2023年11月1日水曜日

絶望と希望

  先日、同じ教団で牧師をしている大先輩が天に召され、その葬儀にいって来ました。キリスト教の葬儀に出たことがあると言う方は、私たちの国ではそう多くはないかもしれません。
 キリスト教の葬儀のスタイルはいろいろとあり、それこそカトリック教会やギリシャ正教会やプロテスタントの諸教会がそれぞれの教会ごとに異なったスタイルを持っています。しかし、スタイルは違っていても共通するものがあります。それは希望です。キリスト教会の葬儀であっても葬儀は葬儀ですから、亡くなった方を思い悲しみがあり涙があります。しかしその悲しみと涙の先に、やがて死から蘇るという復活の希望がその中心に流れています。そして、その希望は、イエス・キリスト様の十字架の死とよみがえりという歴事上、ただ一回だけ起こった出来事に裏付けられているのです。
 イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたということを信じることはできるが、復活したということはとても信じられないと言われる方が少なからずおられます。そのお気持ちは痛いほどわかります。死んで甦った人などだれ一人おらず、私たち人間の知性においては考えられない出来事だからです。そういった意味では、イエス・キリスト様が死から蘇られたというのは聖書の中に記された奇跡のなかで最大の奇跡だと言えるでしょう。しかし、キリスト教会は、この信じられないような奇跡を信じ、そこに希望を置いているのです。
 死と復活という物語は、私たちにとって葬儀において語られる望みだけではありません。それは私たちの人生の様々な場面で起こる神の物語でもあります。それは挫折とその挫折から再び立ち上がる再起の物語です。絶望と希望の物語と言ってもいいのかもしれません。
 私たちは、もう立ち上がることができないと思われる状況に陥り悲嘆にくれることがあります。しかし、神は私たちをそのような悲嘆の中にいつまでもとどめて置かれません。悲嘆の中にいる私たちを慰め、力を与え、その悲嘆の中から立ち上がらせてくださるのです。
 パウロと言う人物は、キリスト教会の草創期に活躍した人物です。そのパウロがコリントと言う教会にあてた手紙が新約聖書の中に残されています。このコリントの教会の信徒への手紙一のなかで、パウロはこう言います。

新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章 13節
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

 死と言う人生最大の試練に対して、復活と言う希望の道を指し示してくださった神は、私たちの人生の中に起こる様々な試練をも乗り越える力と希望を与えてくださるとパウロは言うのです。
 その希望を、私の友人、岩本遠億牧師は「私たちの望み」という3分半弱の短いショートメッセージで、自分自身の経験を比喩的事例にしてわかりやすく語ります。下記のアドレスをクリックし、新しく開かれた『366日、元気の出る聖書の言葉』というページで「私たちの望み」と言うタイトルにところにある▶のマークをクリックすることで聴くことができます。この『366日、元気の出る聖書の言葉』は本として出版されたものであり、書店でも買えます。その本に書かれたことを、岩本牧師自身が、自分の声で音声化してお伝えしたものが、下記のアドレスです。それを岩もの牧師の御許可をいただき、ここに掲載しています。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bakm3?fbclid=IwAR2HzVCoq1UfipMlR2682ybe4wyHMQ8TOCxlo4B_PQf5DE0isuCwR5gaPN4

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