2023年11月27日月曜日

完全な神の像(かたち)

 ここ1,2年の間に何人かの学恩ある方や牧師としての私を支え導きを与えてくださった先輩牧師の方が帰天なさいました。「ああ、もう言葉をかけていただくことができないのだな。もう教えを請うことはできないのだな」と思うと寂しく思います。
 これらの方々に学恩を感じたり、先輩牧師として尊敬の念を感じるのは、これらの方々が、私の目指すべき方向を指さす指となってくださったからです。そのおひとりお一人は立派な方で、それこそその方自身が、私が目標としてもおかしくないような方々で実績も残している。けれども、そのお一人お一人が、その指さす指は決して自分自身に向いてはいませんでした。自分を指さし、私があなたの目指すべき目標ではない、あなたがい目指すべきところはあそこだと言って指さされる。
 確かに、「わたしたち」には目指すべき目標となるような人物がいます。あの人のようになりたいと思いあこがれる人物がいる。当然、そのような人は、何か優れたものや人格をもっている。だから目標にもなりますし、学ぶことも多くある。けれども、私が学恩を感じ、尊敬の念を抱く先輩牧師は、私に、ご自分を指さすのではなく、ご自分が見ておられた先を指さされるのです。そして、そこにはイエス・キリスト様が立っておられる。
 聖書は、聖書の冒頭にある創世記の1章で「わたしたち」人間は神のよって、神に似る者となるために創られたと言います。それは何も始めから神に似せて作られているというのではありません。私たち人間の心の中に、神の像(かたち)を刻み込み、その神の像に沿いながら神の似姿になっていくようにと神は「わたしたち」人間をお創りになったのです。つまり、初めから完全な人間としてそこにあるのではなく、だんだんと成長しながら神に似たものへとなっていくのです。
 けれども神の像(かたち)と言われても、それが何なのか今一つ「わたしたち」にはわかりにくいものです。だから、具体的に神様は神の御子が人となり、この世界に生まれくださり、神の像とはこのようなものであるとお示しになったのです。つまり、イエス・キリスト様は完全な神の像(かたち)であり、このお方こそが私たちの目指すべき完全な目標なのです。
 イエス・キリスト様は、十字架にかかり、死んで三日目によみがえり、天に昇られたと聖書には書き記されています。天とは神がおられる場を指す聖書の表現です。その天にイエス・キリスト様が昇られたというのは、神の御子であられた方が、神の御子として本来あられたところに戻られたということです。
 聖書には、福音書と呼ばれるイエス・キリスト様のご生涯について書かれた書物があります。またイエス・キリスト様の弟子たちの書き記した書簡も聖書の中には含まれています。神様は、それらを通してイエス・キリスト様がどのようなお方であるかを私たちに教えてくださっています。何よりも、天に昇られたイエス・キリスト様ご自身が、神様を信じ、イエス・キリスト様を神の御子であると信じる者の心に、聖書を通して私たちを教え、諭し導いてくださっているのです。
 イエス・キリスト様は「わたしたち」が神を信じる者の心とその信仰を導く信仰の導き手です。その信仰の導き手であるイエス・キリスト様について私友人の岩本遠億牧師は「指導者がいなくなる時」という3分程度の短いメッセージで語っています。そのメッセージは下記のアドレスをクリックし、岩本牧師の「366日元気の出る聖書の言葉」というホームページに行き、▶マークをクリックすれば聴くことができます。


https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ceg9u?fbclid=IwAR2f-a7KFQM_eMsxI25gGkc-3Rl9-l_BmYuQk8MF3MRvBlDeVW0GBKWICkM

このアドレスは岩本牧師の御許可をいただいてここに掲載しています。

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