私の友人の岩本遠億牧師が、自分のホームページに、音声で「みかんのカビはみかんではない」という2分弱の短いメッセージを載せていました。私はそのメッセージを聴きながら、私の母のことを思い出していました、
私の母は、私がまだ幼い頃、私が何か悪いことをすると、「お前が悪いのではない、お前のこの手が悪いのだ」と言って、私の手を叩き叱りました。私が生意気な事や悪態をついたり嘘を言いったるすると「お前が悪いのではない、お前のこの口が悪いのだ」といって私の口をつねって叱ったのです。手を叩くとか、口をつねるという行為は、今日では体罰だと言われ非難されるかもしれません。しかし、私は母は手を叩かれたということや口をつねられたということ事情に「お前が悪いのではない、この手が、この口が悪いのだ」といった母の言葉の方が、強く心に残っています。それは、悪いことをした私を叱ってはいるのですが、私と言う存在を深く愛する愛情がそこに感じられるからです。
悪いことをした私を叱る。それは息子がより良い人間に育ってほしいと願うからです。そのとき「お前が悪いのではない」と言って叱る言葉の背後には、「あなた」は「本当は良い子なのだ」と言う思いがあります。その「本当は良い子」の「あなた」に悪いことさせたものがいる。それは「あなた」ではない「あなた」の手であり、「あなた」の口なのだ。そういって母は私を叱ったのです。
「お前は、本当は悪い子ではない」。この思いは、神様が私たちに対して抱いておられる思いです。そして、実際に「わたしたち」は神様によって良いものとして造られている。「わたしたち」は神の子供として造られているのです。なのに、現実には、「わたしたち」は、良いことをするだけではなく悪いこともする。嘘や悪態をついたりするのです。そんな時、神様は「お前が悪いのではない。お前に悪いことをさせる罪が悪いのだ」といって、「わたしたち」を「あなた」を、そして私を責め、裁くのではなく、「わたしたち」を支配し、「わたしたち」に悪いことをさせる罪を裁かれるのです。
私の母が「お前が悪いのではない、お前のこの手が悪いのだ」と言い私の手を叩き、口をつねって締まりました。しかし実際には、私の手と私自身とを切り離すことはできません。同じように、「お前が悪いのではない、お前のこの口が悪いのだ」と言って叱った時も、私の口と私自身とは決して切り離すことができません。だから、叩かれ、つねられ痛い思いをしました。でも、それを通して、自分が悪いことをしたということを学んでいったのです。 同じように神様が、「お前が悪いのではない。お前に悪いことをさせる罪が悪いのだ」といっても、その罪はべったりと「わたしたち」自身に絡みつき、「わたしたち」と切り離すことができないのです。
私の母が、「お前が悪いのではない、お前のこの手が悪いのだ」、「お前が悪いのではない、お前のこの口が悪いのだ」と言ってと叱る時、どんなに悪い手を持ち、悪い口を持った私であっても、母は私自身を受け入れ、大切の思い愛情を注いで叱っていたのです。同じように、私たちの父なる神様は、どんなにべっとりと罪が「わたしたち」に絡みついていたとしても、その罪が絡みついたままの「わたしたち」を愛し、正しいものとなるように、「わたしたち」を教え、導き、時には厳しく叱りながら私たちを導いておられるのです。
そのことを思い起させた、岩本遠億牧師のみかんとみかんに生じたカビに譬えて神の愛を語った「みはんのカビはみかんではない」というショートメッセージは、下記のアドレスをクリックし『366日元気の出る聖書の言葉』に行き、そこで「みかんのカビはみかんではない」よ言うタイトルのところにある▶マークをクリックするときくことができますので、このブログの記事と共に、ぜひ一緒にお聴きくださればと思います。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2ddie5?fbclid=IwAR3iR7FZCLq6FOUowS4PQ9JWqaBFF1omv-REkJCs6q8mvZGDxkWh2Ok8xPI
この岩本牧師のショートメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです。
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