方に集中していくのです。しかもそれを、旧約聖書のイスラエルの民の歴史を紐解きながら語るのです。しかし、そのユダヤ人の歴史というと、神から「決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われているのも関わらず、繰り返し神から離れ偶像礼拝に走るという過ちを犯してきた歴史です。そして、何度も神の怒りを引き起こし、神からその誤りに対して厳しくただされるという事を繰り返しきた歴史なのです。にもかかわらす、何度失敗しても、神はヨシュアに約束したように、決してイスラエルの民を見捨てず、イスラエルの民と共におられたのです。だからこそ、怒り、彼らを正しい道に立ち帰らせるのです。だかこそ、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」という事ができるのです。
そのようなイスラエルの民の歴史を背負いながら、異邦人に支配される苦しに満ちたくらい闇夜の中で、マラキはやがて、「義の太陽が昇る」、「救い主が来られる」、希望の光が差し込むのだというのです。そして、その「義の太陽」、「救い主」が、「今日ダビデの街に救い主お生まれになった。」それがクリスマスの出来事です。そして、そのお生まれになった救い主こそが、イエス・キリスト様なのです。
その救い主の誕生を、イスラエルの民、すなわちユダヤ人は決して認めてはいません。それは今日においても同じです。彼らは、イエス・キリスト様が救い主キリストであるとして受け入れてはいないのです。神が、ご自分の独り子を、私たちを愛するがゆえに、救い主キリストとするために人として生まれさせてくださったのにもかかわらず、それを認めず、事もあろうに十字架で死なせてしまった。なにに、そんなイスラエルの民を神は、今日でも神は決して見捨てず、また見捨てもいません。そしてやがて回復され、神の救いの中に入れてくださるのです。
どこまで行っても、神は、神の約束に対して真実なお方なのです。決して私たちを諦めない深い愛がそこにあります。だからこそ、私たちは、神を信頼することができる。私たちがどんなものであろうと、神は神の約束に忠実であり、神の愛は決して変わらないのです。
そして、今日でも変わらず、私たちに「今日、ダビデの街にあなた方の救い主がお生まれになった、その方こそ主キリストです」というメッセージが語られている。その背後には、決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛があるのです。
その神の約束と愛が現れているクリスマスの出来事を祝うときを、この礼拝から一か月間のアドベントの間に喜びをもって待ち望むのです。この決して裏切らない神の真実な約束があり、決して変わらない神の愛を思いつつ、しばらく静まりの時を持ちましょう。
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