23年11月26日第4主日礼拝「行いの中に立ち現れる神」
旧約書:列王記下1章1節から10節
福音書:ヨハネによる福音書10章31節から42節
使徒書:コリント人への第二の手紙2章13節から3章3節
今日の礼拝背今日の中心となる聖書箇所は、ヨハネによる福音書10章31節から42節までです。その最初の31節は「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」となっています。いきなり「打ち殺そうとして」というのは、極めて物騒なはなしです。ですので「そこで」という接続詞が大切になります。この「そこで」というのは、前の文脈を受けてという事ですが、前の文脈で何があったかと言うと、イエス・キリスト様が
わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。わたしと父とは一つである。
と言われたという事がある。特に、「わたしと父とは一つである」という言葉が、ユダヤ人このユダヤ人というのは、自らをユダヤ人の中のユダヤ人であると自負するパリサイ派の人たちであろうと思われますが、そのユダヤ人の心の琴線にふれた。「そこで」彼らは、イエス・キリスト様を打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と言うのです。
「私と父とは一つである」というのは、自分と神様は同等であるという事であり、いうならば「自分は神と一つに結ばれている神の子だ」と宣言しているようなものだからです。だからユダヤ人たちは「『自分は神と等しいものである』と言って神を冒涜した」と言って「石で打ち殺す」という宗教的制裁をくわえようとしたのです。それは、旧約聖書のレビ記24章16節に
主の名をそしる者は必ず死ななければならない。会衆全体が必ずその者を石で打ち殺さなければならない。イスラエル人であれ、寄留者であれ、御名をそしる者は死ななければならない。
とあるからです。そのレビ記の言葉をもとに、イエス・キリスト様を石打ちの刑にして殺そうとするユダヤ人たちに、イエス・キリスト様は、
「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
と言って切り返すのです。
この「私は言う、あなた方は神々である」という言葉は、もともとは詩篇82篇6節にある言葉ですが、実は、この詩篇82篇は、神が天使を集めて天上で会議が行われている様を謳ったものだと言われています。そしてそこでは「神々」と呼ばれているのは神の言葉である律法を託され、人々を裁く裁き司、すなわち裁判官のような働きをしている人たちです。神様は、その裁き司(裁判官)たちに対して、「わたしは言う、あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」と言って断罪なさっている。それは、この裁き司(裁判官たち)は、神の言葉を託され、その神の言葉によって正しく裁きを行わなければならないのに、逆に不正を行い、社会的な弱い立場に置かれている人々や貧しい人たちを虐げている悪に対して正しい裁きをしていないこと厳しく非難する言葉なのです。
神様は、神の言葉を託されている人々を「あなた方は神だ」と言われる。あるいは、いと高き者の子」、すなわち「神の子だ」と言われるのです。神の言葉が託されている者を、「あなた方は、神であり神の子なのだ」と言われる。それは、神の言葉を託されたものが、その託された言葉に従って生きる時に、そこの神のお姿が立ち現れてくるからです。裁き司(裁判官)が神の言葉に従って、公正に、そして公平に正義に基づいて正しく裁判を行うならば、そこに神の公正さや公正さ、つまり神の真実や、神の義が現れ出てくるのです。
神の言葉を託された者は、その神の言葉をもって神を表すのです。だから彼らは「神」と呼ばれ「神の子」と呼ばれる。神が正しいお方であり、公正なお方であるならば、その神の言葉を託されたものは、正しく人を裁き、公正に人を裁くという神の業を表していくのです。まさに善き業を行う者となって神というお方を指し示していく。それが「神の子」とれた者の生き方なのです。
その詩篇82篇の言葉を、イエス・キリスト様は、「私と父とは一つである」と言われた言葉に怒り、イエス・キリスト様を「神を冒涜するものだ」と言って裁き、石を投げつけて打ち殺す石打ちの刑に処そうとしているユダヤ人たちに投げかけるのです。そのユダヤ人たちは、おそらくパリサイ派と呼ばれる人たちでしょう。まさに、「自分たち事が神の言葉を知り、神の言葉を実際に生きている」と自負している人達です。自分達こそが神の言葉を担っていると思っている人達なのです。その人たちが、今、まさに裁き司(裁判官)になって、神が与え託した律法をもって、イエス・キリスト様を裁き殺そうとしている。その行いは、まさに「私は神だ。至高のお方の子だ」という振る舞いなのです。
みなさん、イエス・キリスト様は、この言葉を投げかける前に、イエス・キリスト様に石を投げつけようとするユダヤ人たちに対して「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」と問いかけています。
それこそ、イエス・キリスト様は、「私は善い行いすることで、ご自分が「神の子」であることを表しているのになぜ私を裁くのか、あなた方の裁きは不正な裁きなのではないか」と問いかけるのです。ところが、彼らはイエス・キリスト様のなされた善き業は問題ではない。問題はあなたが「自分が神の子だ」と主張していることなのだというのです。
そのような人々に、イエス・キリスト様は、先ほどの詩篇82篇の言葉を投げかける。神様は、神の言葉を託し律法を託した人々を「神々」と呼び、善き業を通して、自分たちが「いと高き者」の子であることを表せと言っているではないか。そして、私は実際にその良き神の業を行ってきた。まさに神の遣わされた者として神の善き業を行い、神を表してきたその私が、「神の子だ」といったとしても、いったいそれが「神を冒涜することになるのかと詰め寄るのです。
さらには、「私の行っていることが善き業でなければ私を信じなくてもよい」とまで言われる。つまり、イエス・キリスト様が神の子であるかどうかは、その業で分かるのだというのです。
実際、このヨハネによる福音書10章41節でヨルダン川の向こう岸にいたイエス・キリスト様のところに来た多くの人が「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」いって、イエス・キリスト様を信じたという記事を載せています。ここで言われているヨハネは、バプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、様々な所で、イエス・キリスト様というお方は、私よりも偉大な方であると言い広めていました。その言葉を受けて、確かにイエス・キリスト様はヨハネより優れた方であるというのです。なぜならば、場応テスマのヨハネは「なんのしるし」も行わなかったからです。
しかし、イエス・キリスト様は徴となるような業を行ってきたのです。その業は、まさに神の業だと思われる者だったのです。そこでみなさん、思い出してほしいのです。バプテスマのヨハネが、弟子たちを遣わして、イエス・キリスト様が本当にキリストなのかを確かめるために、「あなたは来るべきメシアなのですか」と尋ねさせた。その時に、イエス・キリスト様が何と答えたか。イエス・キリスト様は、
行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足な えは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
と答えるのです。そして人々とは、そのイエス・キリスト様の行いはちゃんと見ていたのです。そして、イエス・キリスト様こそが、神から遣わされたお方であると受けとめた。それは、イエス・キリスト様のなされた行いに、神様のお姿が立ち現れていたからです。行いの中に神様のお姿を見たのです。
行いの中に神がたちあらわれる。行いを通して神の姿を見ることができる。それは、旧約聖書のエリヤの行った業の中にもその一端を見ることができます。それが先ほどお読みした列王記下の1章1節から10節の出来事です。この箇所は、北イスラエル王国のアハズヤ王が屋根の欄干から落ちて怪我をした際の物語です。このときアハズヤ王は、こともあろうか、バアル・ゼブブというエクロンの神に、けがが治るのかどうかの御神託を求めて使者をつかわすのです。
それで、神はエリヤが、その使者たちがバアル・ゼブブに行くことを阻止するのです。そのことに怒ったアハズヤは、エリヤを捕らえて連れてこさせようとしたときに、エリヤが言ったのが「わたしがもし神の人であるならば、火が天から下って、あなたと部下の五十人とを焼き尽すでしょう」という言葉です。そして、実際にそのようになったのです。
つまり、天から火が降ってくると言う業が、エリヤが神の人であることを証しているのです。もっとも、エリヤの業は、人を滅ぼす業でしたが、イエス・キリスト様のなされた業は人を生かす業です。そういった意味では、イエス・キリスト様の業はエリヤの業に優る業であり、それを完成するものであったという事ができるかもしれません。
しかし、いずれにしても、神の人の業は、その業を通して神が立ち現れてくるのです。だからこそ、イエス・キリスト様は
もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう
というのです。みなさん、イエス・キリスト様の行う業には、父なる神が現れ出ているのです。そして、そこに現れる神の姿は、病の中にある者を顧み、貧しいものに心を配る愛の神であり、恵みの神であり、慈しみの神です。
けれどもみなさん、行いの中に神の御姿が現れるのは、神を信じる預言者エリヤや神の御子イエス・キリスト様だけではないのです。その神の御子を信じ弟子となった私たちの業も、神を現し、神の御子を現すのです。
だからこそ、使徒パウロは、コリント人への第二の手紙2章12節から3章3節まで、私たちは救われる者にとって滅びる者にとっても、神に対するキリストの香りであると言い、キリストの手紙であるとさえ言っている。それは、私たちの行いや語る言葉がイエス・キリスト様を証するのだ、私たちの言動の中にイエス・キリスト様が現れ出るのだというのです。
そう、私たち神を信じ、キリストを信じる者はそのようなものとなっている。決して立派のものでもない。特別な存在でもない。普通に神を信じていきているだけなのですが、そのようなキリストの香り、キリストの手紙とされているのです。ただ、私たちが真摯に神を信じ、キリストを信じ生きて行くならば、その生き方の中にキリストが現れ出てくるのだ。そのことを覚えながら、神の前に、キリストの香りとして、またキリストの手紙として日々キリストを見上げながら生きて行きたいと思います。静まりの時を持ちます。