2023年11月16日木曜日

もうお手上げというときに

 「苦しい時の神頼み」という言葉があります。それは、普段は神など信じない、信仰なんて必要のないと思い、神や信仰から離れて生活している人が、ひとたび問題が起き、自分では解決できない、もうお手上げだと感じたときに神に助けを求める姿を揶揄した言葉です。

 しかし私は、この「苦しい時の神頼み」も決して悪いことではないと思っています。もちろん、普段から神様を信じ、神を信じる者として生きていればもっと良いのですが・・・・。
 それはさておき、困った時やお手上げの時に、神さまに祈るという事は、信心深い、信心がないに関わらず良いことです。そこに問題がるとすれば、自分で問題の解決を決め、それ以外の解決は受け入れらないという姿勢で祈ることです。「わたしたち」が心の底から神に祈る時、神様は必ずその祈りの答えてくださいます。ただ、その答えは「わたしたち」が祈り求めていることと違ったことがあるのです。もちろん、祈り求めたもの通りの解決が与えらるときもありますし、それ願い求めている以上の答えが返ってくることもあります。なぜ、そのようなことが起こるのか。それは神様が、いつも最善をもって祈りに答えられる方だからです。
 神様の考える最善は、「わたしたち」の考える最善とは違っています。「わたしたち」は自分自身のことだけを考えて、これが「わたし」にとって良い答えだ、あるいは納得のいく答えだという答えをもって祈ります。しかし、神さまの視点から見れば、それが「わたし」にとって良いと思われるものであっても、必ずしも良いものではないという事があるのです。いやむしろ、「わたし」が「わたし」にとっては最悪とおもわれることが、実は神様の目から見れば「わたし」にとっての最善であったりすることさえあるのです。
 神様は、神さまのお考えるなる最善を成して下ることを、信頼し、その神様の自分自身をゆだねる思いがあるならば、「苦しい時の神頼み」でも決して悪いことではありません。それがその時の「わたし」にとって決して好ましいものではなかったとしても、必ず最善であったと言えるものへとなっていくからです。
 イエス・キリスト様は、もうじき。ご自身がイエス・キリスト様を嫌い、憎んでいる者たちから捉えられ、そして殺されるであろうという事がもうじき起こるだろうと察したときに、神さまに「この杯(捕らえられ、殺されるであろうこと)を私から取り除いてください」と節に祈りました。血の汗が出るほどに祈られたというのですから、必死の祈りだったのでしょう。しかし、イエス・キリスト様は「この杯(捕らえられ、殺されるであろうこと)を私から取り除いてください」と祈られた後に「けれども、あなたの御心のままにしてください」と祈られたのです。その結果、イエス・キリスト様は、ご自分を嫌い・憎んでいる人々のよって捕らえら、裁判にかけられ、十字架の上で処刑されました。この出来事だけを見れば、最悪の結末を迎えたのです。
 しかし神様は、その十字架の上で刑死したイエス・キリスト様をよみがえらされ、神の栄光をお与えになられたのです。最悪と思われた結果は、最善に向かっての入り口のドアが開かれる出来事だったのです。神は最善を成してくださるお方であると信じ、神の自分自身をゆだねて祈る者に、神は最善をもって答えてくださるという物語が、ここに描かれています。神は神を信じ祈るものの祈りに答えてくださる。この物語はそのことを教えます。そしてこのイエス・キリストの物語が「わたしたち」の物語となるのです。
 神は最善を成してくださるお方である。そのことを、私の友人の岩本遠億という牧師は、「神さまの直接介入を信じて」という3分ほどの短いメッセージのなかで「あなた」に語りかけています。その岩本牧師のショートメッセージが聴けるホームページのアドレスを岩本牧師の御許可をいただいて下記に掲載しました。そのアドレスをクリックし、岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というホームページに行き「神様の直接介入を信じて」の▶マークをクリックしてください。そうすれば、岩本牧師のメッセージを聴くことができます。

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