2023年11月13日月曜日

共感する神

  私が大学院で研究していたテーマは、15世紀後半から16世紀前半のいわゆるルネッサンスと呼ばれる時代から宗教改革に移行していく時代にエラスムスという人物の人間観でした。このエラスムスという人物の思想は、キリスト教人文主義(ヒューマニズム)です。人文主義というのは、古典の世界、すなわちギリシャ・ローマ世界の文学や思想をまなび、その中に人間のあるべき理想像を見いだし、より善い人間になろうとするものですが、キリスト教人文主義となると、単にギリシャ・ローマ世界の古典だけではなく、それに聖書をくわえて、その中に人間のあるべき姿を見いだしてより善い人間となるように生きようと考える思想です。いえ、むしろ聖書を唯一の土台とし、そこから現実の人間を捕らえ、そしてより善い人間になるようにと務めるのです、
 人間のあるべき姿を求めるということ。このことの背後には人間とは何かという問いがあります。人間を人間とする人間本来の姿、それを人間本性(ホンセイ)と言います。人間の本質と言ってもいいかもしれません。もっと平たく言えば人間らしさと言います。いったい人間の本質、人間本性とは何なのでしょう。聖書は、神の像(かたち/イメージ)だと言います。人間は神に似たものなるようにと造られており、その心には神の像(かたち/イメージ)が刻み込まれているというのです。
 しかし、神の像(かたち/イメージ)といっても漠としてそれがなにかよくわかりません。それは「わたしたち」が神様というお方をよく知らないからです。神様がどんなお方かよくわからないから神の像(かたち/イメージ)といったものを思い浮かべることができないのです。しかし、聖書を読んでいくと、だんだんと神様というお方がわかってきます。なぜならば、聖書は神様と人とが作り出す人間の歴史がそこに記されているからです。
 その神と人とが作り出す歴史は、弱く、力がない人たちが、強力な権力や武力を持った人たちに支配され、抑圧されて悩み苦しんでいる姿を見て、その支配され抑圧されている日々との悩みや苦しみに共感し、神さま自らが心を痛め、その悩みや苦しみ、そして痛みから解放してくださるという物語です。そしてそこに描き出される神の姿は、「共感する神」なのです。
 共感するという事は、同情するという事ではありません。同情するというのは、自分は悩み苦しむ人の心の痛ますその痛みとは別のところに立ち、その悩み苦しみ、心を痛める人をかわいそうにと思う想いです。しかし、共感とは、その悩み苦しむ人の心の痛みを、自分自身も同じように感じ、自分も同じように感じる熱い心です。熱情(パトス)です。つまり、悩みや苦しみ、そして心の痛める人と同じ場にたち、共に悩み、共に苦しみ、共の悲しみ、共に痛むのです。神様はそのようなお方なのです。
 神様は、「共感する神」である。それは、神様が「わたしたち」の人生に共に歩んでくださるお方であるという事です。当然、神様は「あなた」の人生と共に歩んでくださり、「あなた」が悩み苦しむときは、「あなた」と共に悩み苦しみ、「あなた」が心を痛める時は、共の心を痛め、「あなた」が悲しんでいるときは共に悲しみ、喜んでいるときは共に喜んでくださっている。「あなた」は気付いていないかもしれませんが、神様はずっと「あなた」と共に歩んでくださっているのです。
 ですから、エラスムスをはじめとするキリスト教人文主義者たちが求めてきた人間の本性(本質)。それは神が共に生きてくださっている者という事だと言って良いかもしれません。「わたしたち」人間は、神が共にいてくれる存在なのです。だから、心の中に神の像(かたち/イメージ)が刻み込まれており、それゆえに神を求めて生きる者なのです。そして、「わたしたち」が神に似たものとなるということは、「わたしたち」もまた、「共感する人」になるという事です。「同情する人」ではなく「共感する人」にです。
 この人間の本質ということについて、別の角度から私の友人の岩本遠億牧師が「人の本質を決定するもの」という3分ちょっとの短いメッセージで語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし、新しく開かれる『366日元気の出る聖書の言葉』のページに行き、そこで「人の本質を決定するもの」というタイトルにある▶マークをクリックしていただければ聴くことができます。なお、下記のアドレスは岩本牧師の御了解をいただいて、ここに掲載しています。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2br7tu?fbclid=IwAR3qIoVjjpckBMdIEB-wFA6KuVZp2ggaqXUu7QvmyOeDl7D13MXIe9m_TaA

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