聖書の時代から、中世のヨーロッパに大きな影響を与えたのはギリシャ・ローマ哲学でした。そして、聖書もキリスト教もその影響を受けていることは間違いありません。
そのギリシャ文化の中に四元徳(四元徳)と呼ばれるものがあります。「勇気」、「節制」、「知恵」、「正義」です。中世の西方ヨーロッパ世界に広がったキリスト教は、それらの四元特を対人関係における徳目として受容しつつ、それに「信仰」、「希望」、「愛」を対人関係における徳目としました。そして、これらの徳目をキリスト教における枢機徳(すうきとく)としたのです。
しかし、キリスト教における徳目は、何も枢機徳だけではありません。他にも「忍耐」、「寛容」、「親切」、「善意」、「誠実」、「柔和」と言ったものがあげられます。そしてそれらは新約聖書のガラテヤ人の手紙5章において「御霊の実」と呼ばれています。
御霊は、神の霊であり、また神である霊で、教会においては聖霊と呼ばれる存在です。ですから、「御霊の実」というものは、神が私たちにもたらす性質であると言えます。それを、聖書は「御霊の実」と呼ぶには、この神がもたらす性質に従って生きるところに徳のある生き方が生まれるということでしょう。
私たちは、このような「御霊の実」を結ぶ性質を神から与えられています。なぜなら、神はこの世界を創造し、人間を創造なさったときに、人を神の像(かたち)を持つ、神に似た者として造られたからです。ですから、この「御霊の実」というものは、クリスチャンであろうとなかろうと、すべての人がその性質を持っているのです。
しかし、実際の生活の中では、なかなかこの「御霊の実」に従って生きることができません。それは、神が与えてくださったこの「御霊の実」を実践する者を阻害するものがあるからです。
先ほど、中世の西方ヨーロッパ世界に広がったキリスト教(つまりカトリック教会)には、七つの徳目からなる枢機徳というものがあると書きましたが、それに呼応する枢機悪と呼ばれるものがあります。「貪食」、「淫蕩」、「金銭欲」、「悲嘆(心痛)」、「怒り」、「霊的怠惰」、「虚栄心」、「傲慢」がそれにあたります。
この枢機悪は、後に整理され、「傲慢」、「強欲」、「嫉妬」、「憤怒」、「色欲」、「暴食」、「怠惰」から成る七つの大罪と呼ばれるようになりました。それは、これらの人間の内にある欲望が、「御霊の実」と相対し、私たち人間に「御霊の実」を結ばせることよりも、私たちの欲望を満たさせようとして、私たちの思いに働きかけ、「御霊の実」という性質を抑圧し、抑え込んでしまうからです。ですから、この「御霊の実」を結ぶためには、私たちは、七つの大罪と呼ばれるような欲望からの働き従うのではなく、「御霊の実」から働きかける思いに訊き従う必要があります。
そのことを、私の友人岩本遠億牧師は、「忍耐」ということをテーマに取り上げて3分ほどの短いショート・メッセージで語ります。そのショート・メッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。
この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。
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