「一体の愛」
キリスト教は救済の宗教です。
では、その救済の内容は何なのでしょう。私はプロテスタントの教会の牧師ですが、一般にプロテスタントの教会は救いを罪の赦しとして語る傾向が多いようです。それも、私たちひとり一人が犯した罪に対する神の赦しです。つまり、ひとり一人の「私」という個人が犯した罪を神が許してくださり、その罪の赦しを受けた人の魂が、神によって救われるという。
たしかに、それはそれで間違ってはいません。しかし、救いと言うのは、ただ罪の赦しということだけではありません。そもそも、キリスト教で言う罪は、一般的な意味で使われ認識される罪ということとは微妙に違っています。すなわち、キリスト教で言う罪とは、人間が神から離れてしまっている状況、あるいは本来は神と共に在る存在であり、神と共に生きる存在であるのに、その神から離れてしまっていることを指しているのです。ですから、その視点からみると、キリスト教で言う罪の赦しという言葉は、神から離れたしまっていた人間が、神と一つに結ばれるという意味であるということができます。
実際、キリスト教の歴史の中では、この神と一つに結ばれるということ、「神化」とか「神との合一」と言う表現で語られてきました。神と人とが一つに結ばれるということ、それは人間が神と同じになるということではありません。それは、人間と人とが親と子のような関係になるということです。そのことを明らかにするために、父なる神は、子なる神であるイエス・キリスト様をこの世界にお送りくださったのです。
父なる神と子なる神イエス・キリスト様との間には、決して分かつことのできない愛と信頼の関係があります。そして、その愛と信頼に関係によって一つに結ばれているのです。
イエス・キリスト様は、父なる神に対して、十字架の死に至るまで、従順に従い生きられました。そこにはイエス・キリスト様の父なる神に対する絶大な信頼があります。その信頼にこたえるかのように、神はイエス・キリスト様を死から復活させるのです。それは、父なる神の絶大な愛がイエス・キリスト様に注ぎ込まれ、神の幾つしみがイエス・キリスト様を包み込んだ神の愛の証なのです。
この神と一つに結ばれる「神との合一」ということが、救いと言うことの内容です。そして、救いがそのような内容であるからこそ、キリスト教の救いは、神の愛に裏付けされた慰めや平安といった心の安寧を産み出す作用があるのです。
私の友人の牧師、岩本遠億牧師は、この「神との合一」ということを、4分足らずの短いショート・メッセージの中で、実にわかりやすく話しています。その岩本牧師のショート・メッセージは下記のアドレスで聴くことができますので、そのアドレスをクリックし、▶ボタンをクリックしてお聴きください。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e29jhq2?fbclid=IwAR0uCkijcCYjUrH0V6pYpGjv7wSUI5in5v8jgVjtQ54Xn0QdOT1Acd8PrFw
この岩本遠億牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものです。それを岩本牧師の御許可をいただいて転載しています。
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