2023年12月5日火曜日

委ねるよろこび

病院のベッドに横たわり眠っていると、自分自身の力ではどうにもできないことを思い知ります。私のような昭和世代の人間で、部活動でスポーツをやって来た人間は、「病気などは気力で何とでもなるもんだ」などと言いがちですが、そんなことは大ウソで、病気になるとやはり自分以外の助けが必要になります。

 病気そのものへのケアは、医師や看護師の助けが必要ですし、心のケアはカウンセラーと言った人の助けが有益です。それ以外にも、どうしてこんな病気になったのだろうかとか、病気によって多くのことを失ってしまうかもしれもしれない喪失感への漠然とし不安を感じることに対するケアというものがあります。このような喪失感の最も大きなものが、自分の存在そのものが喪失してしまう喪失感、つまり死に対する不安です。
 このような喪失感を医学の世界ではスピリチャルペインと言います。スピリチャルペインとは霊的痛みとでも訳されるものです。霊的痛みというのですから、このスピリチャルペインの問題に関わるのは、多くの場合、宗教関係者であるケースが見られます。アメリカなどでは、すでに医師とカウンセラーとチャプレンと呼ばれる病院専属の牧師がチームになって治療に当たるシステムが広く行われているようです。
 喪失感というものは、失うということですから、自分が持っているもの、手に握りしめているものへの執着が引く起すものです。自分の手に握りしめておかなければならない執着は、それが自分の心のよりどころとなっているからです。だから、それを手放すことができない。けれども、それを一つ一つ手放して、人に頼る、誰かに頼るということを「わたしたち」は学んでいく必要があるのではないでしょうか。「わたしたち」は生まれてきて、色々なことを学び、身に着け、できるようになっていくその一つ一つの過程で喜びを感じてきました。周りも、一つ一つできるようになっていく「わたしたち」の姿を喜び、またほめてくれて来たのです。
 しかし、私たちはそうやって成長してきたのですが、しかし、どうじに、人に頼り、自分を誰かに委ねるということの大切さと、ゆだねることの喜びを忘れてしまって言っていたのです。自分自身で頑張って何とか手に入れることができる喜びも大切ですが、頑張ってもどうにもならなないことを、自分自身の手から手放して人に委ねることによって得られる安堵感や喜びも大切なのです。
 病気になって、自分の健康を医師や看護師の方に委ねる、「気力では何とかなる」の気力の部分を観セラーの方に委ね、自分の存在の意義と意味、つまり命の問題までも、牧師を通して神様に委ねる中で、私たちは手放すことの大切さと喜びを知っていくのです。
 しかし、牧師を含め宗教関係者の中で、祈りで病気を治すということを強く言われる方々がおられます。そういった方の中には、医師にかかることよりも「祈れば癒される」的なことが言われる方があることを知っています。私自身、祈りを通して病気が治られたという事例を見ていますし、そのようなことがあることも知っていますので「病の癒しのために祈ります」ですから、「病の癒しのための祈り」を否定はしませんが、医師の治療を否定し、「祈れば必ず治る」というような指導をするような方々は、正直あまりおすすめできません。それは、自分自身の存在をも委ねる喜ぶを阻害し、むしろ執着を助長するからです。
 この委ねることの大切さを、私の友人の岩本遠億牧師が「全てに勝る喜び」という三分ちょっとの短いメッセージの中で話しています。その岩本牧師のショートメッセージは、下記のアドレスをクリックして『366日元気の出る聖書の言葉』というページに行き、そこで▶マークをクリックしてくだされば聴くことができます。

https://podcasters.spotify.com/pod/show/genki-seisho/episodes/ep-e2cqbnb?fbclid=IwAR2gR2DmpAvkNcQS7r4E2IMu5mK7ZqHHe3pk6f5kfT3LoQ5zWXWs6RYfbr0

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