2023年12月26日火曜日

貧しくなられた神

 イエス・キリスト様というお方は、キリスト教のど真ん中におられるお方です。このイエス・キリスト様というお方を、神が私たちの遣わされた私たちの救い主として信じる信仰がキリスト教という宗教だからです。ですから、キリスト教と言う宗教にとってこのイエス・キリスト様という存在は最も重要な存在であり、このお方を救い主として信じ、このお方に倣って生きることを求めるものが、キリスト教なのです。

 そのイエス・キリストの誕生は、実際にキリストがお生まれになる何百年も前から旧約聖書に神によって預言されていたことです。それだけではありません。キリストはどのような方で、どんなことをするのかと言ったことまで、旧約聖書はかなり詳しく伝えています。
 その代表的な箇所が、イザヤ書の五十三章と言うところですが、そこにはこう書いてあります。少し長いので、拾い読みします。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。…中略…真に、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 イエス・キリスト様は、神の独り子であり、真の神です。その神であるお方か救い主として人となりこの世界に来てくださいました。なのにその人となった救い主イエス・キリストは、神のひとり子であり神であるにもかかわらず、けっして神々しく、人に尊っとばれるような優れた人間の姿ではなく、むしろ、みすぼらしくて見ばえもなく、人に蔑まれるような存在になられるのだと言うのです。そして、実際にイエス・キリスト様は、家畜小屋で生れ、飼い葉桶にねかされるというところから、その人としての人生を歩み始めるのです。
 そのように、神であられるお方が、それほどまでに貧しく卑しい姿までに身をやつされたのは、神なるお方が私たち人間の、いえ、その人間の中でも、苦しみや悲しみを共に背負って生きている者とと共に生きてくださり、その背負っている苦しみや悲しみと共に担って歩んで下さるためなのです。

 人が立派な存在だと崇められるようになり、富がまし裕福になっていく時、その人はだんだん、現実の世界で苦しみや悲しみの中で生きている私たちと縁遠い人となっていきます。そういった意味では、浮き世離れしていくのです。けれども、実際に私たちの罪がもたらす様々な問題は現実の世界、まさしく浮き世の中で起こっています。その浮き世の中で、苦しみ悲しんでいる私たち一人一人に、救いの手をさしのべ、慰め励まし癒すために、キリストは人となってこの世に飛び込んできて下さったのです。

 今日、もしあなたの心に苦しみがあり、悲しみがあるならば、キリストはあなたのその悲しみや苦しみの心に無関心ではいられません。何とか、あなたの悩み悲しむ心に希望を与えたいと願っておられます。そのためには、人から神として崇められる立場から、私たち人間の姿まで駆け下りてでも、私たちを助け救いたいとそう思っておられるのです。
 だからこそ、神のひとり子であるイエス・キリストがこの世界にお生まれなった。それほどまでに父なる神とその神のひとり子であるキリストは、にあなたを愛しておられるのです。

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