昔、シュライアマハーと言う人、宗教とは「絶対依存の感情である」と言いました。またルドルフ・オットーと言う人は、「『聖なるもの』に対して、怖れを感じつつ、その『聖なるもの』に魅了され惹きつけられる感情」が宗教の根源にあると言いました。
この二人の人は、宗教学と言う学問領域を築き上げてきた人たちですが、その基本にあるのは、感情を場とした宗教経験というものがあるのだということです。つまり、宗教とは、目で見たり、手で触ったりするとった、私たちの五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚)で分かるものではなく、心で感じるものなのです。
キリスト教も宗教です。ですから、キリスト教は目に見ることができず、触ることも、その声を耳で聴くこともできない神を言葉をもって伝えるのです。そういうわけで「神を見ててみろ」と言われても、それはしょせん無理な事なのです。
神は見ることができません。しかし心も目で神を見ることができます。神は心で感じるこ存在なのです。なぜならば、私たちの心には、神の像(かたち)が刻まれているからです。その神の像が、神を求め、神により頼むといった心の思いを与え、憐みや愛といったものを求めさせるのです。また逆に不正を憎んで公正をもとめさせ、残虐な行為や無慈悲な行為に対して怒り正義を求めるといった心の動きの中に現れ出るのです。
それは、私たちの心に刻まれた神の像(かたち)が、神の心に共鳴し共振しているからです。そしてそのように神の心に共鳴し共振した心が、この世界の中に神の業を表していくのです。
もし、「あなら」の心の中に愛があり、憐みの心があり、公正をもとめ正義を求め心があるならば、その「あなた」の心は、神を求めているのです。そしてその心の先に神がおられます。もし、「あなた」が、憐みや愛に満ちた行動を見、また公正に満ち、正義に満ちた行動を見て感動するならば、「あなた」の心は、神の心に共鳴し共振しているのです。そして「あなた」の心の目は、その行動の先に神を見ているのです。神は心で感じる存在です。神の業は心の目で見るものなのです。[あなた」の心が、神を信じ、神により頼むならば「あなた」の心が感動し、震えるような思いを経験するとき、そこの神の業が現れ出ているということ見ることができるのです、
私の友人である岩本遠億牧師が、この目に見えない神と、目に見ることのできない神の業を見るというは、信頼するという事から始まるということを、ご自身がにニューギニアの奥地に言語学の調査に行かれた経験を、4分程度のメッセージを通して語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、「366日元気の出る聖書の言葉」のページに行き、そこにある「見えないものがみえるとき」と言うタイトルのところにある▶マークをクリックすることで聴くことができます。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2bfpr4?fbclid=IwAR1sHWmgbVPD-9yMnm6q_jttqLZWl34qV2PKPyuwLd88YoAGTpGy8HaZi4c
このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを、岩本牧師自身が自分の声で音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです
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