2024年2月3日土曜日

キリストの憤り

新約聖書ヨハネによる福音書十一章十七節から四十四節に次のような出来事事がかいてあります。それは、ある時、ラザロという兄弟を失い、悲しみの中にある二人の姉妹のもとにキリストがやってきました。そして嘆き悲しみ泣いている姿を見て、キリストは激しく、「霊の憤りを覚えられた」という出来事です。

 愛する者を亡くし、泣いている人を見て、憤りを感じるというのは、ちょっと不思議な感じがします。いったいイエス・キリスト様は、この時、何に対して憤っておられたのでしょうか。実は、この時イエス・キリスト様は、死という現実が、人の心に、大きな悲しみをもたらすことをごらんになって、その死と、死を私たちの世界にもたらした罪に対して憤られたのです。

 聖書がいう罪とは、犯罪を行ったとか、道徳的過ちを犯したと言うことだけではありません。むしろそれは、罪というよりもは悪と呼んだ方が良いものです。罪とは人が神に背き、神から離れて自己中心的な生き方をしていることであり、私たちを神から引き離そうとする力なのです。人は、神に対し背き、それは神から離れて自己中心的な生き方をするようになったのです。しかし、その「わたしたち」人間が背き、離れた神は、全ての存在の創造者であり、全ての存在に命を与えて下さるお方が神なのです。いわば、この命の源が神だといえます。
 この命の源である神に、背を向け、神から離れて生きるならば、人の命はやがて枯れはて、尽きてしまいます。こうして、私たちの世界に、死というものが入り込んできたのです。その死がすべての人を支配し、悲しみで心を一杯にしてしまう、そのような現実を見て、イエス・キリスト様は、死と、それをもたらした罪に対して、怒りと憤りを感じられたのです。

 そしてイエス・キリストは、その死んだラザロを甦らせたのです。このことは、キリストが、私たちを死から解放するお方であることを宣言し、また証明して見せた出来事だといえます。まさにキリストは私たちを、死とその死の原因となる罪から救い出して下さる救い主なのです。そして、私たちを命の源である神と結びあわせて下さるのです。

 死んだ人間が生き返るなんて、とても信じられない話のように思われます。けれどもこれは二千年前に確かに起こった出来事なのです。

 どんな医学が発達しても、人間の英知では不老不死に達してしていません。たぶん、これからも決して到達できないだろうと思います。けれども、神を信じ、キリストを信じる信仰は、私たちに希望を与えてくれます。それは、ラザロのように、私たちもやがて再びイエス・キリスト様がこの世界に来られるときに、神の国である天国で復活し、死に支配されることなく生きることが出来る希望なのです。

この希望がある限り、私たちは現実の苦しみや悲しみを乗り越える力が与えられます。それは将来に対する確かな望みだからです。そしてこの希望は神を信じる人には等しく与えられます。もちろん、あなたにも、与えられるのです。

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