2023年11月26日日曜日

神の家族の一人として

  わたしにとって苦手なことの一つに、初めての場所や知らない場所、知らない人間の集まるところに行かなければならないと言うことがあります。そこで聖書の話をするというようなことがあって呼ばれていくのでしたらいいのですが、そうでなければ知らない人の中でどうしたらよいかわからず、身の置き場がなく、なんとなく居心地が悪いのです。また、知らない場所での仕事が終わった後に、懇親会のようなものがあった時にも、周りの人のことはほとんど知らないと言う場合は、やはり身の置き場が見当たらないのです。そんな時、自分から積極的に話しかけて人間関係を作り上げていければいいのですが、どうやらその能力はわたしには欠けているようです。

 そんな時に、本当に家族というもののありがたさを思います。気を張ることもなく、何かつくろうこともせず、自分自身のありのままで自然に時を過ごすことができる。そこに身の置き場があり、話をしても話をしなくても何の気を遣うことのない関係。本当にありがたいと思います。家族と共にいるということ、それはわたしにとって自然な事なのです。
 気を遣うことのない人間関係、それは本当に親密な関係です。一緒にいることに何の目的も、理由もいらない。何をすることもなくただ一緒にいるだけで心が休まる。そんな親密な関係が、私たちの心を憩わせ、安心させ、そして心も体も和ませるのです。それは、自分自身がその関係の中で完全に受け入れられているからこそ生まれるものです。
 当然、そのような関係は、自分自身だけでなく、そこに集っているものすべてが感じるているものです。自分自身が完全に受け入れられているように、自分自身をそこにいる一人を受け入れていなければ、気の使うことのない人間関係は生まれてこないのです。
 神様と人間との関係もそのような関係です。神は何か目的をもって「わたしたち」に関わっておられるのではありません。ただ私たちと一緒にいるだけで嬉しいと感じて下っているからです。だからこそ「わたしたち」を完全に受け入れ、一緒にいようとしてくださるのです。もちろん、そのような神様と「わたしたち」の親しい家族のような関係は「わたしたち」が神様を受け入れると言うことも大切になります。しかし、ひとたび神様を受け入れ、神様の家族となるならば、神様と共にいる時間、神様と共にいる場所は、とても居心地の良い場所でありひとときとなるのです。
 教会は神の御子であるイエス・キリスト様を中心にして神の家族とされた者たちが集まる場所です。ですから本来、教会は居心地の良い場所なのです。もし仮に、教会が必ずしも居心地の良い場所でなくなってしまっていたとしたら、それは、神様と、また神の御子であるイエス・キリスト様と「わたしたち」の間にその関係を損ねる何かが入り込んでしまっているのかもしれません。場合によっては、神様、そして神の御子であるイエス・キリスト様が教会の中心からしるぞけさせられ、他のものが教会の中心になっているのかもしれません。
 しかし、神様と神の御子イエス・キリスト様が中心におられるという教会本来の在り方が、そこに集う一人一人が見失われていない限りり、教会は「わたしたち」にとって本当に居心地の良い場所です。そこには、神様と私たちの間にある親しい家族のような関係があるからです。
 その神様と「わたしたち」との親しい関係を、岩本遠億牧師が「手を繋いで歩く」という3分程度の短いメッセージの中で分かりやすく話しています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックして開かれるページで「手を繋いで歩く」のタイトルにある▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます(このアドレスは岩本牧師のご承認をいただいてここに掲載しています)。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cd8he?fbclid=IwAR1pTtFwiw9eAIB7P7Lpeg6PX4wnEOzX4rGc0jr_pSV7rTyB9gNR1QfETFA

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