昔、神学校の学生だったときに、教授の一人が愛について教えてくださいました。その教授が言うには、愛には二つの愛があるというのです。一つは、なぜ愛するのかその理由や分けなどわからない。ただ、愛おしくて、愛おしくてたまらないから愛するという愛です。そしてもう一つは、その教授は、これおを不条理な愛と呼んでおられました。
そしてもう一つの愛は、「あなたを愛する」と決断し、愛すると約束したからこそ、何があっても愛し続けるという意志的・決断的な愛です。それを先の教授は「契約の愛」と呼び、神様の愛は、この不条理な愛と契約の愛と両方を持っておられるというのです。どういうことかというと、「わたしたち」人間は、神様から愛されるような理由や愛されるにふさわしい資格など持ち合わせていない。だけども、神様はたとえそうではあっても、「わたしたち」人間を愛さずにはいられないというのです。そこには、神様の中に湧き上がるような熱い情熱的な愛があるのです。おそらく神様も、なぜ「わたしたち」愛するかわからないのではないでしょうか。ただひたすら、情熱的に「わたしたち」を愛し、ご自分の民となさろうとしておられる。だからこそ、神様は、「わたしたち」を神の民とし、神の子とする約束(契約)を与えるのです。そして、神様は、ひとたび「わたしたち」を神の民とし神の子とする契約を結ばれたならば、「わたしたち」の側に何があっても、私たちを神の民として取り扱われ、神の子として教え育まれるのです。そこには、どこまでも約束に忠実であって、真実を貫く忍耐強い神様の愛があります。
旧約聖書を見ていますと、神様から「あなた方を神の民とする」と約束された(契約を結んだ)イスラエルの民の歴史を見ることができます。そこには、賞賛されて当然と思えるような人も若干は出てきますが、そのほとんどが、神に背を向け生きるイスラエルの民の歴史であり、そのつど神が、イスラエルの民を懲らしめながら、イスラエルの民を導こうとする、どこまでも約束に忠実で真実な神様の愛を見ることができます。それだけに、一生懸命イスラエルの民を神を信じる信仰の故に、正しい道へ導き、神の民として夜相応しく整えようとする神様と対照的に、自分勝手に生き、困った時だけに神様を求めるイスラエルの民の姿に、自分勝手な「わたしたち」人間の姿を見、その「わたしたち」の中のひとりである「わたし」の姿を見て、そこに、愛する理由、愛される理由などなく「わたしたち」を愛する熱い情熱的な神様の愛を感じずにはいられないのです。そして、その熱い情熱的な愛があるからこそ、どこまでも約束に忠実で真実な「契約の愛」に生きる神様の姿があるのです。
その神様の熱い情熱的な愛が、神の独り子であるイエス・キリスト様を人としてこの世界に送り出すというクリスマスの出来事を起しました。それは、イエス・キリスト様というお方を通して、イスラエルの民だけでなく、すべての人を神の民とし神の子とする新しい契約を私たちに与えるためです。そして、その約束(契約)のゆえに、神様は、何があっても「わたしたち」を裏切ることなく、「わたしたち」を教え、導き、神の民、神の子として整えて行ってくださるのです。
こうしてみますと、神様の内には「熱い情熱的な愛」と「何処までも冷静に真実を尽くす愛」があることがわかります。この神様の二つの愛の中で、愛する理由や愛される資格を求めない、熱い情熱的な「不条理な愛」について、私の友人の岩本遠億牧師が「愛に理由はない」という2分ちょっと(音楽を含むと4分)の短いメッセージで語っています。その岩本牧師のショートメッセージは、神のアドレスをクリックし、新しく開かれたページで「愛に理由はない」というタイトルのところにある▶マークをクリックすれば聴くことができますので、併せてお聴きくださればと思います。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2d7921?fbclid=IwAR0X7fuj5KEEz3cJSs-b4jSHyqTmUo3xbhDStqgGCLR38xMbBr8fBz99FY0
このメッセージは、岩本牧師の著書『366日、元気の出る聖書の言葉』にあるものを音声にしてお伝えしているものですが、岩本牧師の御許可をいただいて転載したものです
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