以前、カウンセリングについて学んでいるときに、心のストロークということについて学びました。
ストロークとは、テニスや卓球で球を打ち合うことだそうです。相手が球を打ってくる。その売って来た球を打ち返すとき、そのやり取りをストロークと言うのだそうです。
心のストロークとは、相手に愛のこもった言葉や態度を示すとき、相手もまた、その言葉や態度に応じた言葉や態度を返してくる。逆に悪意のこもった言葉や態度を示すと、相手の心にも、悪意のある言葉が浮かんでき、悪意のある言葉と態度で返してくる。
この心のストロークの場合、言葉や態度はテニスや卓球で言うところのラケットです。そしてそのボールは心なのです。私たちは、そのようにして私たちの心に愛というものを養い育てていくのです。
しかし、それは養い育てていくものであって、私たちの心に愛というものを産み出すものではありません。いったい誰が、私たちの心に愛というものを置いて行ったのでしょうか。いえ、そもそも愛というものは一体何なのでしょうか。
もともと日本語の古文における愛は、血縁の間にある情愛と言う意味を持つ言葉です。しかし、今日の現代日本語における愛は、もっと広い意味で用いられ、男女間や友人との間ある想うや感情として使われます。それは、現代語日本語の愛と言う言葉が、英語のLoveやドイツ語のLiebeの訳語として用いられたからです。
このLoveと言う感覚を夏目漱石は「今夜は月がきれいだね」と言う言葉で言い表そうとしてました。同じ一つの月を見て、同じように「きれいだね」と思う心が一つに結びあわされた状態が愛なのだということなのでしょう。また森鴎外は愛と言う言葉を「あなたのために死ねる」ということだと言いました。自分の命を投げ出してもいいほどにあなたのことを尊び、あなたのことを大切に思う想いが愛なのだというのです。
実は、この漱石の言う愛と鴎外が言う愛の二つの愛が、聖書の言うところの愛なのです。イエス・キリストは、神であるのに人となれられ、人と一つに結び合わされました。ここに漱石のいうLoveがあります。そして、その人が、罪と死が支配する世界の中で苦しんでいるところから救いだすために、十字架の上で命を投げ出し助け出してくださったのです。そこには鴎外の言うLiebeがあります。
神の子であるイエス・キリストの内にある愛、その愛は神の愛です。まず神が私たちに愛と言う心のストロークを第一打を打売ってくださっり、愛というものを私たちの心においてくださったのです。後は、この愛を、心のストロークを重ねていく中で養い育てていくだけです。
その愛を養い育てる、つまり愛を学ぶということについて、私の友人の岩本遠億牧師が、2分半程度の短い書とメッセージを通して語ります。その岩本牧師のショート・メッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。
この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。
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